第四部:オーヴェル侯爵家からの脱出
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私は、虚しさに飲み込まれそうになっていました。
全てのことが一点に吸い込まれていきました。
だからこそ考えてしまいます。
なぜわざわざ嘘をついたの?
最初から打ち明けてくれていたなら・・・。
せめて二年間の結婚生活のどこかで伝えてくれていたなら・・・それならそれで、別の未来を一緒に考えたのに・・・。
一緒に・・・・いえ、私たちは、一緒に何かを乗り越えるほどの関係になれていたのだろうか?
・・・・私に一体何ができたというのだろう。
しばらく考えても、何も答えが出てきませんでした。
今は侯爵邸から離れたい、それだけしか思いませんでした。
とりあえず、お借りしたハンカチを返しに行くことにしました。今やらないといけないことは、これしか思いつきませんでした。
王都の通りに着くと、私は”あっ!”と声を出していました。ブランナー先生の医院がどこにあるのか知らなかったのです。自分は冷静だと思っていましたが、違ったようです。私は思わず自分の無計画さに笑ってしまいました。
そして、ふと気がつきます。
早く帰らなければとか、もう気にしなくていいのだと。
そう思っただけでもじわじわと楽しくなり、楽しいという気持ちを久しぶりに感じたことが嬉しくなります。傍から見ると、さぞかし変な人だったことでしょう。
でも、王都の通りを歩く人たちは、皆楽しそうにしていて私のことなど気にしていません。
私の行動を誰も気にしていない、それもまた心地よい感覚でした。
私はお店を眺めながら、しばらく歩くことにしました。
歩いてみると、世の中にはこんなにいろんなお店があったんだ、と気づきます。そんなことすら、私は忘れていました。
素敵な雑貨店もあります。こういう雑貨に囲まれて暮らせたら幸せだろうなと思いながら、店内を見回すと『求人 住み込みの店番 三号館』とありました!
短時間で感情が大きく揺さぶられていたせいかもしれません。
この時の私は頭で考えるより先に、声に出していました。
「すみませーん。求人見ましたー!私を雇ってください!」
それは貴族女性が言う言葉ではありませんでした。
「はーい。・・・あら!?ソフィア様?」
奥から出てきたのは、ハンカチを貸してくれたジェイン様でした。
「えーと・・・・あ、エマさんに会いに来られたのですね。少しお待ちくださいね。もう少ししたら他のお店の見回りを終えて戻られますから」
え? あ、もしかしてここはエマ様のお店?
私が、どう言ったらいいのか考えていると、後ろからハキハキとした声をかけられました。
「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
振り返ると、学園卒業以来、四年ぶりとなるエマ様の姿がありました!
「え!?ソフィア様!?」
奥の小部屋に案内され、再会を喜んだ後、私は今自分がどういう状況にあるのかを、手短に説明しました。そして、実家には頼れないので、住み込みで働かせほしいと伝えました。
エマ様は、突然旧友が現れ、働かせてほしいと言ってきたにも関わらず、真剣に考えてくれました。
「義姉に手伝ってもらうぐらい人手不足だから、働いてもらえると嬉しいですけど、友人を雇うのは・・・慎重にしたいと思います」
「何でもします!」
「ソフィア様・・・申し訳ないのですが・・・私、兄と義姉から、ソフィア様のことを少し伺っています。もちろん診察内容のことではないですよ。その、違っていたらごめんなさい。・・・・・・何と言いましょうか、ソフィア様には時間が必要な気がします」
「・・・・・」
「ソフィア様が一週間で侯爵家を出なければいけないのはわかりました。実家に頼れないという気持ちもよく理解できます。・・・・なので、上手く言えないのですけど、ソフィア様が回復されるまで、ここで過ごされたらいいと思います。そして気持ちが落ち着かれたら、ご実家にご連絡した方がいいと思うんです。それまでは、ここの住み込み用のお部屋をお貸しします。お店のお手伝いは、お願いいたしますね。お給金はお出ししますから」
「ありがとうございます!!・・・・・でも、それは雇うことと違うのですか?」
「そうですね、義姉がお店を手伝ってくれる時も、手伝ってくれた分だけお給金を渡しています。それを雇っていると言わないのと同じ感覚です」
「・・・・とにかく、ありがとうございます!! 私、一週間後にまた来ます」
「ソフィア様・・・これは私の考えですけど、飛び出すと決めたのなら、迷わず行動に移された方がいいと思います。お部屋は整っていますので、一週間後と言わずに、いつでも大丈夫ですから」
帰り際、私は店番をしていたジェイン様に、ハンカチをお返しし、この間のお礼を述べました。
「ジェイン様、この間は本当にありがとうございました。本当に・・・・・久しぶりに泣けました。先生にもよろしくお伝えください。・・・・・”わかりました”と」
私は、オーヴェル侯爵邸に戻ると、自分の荷物をまとめ始めました。行く先ができたと思うと、気持ちが軽くなっていました。見ると心がズキッとするので、見ないようにしていた刺繍の道具も、カバンにしまいました。侯爵夫人と呼ばれていたわりには少ない荷物です。可能な限り侯爵家で与えられた物は置いていくことにしました。
荷物をまとめ終わると、今なら離縁届を書けるかもしれない、という気になりました。昼間には、見るだけで心を切り裂かれるように感じた離縁届も、冷静さを取り戻した今では、ただの書類に見えます。
まさかこんなものを書くことになるなんて・・・・・。
それでも、やはりサインするときは胸が痛みました。
唯一幸いなのは、慰謝料を払えと言われなかったことでした。もし言われていたなら、成人しているとはいえ、私とハワード様の問題で収まらず、オーヴェル侯爵家とグリーグ伯爵家のやり取りも発生していたことでしょう。
***
次の日、私はそっとオーヴェル侯爵邸を出て、広い通りに行き、辻馬車で王都の通りへ向かいました。飛び出すと決めたなら行動に移す方が良いと、エマ様に言われたことはその通りだなと思いました。いざ行動に移してみると、何をためらっていたんだろうという気がします。
お店に着いて、エマ様に挨拶しようとしましたが、今日は不在でした。店番の方が事前に聞いていたようで、お店の裏から二階に案内されました。荷物を片付けようと、カバンを開けると・・・”しまった”と思いました。離縁届を持ってきてしまったのです。
とりあえず、部屋にあったデスクの引き出しにしまうと、荷物を片付けました。
片付け終わると、ここまで辿り着いた安心感からか、エマ様に起こされるまで、私は眠り込んでいました。そして起こされたときには、離縁届のことをすっかり忘れてしまっていました。
翌日は、エマ様のお店はお休みでした。
「ソフィア様、今日はお店の定休日なんですよ。昨日来られたばかりでお疲れだと思いますから、しばらくゆっくり休んでくださいね。お店のお手伝いは、この街に慣れてからにしましょうか」
「ありがとうございます。私、今日は少しこの辺りを散策してみようと思います」
「ご無理はなさらないでくださいね。焦らなくても大丈夫ですよ。そうだ!この通りを少し歩いたところにおしゃれなカフェがあるんです。一緒に行ってみませんか?」
「ぜひ!」
天気の良い穏やかな日でした。
私はエマ様と他愛のない話をしながら、通りを歩きます。エマ様は、私に聞きたいことがあるのかもしれませんが、決して踏み込んできません。学生時代からそういう方でした。懐かしい気持ちでお話をしているとカフェの前に着いていました。
「ここです。このカフェ、二階席があって、一階席を見下ろせるんですよ。一階席は通りの景色を楽しめますし、二階席は上から店内の観葉植物やお花を楽しめるんです。どちらがいいですか?・・・え?ソフィア様、どうかしましたか?」
「あ、いえ、迷ってしまって・・・。そうですね、二階席がいいです」
「じゃあ、そうしましょう」
───どちらがいいですか?
私は一瞬、キョトンとした顔をしたのではないかと思います。
自分の希望を聞かれたことに戸惑ってしまったのです。
そして自分の希望をずっと聞かれていなかったことにも気づかされ、ハッとしていました。
二階席に行き、エマ様からメニューを渡されます。
「私は、紅茶とアップルパイを頼むって決めているので、ソフィア様はお好きなものをゆっくり選んでくださいね」
私は、自分で好きなものを選べることに、心の中ではしゃぎながら、メニューを隅から隅まで見ました。迷いましたが、エマ様が頼むと決めているアップルパイが美味しそうな気がします。
メニューから顔を上げて、エマ様に伝えます。
「私も、紅茶とアップルパイに───」
───息が止まるかと思いました。エマ様の肩越しにお義母様の姿が見えたのです。二階席の離れたところにお義母様もいました。あちらは、同席の方とお話が弾んでいるのか、こちらには気がついていません。
「ソフィア様、どうかされました?」
突然停止した私に、エマ様は不思議そうに聞きます。
「お義母様が──」
エマ様は、さりげなく私の視線の先を確認します。
私は、お義母様から視線を外すことができませんでした。時折、同席の方と一階席を見ながら、楽しそうに談笑しています。
お義母様たちの視線の先を辿っていくと、ハワード様と見知らぬ女性の姿がありました。
私は一瞬で、状況を悟りました。
エマ様も私の視線を辿り、一階席へ目を向けます。すぐに誰だかわかったようです。
「っ!!・・・ソフィア様、とにかく出ましょうか」
「はい、───行きます」
「ええ。・・・・・えっ!?」
私は立ち上がると、真っ直ぐにお義母様のところへ向かっていました。お義母様は、自分に近づいてくる女性が私だとわかると、ギョっとした顔をされました。
「なっ!?・・・なっ!?」
お義母様は、言葉にならないぐらい動揺されています。お義母様はこんな表情もするのね、と他人事のように見ている自分と、何を言うべきか考えている自分がいます。お義母様には聞きたいことがたくさんあります。数秒の間にいろんなことが浮かびましたが、口をついて出てきた言葉は短いものでした。
「お義母様、本棚の本、拝見いたしました」
その瞬間、お義母様の顔色がサッと変わりました。何のことを言われたのかわかったようです。
同席の方は、私とハワード様を仲介した方でした。
「ちょっと、貴女・・・・え!? 貴女!? どうして!?」
突然現れた私に、焦っているようですが、私が説明する必要はありません。
さっさと立ち去ると、私は階段を下りて、一階席のハワード様のところへ一直線に向かいました。ハワード様は、私に背中を向けて座っていました。店内の女性たちが、ちらちらとハワード様を見ています。ハワード様の向かいに座る綺麗な格好をした女性も、うっとりとした表情でハワード様を見ています。
ハワード様に近づいて行くと、久しぶりにハワード様の声が聞こえました。
それは、優しい紳士的な声でした。
「僕はね、君の純粋そうなところに惹かれたんだ。君のことは以前から知っていたよ」
「前の妻はね、僕の仕事に協力的じゃなくてね・・・母を愚痴の聞き役にしてて・・・」
───ああ、これは二年前の光景を見せられているんだ。
二年前の愚かな私。
これからオーヴェル邸の生贄になるとも知らず、浮かれていた私。
ハワード様とお義母様。
この人たちは、人を人として見ていない。
ハワード・オーヴェルの『妻』は、取り替え可能な『物』だと思っている。
私の中にあった、ハワード様の過去への同情心は消えていました。
先に女性の方が、私に気がつきました。自分たちの席に向かってきていると認識したようです。ハワード様に向けていた視線を、私の方に向けました。女性の視線が違う方に向いたことに気付いたハワード様は、遅れて私を見ます。
ハワード様は驚いた顔をし、すぐに憎悪に満ちた顔で私を睨みつけてきました。
女性は、その横顔を見てしまったのでしょう。怯えたように、ハワード様を呼びます。
「ハ、ハワード様?」
ハワード様が、慌てて取り繕います。私はその隙をついて一気に言いました。
「ご無沙汰しております。ごきげんよう、オーヴェル侯爵様」
それだけ言うと、私は向きを変え、カフェのドアの方へ歩き出しました。
ハワード様は、人前では紳士的な態度を崩さないとわかっていました。
走って逃げだしたい気持ちを抑えながら、私はゆっくりと店内を歩きカフェの外へ出ました。そして、カフェから見えない場所にまで来ると、猛然と走り出しました。街の人が振り返るのも構わず、住み込みの自分の部屋に駆け戻りました。
心臓がバクバクしています。
走ったことによるものなのか、ハワード様と対峙したことによるものなのか、心臓はなかなか落ち着いてくれません。
しばらくして少し落ち着いてきたところで、部屋のドアがノックされました。心臓がまた跳ね上がりましたが、ノックしたのはエマ様でした。
「ソフィア様、いらっしゃる?大丈夫ですか?アップルパイお持ち帰りしてきたので、一緒にいただきましょう」
エマ様は、紅茶を用意して、アップルパイをテーブルに置くと、私がカフェを出た後の様子を教えてくれました。
「エマ様、ごめんなさい。一人だけ先に帰ってきてしまって・・・」
「あの状況では仕方ないですよ。私もすぐ出ることはできたんですけど、知り合いだとわからない方がいいかと思って。私を通して居場所がばれてしまう可能性もありますし。一人で来たふりをして、しばらく座っていたんですよ」
「そこまでお気遣いいただいて・・・申し訳ございません」
「そんなこといいんです。それにしてもソフィア様、勇敢でした。あの後なんですけど、実は、特に目立ったことはなかったです。二階席のおば様方は少し揉めていたようですけど、有耶無耶になったみたいです。一階席の方は・・・・女性が急に具合が悪くなって帰られたようですね。ふふふっ」
敢えて明るく接してくださるエマ様に、私は今までのことを、もう少しきちんとお話ししなければと思いました。
婚約破棄されて、自信喪失していたところに両親が持ってきてくれた縁談であったこと。
私は愚かにも見た目と甘い言葉に心を奪われたこと。
実際にともに生活してみると、支配的な方だったこと。
無視されたこと。
誓約書を書かされたこと。
そして男性医師と会話しただけで離縁を言い渡されたこと。
先程のは、おそらくハワード様と新しい女性との顔合わせだったこと。
「なんですか、それ!?普通ではありませんよ」
エマ様は、普段淡々とされた方なのですが、私の話を聞き怒ってくれました。私は最初、全てを話すつもりでしたが、暴力を振るわれたことは言いませんでした。私の話を正面から受け止めてくれるエマ様を見て、逆に、全てを共有してもらおうなんて駄目だと思い止まりました。
ハワード様の過去についても、私が人に話すことではないので言いませんでした。
「エマ様、聞いていただきありがとうございます。話しているうちに頭の中が整理できた気がします」
「それは良かったです。・・・ソフィア様、しばらく用心された方がいいと思います。お話を伺うと、ハワード様はとても危険な人のようです。カフェでのこともあるので、今度会ったときには何かされるかもしれません。私の知り合いの騎士に、お店の周りの巡回をお願いしておきます」
「え、そんな騎士の方にお願いするなんて・・・」
「大丈夫です。知り合いですから」
ほんのりエマ様のお顔が色づいた気がします。
「もしかして・・・・・騎士の方は、エマ様のお付き合いされている方ですか?」
「・・・・・お付き合いというか・・・・まあそう・・です。でも、今の私はエマール商会が一番ですから。・・・ケインもまだ修行中ですし」
「ケイン様とおっしゃるのですね」
「あっ・・・」
ケイン様は、エマ様のお店に買い物に来たお客様だったそうで、妹さんへの贈り物を一緒に選んであげたことが縁でお付き合いするようになったとのことです。
エマ様は、子どもの頃にご両親をなくされているせいか、ご自分の足で立つという姿勢が、学生の頃からハッキリ見て取れました。そんなエマ様の新しい一面を見ることができ、私はなんだかエマ様との距離が縮まった気がしました。
「エマ様のお話をお聞きしたら、一段とアップルパイが美味しくなりました」
「なんですか!?それ」
エマ様とお話しするなら楽しいほうがいい。
私はそう決めました。
アップルパイが食べ終わるころには、エマ様と私は、学生時代の感覚で話せるようになっていました。




