第三十七夜 蛇と大君 -4-
獰猛な夜の獣の怒りに晒され、危うく死にかけたシャイタンでしたが、面食らっていたのもそう長いことではありませんでした。いったん野営の準備が整うと、彼は歩き通しで強張った脚を放り出し、味気ない保存食を物珍しげに頬張ったあと、見張りに加わろうとする様子もなく、地面の固さにぼやきつつも、すぐにぐうぐうといびきをかきはじめました。
タルナールとネイネイは、そこから少しだけ離れた場所に座り込み、傍らで身体を休めているマヌーカに、じっとりとした視線を送っておりました。
「あえて言う必要もないかと思ったけど、シャイタンは……」
「まあ、長らく秘密にしておくというのは、どだい無理な話でございました」
タルナールが言っているのは、もちろんシャイタンの正体についてのことです。
「やっぱり、守護者なんだな」
「ご賢察の通り、ダワール・クム・シャルカン殿下が、旅の騎士に身をやつしておいでなのでございます」
アモル鋼でできたシャイタンの曲刀。鍛冶の技量をも加味すれば、小さな城ひとつほどの価値を持つ逸品です。たとえシーカの地方領主やダバラッドの部族長、カリヴィラの豪商といった人物であっても、よほど無理をしなければ手に入れることの叶わぬ贅沢品です。
そのようなものはふつう、武器というよりもむしろ宝物として扱われ、壁にかけて眺めたり、式典の際に持ち出したり、後生大事に宝物庫で眠らせておいたりするもので、意気揚々と戦いの場に持ち込んで振り回すなどということは、とんでもなく酔狂なおこないと言えるでしょう。
もしそれを実行する人間がいるとすれば、きっと桁外れの富と大器の持ち主に違いなく、そんな者はラマルエルナ全土を見渡しても、片手で数えられるほどしかいないのです。
「なぜ彼がここに? まさか、ただの物見遊山ってわけでもないだろう」
「はばかりながら陛下の御心を推し量りますに、そのまさかかと」
マヌーカはわざとらしいくらいの慇懃な口調で言うと、面紗の下で真意の知れない、複雑な表情を作りました。
「平時でも大概だけど、いまの情勢でそんなことをするなんて」
「同感でございます」
「でも、あなたはそんな者を王にした」と、それまで黙って話を聞いていたネイネイが、険しい表情で言いました。「それも、与えられた使命に背いて。……蛇の術師、ザク=ワク」
そう。それもまた、大猿と戦ったとき、タルナールが確信を抱いたことのひとつでした。
里の魔術師候補たちが怖れた異端者。自らが助けるべき太子を逆に暗殺するという大罪を冒した毒婦。シャイタンがマヌーカの知己であるような態度を取ったのも、彼女がザク=ワクであると考えれば合点がいきます。
自らの正体を看破されることも想定のうちだったのでしょう。マヌーカは無言で肯定を示したあとで再び口を開き、ゆっくりと過去の出来事を語りはじめました。
*
里の師より、カリーム太子に仕えよとの使命を与えられ、マヌーカがムジルタからダバラッドにやってきたのは、ネイネイが里を出る六年ほど前のことでした。
広大な市街の中央にある、カリヴィラの煌びやかな白い宮殿。そこには既に何人かムジルタの魔術師がおりましたし、マヌーカが身に着けた医術や薬草術はなにかにつけて有用なものでしたから、彼女は大した詮索も試験もなく、宮殿に受け入れられました。
数日のうちに当時御存命だったダワール・ハル・ハキム殿下に拝謁を許され、同じ日には、その長子であるカリーム太子へのお目通りも叶いました。
マヌーカが少し言葉を交わした際の印象からすると、カリーム太子は謹厳にして思慮深く、慎重な人物であるように思われました。若くして様々な学問を修め、細々とした政治の実務にも通じておりましたが、一方で融通の利かないところがあり、また余人を近づけない、冷徹な雰囲気を感じさせるところもありました。
このとき、ハキム殿下は既に長らく病を患っており、もう数年もすれば、マヌーカの師が予言した通り、カリーム太子が九代目の守護者、すなわちダワール・クム・カリームとして地位を継ぐだろうということは、ほとんど確実な将来と思われました。
カリーム太子も当然それを自覚し、既にいくつかの方面においては父の名代として、実際に政をおこなっているようでした。
カリーム太子のほか、ハキム殿下にはもうひとり、シャルカンという子があることを、マヌーカは知っておりました。しかしその後宮殿で長く過ごす間も、マヌーカはほとんど彼の姿を見ることはありませんでした。
宮殿で働く典医や侍従によると、シャルカン太子は実直な兄と違って放蕩を極め、昼間から市街に繰り出して愛人と情事に耽ったかと思えば、夜は下賤の者が集うような酒場に顔を出し、派手な宴会を催すなどやりたい放題。
太子の立場などなにするものぞ、為政者としての品格や学識など取るに足りぬといった態度を大っぴらにして隠さず、近臣も頭を抱えることしきり、との評判でありました。
守護者の位は代々長子が継ぐことになっておりますから、もし兄弟の順が逆であったなら、と一部の人々は身を震わせながら、また別の人々は面白半分に語ることも、半ば恒例と化しておりました。
とはいえ、マヌーカは典医としての立場から、医術や薬草術をもって仕えることだけが責務でしたので、世継ぎ云々、シャルカン太子の醜聞云々といった出来事とは、ほとんど関わりなく過ごしました。
長らく病身である守護者に薬を調合し、その痛みや苦しみを和らげるほか、近臣や近衛兵の病を診ることもしましたし、ときには彼らの奴隷の面倒を見てやることもありました。
後宮に住まう妃や側室が身ごもった際の処置――望まれぬ胎児や赤子を殺すことを含め――も典医の役割ですが、守護者の陽物は随分と前から元気がなくなっておりましたので、もっぱら彼女たちに対しては、暇つぶしの相手やご機嫌取りが主な仕事となりました。
典医としての役割はともかく、気位の高い女たちの相手とは、なんとも面倒な仕事であることか。はじめのころ、マヌーカは憂鬱な気持ちでおりましたが、何度か妃や側室たちと話すうち、彼女らが案外おおらかで親切な人間であることに気がつきました。
マヌーカの瞳の色も、並外れた手足の長さも、生まれつき身体にある痣を隠すように入れた蛇の刺青も、側室たちは珍しがりこそすれ、決して蔑むような言動はとりませんでした。それどころか、自分たちが持つありきたりなで退屈な美より、よほど素敵な個性だと褒めさえしたのです。
そんな側室たちから、マヌーカは歌や縫い物を習いました。代わりにマヌーカは――ちゃんと理解できた者がいたとは思えませんが――里で習った魔術の理について話して聞かせたりもしました。
後宮の外に出ることのできない彼女らのために、宮殿の外で愉快な噂や珍しい物品を仕入れ、それを土産に持ち帰るということもしました。
それは典医の仕事の合間に訪れる、思いがけず穏やかな時間でありました。
しかしあるとき、転機が訪れます。
マヌーカが宮殿で働くようになってから、三年が経っておりました。その間、ハキム殿下の体調は、段々と悪くなっていきました。
典医たちが役に立たなかったというわけではありません。殿下が患っていたのはもとより不治の病であり、医術や薬草術にできることといえばせいぜい苦しみを和らげ、迫りくる死の御使いの目を、少しの間欺くことぐらいだったのです。
崩御が近いとなれば当然、後継の準備が内々に進みます。順当にいけばカリーム太子が守護者となり、現在、ハキム殿下の名代として手掛けている事業はそのままに、新しい事業についても、大した憂いなく引き継ぐことになるだろうと思われました。
ところが、この時期に意外なことが起こります。以前と変わらず放蕩であったシャルカン太子の守護者継承を待望する声が、宮殿のあちこちで挙がりはじめたのです。
実のところ、シャルカン太子を推挙する勢力の背後には、大臣であるアズバァイルの意思がありました。
彼は表立ってその考えを支持しませんでしたし、真実の心のうちを知ることはできませんが、おそらく有能なカリーム太子よりもシャルカン太子を守護者とし、傀儡として操ることで、ダバラッドの実権を握ろうと考えたのでしょう。
カリーム太子にとって厄介なことに、シャルカン太子は民衆からそこそこの人気を得ておりました。気さくに庶民と交わり、夜な夜な街を漫遊する風雅な遊び人として、一種の憧れとなっていたのです。
もしかすると本当に、シャルカン殿下が誕生するかもしれない。
とはいえカリーム太子も賢明な人物ですから、事態を座視してはおりませんでした。古今東西の歴史において、後継問題をこじらせることで国家に益があった試しはありません。
負けた方が失脚したり処刑されたりするだけならまだしも、悪くすれば大規模な内乱や外国勢力の介入を招き、安定していた支配体制が一夜にして崩壊、国家の消滅に至ることだってあり得るのです。
争いを避けるため、平和裏に守護者を譲るとしても、相手があのシャルカンでは……。
だからカリーム太子は迅速に、かつ断固とした策を講じました。
すなわち、実弟であるシャルカン太子の暗殺です。
そして暗殺の実行者として選ばれたのが、ほかならぬマヌーカでした。
カリーム太子は計画の漏洩を防ぐためか、マヌーカの居室を直接訪れ、自らの口でシャルカン太子に毒を盛るよう持ちかけてきたのです。
そなたが授けられた使命は存じておる。いまこそ我に手を貸すときである、と。
マヌーカは頷きました。
医術と薬草術に通暁するマヌーカは、毒の調合方法も充分以上に心得ておりました。毒見役がつくほどの貴人を殺害するために選んだのは、二種の薬。
ひとつは効き目の長い致命の毒。もうひとつは、それを中和する効き目の短い薬です。二種を混ぜあわせて同時に飲ませれば、服用者はしばらく平然と過ごします。しかし中和薬の効き目が切れたとたん、毒が速やかに心臓をとめてしまうのです。
慎重に調合した粉末状の毒と薬を、マヌーカは宴に持ち込みました。ハキム殿下の生誕から五十八年目を祝う、一年のうちでも最大級の宴です。
このときばかりはさすがのシャルカン太子も広間に顔を出し、なにを警戒する様子もなく、上等な酒や料理をしこたま腹に収め、至極満足げな表情を見せておりました。
料理人や給仕の奴隷たちが行き交い、忙しさのあまり近衛兵までが働かされている厨房。魔術師がひとり紛れ込んだところで、大して気に留める者もおりません。マヌーカの目の前には、調理台に置かれたふたつの盃がありました。
ひとつはカリーム太子に供するための瑠璃の盃。もうひとつはシャルカン太子に供するための翡翠の盃。どちらにも、北方の海に浮かぶ島々のひとつから取り寄せた、強い芳香を放つ珍奇な蒸留酒が注がれておりました。
そしてマヌーカは一瞬人気が絶えたときを見計らい、懐から取り出した無味無臭の毒と薬を、こっそりと盃の中身に混入させました。
暗殺せよと命じられたシャルカン太子ではなく、自らが助けるべき相手とされた、カリーム太子の盃に。




