第三部:オーヴェル侯爵邸の歪
(4384字)
私は、オーヴェル侯爵邸での生活が、一生続くものだと思っていました。
しかし、終わりは突然やってきました。
しかも、ハワード様が勝手に終わりを決めました。
お義母様のところにお客様が来ていた日です。
お義母様のところには、普段でも時々お客様が来ていました。一人は、毎月私が診察を受けている女性医師で、もう一人はこの縁談を仲介した遠戚の女性でした。どちらもお義母様の幼馴染と聞いています。
この日来ていたのは、女性医師の方でした。
私は、お義母様に頼まれて、お茶の用意をします。いつの間にか、来客があると、侍女ではなく私がお茶の用意をすることになっていました。
そこへ、挨拶をしにハワード様がやってきました。
「先生、妻がいつもお世話になっております。母のお相手も、いつもありがとうございます」
「ふふっ。どういたしまして。貴方もすっかり立派な侯爵様ね。ソフィアさんと結婚してからオーヴェル侯爵領の管理が隅々まで行き届いているって評判よ。よかったわね」
「ええ、おかげさまで」
ハワード様の口端が歪むのが、私にはわかりました。
「それより先日は悪かったわね。せっかく診察に来てくれたのに代打の先生で。今、特殊な風邪が流行っているでしょう。実は王宮内でも流行っていてね、人手が足りなくて、朝急に王宮に行かなければならなくなったのよ」
「あ、いえ・・」
私は曖昧に答えました。
ハワード様の笑顔が止まりました。
「この間は先生の診察じゃなかったのですか?」
「ええ、ごめんなさいね。でも彼優秀だから心配ないわよ。身分はまあ、あれだけど、実力はあの世代では一番ね。代打だから薬の処方しかお願いしていないけどね」
「彼?・・・男性ですか?」
「そうよ。あら!やきもち?ご心配なく。女性医師希望の方に、いきなり男性医師の診察を受けさせたりはしないわよ。それに看護師も同席しているはずだから」
ハワード様の目が冷たく光ります。
「先生、ありがとうございます。僕と妻はそろそろ仕事に戻ります。どうぞごゆっくり」
ハワード様は、席を立ち付いてくるよう、視線で私に促しました。
会話の途中から、私は嫌な汗をかき始めていました。
応接室から離れた夫婦の部屋に入ると、ハワード様は言葉を発する前に、私の頬を思い切り引っ叩きました。私は床に無様に倒れました。頬は一瞬にして熱を持ちました。体を起こそうと態勢をとる前に、ハワード様は私の上に乗り、仰向けにして押さえつけました。
「なんで先生が代わったこと言わなかった!僕以外の男と接するなと言っただろう!」
「お医者様に薬をもらうだけだからいいかと───」
「言い訳をするな!誓いを立てただろう!疚しいことがあるから言わなかったんじゃないのか?本当は診察を受けたんだろう!薬を受け取るだけにしては、あの日帰ってくるのが遅かったな!!」
「ちが、違う!混んでいたから・・・っ」
「嘘をつくな!」
「嘘なんて・・・・っう」
ハワード様の手は、両肩から首元に迫っていき、今や完全に首を押さえつけていました。徐々に息ができなくなり、視界が滲み、もう限界にきていました。意識が途切れる直前というところで、やっと手が離れました。
「ンハッ・・・ゲホッ、ゲホッ・・・・ゲホホッ・・」
ハワード様は立ち上がると、私を顔から足までゆっくりと眺め、吐き捨てるように言いました。
「汚らわしい!貴様は離縁だ。出ていけ」
私は、倒れたまま咳込んで、しばらくの間必死に呼吸を整えることしかできませんでした。
私が医院に行く日に急に休んだ侍女は、翌日からいなくなっていました。
***
再び無視される生活が始まりました。
屋敷の者は、侯爵様のいつもの”不機嫌”が始まったぐらいに思っていたのでしょうが、私には全然違うものだとわかりました。
今までの無視は、無視していることを私に知らしめる無視でしたが、今回は完全な無視です。ハワード様は、夫婦の部屋から自分の荷物を引き上げ、結婚前の自分の部屋に移動しました。遠くからでも私が視界に入ると向きを変えて、徹底して接触を避けるのです。
これは本当に胸に突き刺さりました。
本当に離縁されてしまうもしれない。
今、実家に帰されたら、両親をまた失望させてしまう。
この年で離縁された女がどうやって生きていくのだろう。
せめて子どもがいたら良かったのに。
私がいなくなったらオーヴェル侯爵領の管理はどうなるのだろう。
領民が困ってしまうかもしれない。
お義母様の身の回りのお世話をする人がいなくなってしまう。
ハワード様みたいに気難しい人は、私しか支えられない。
子どもができればきっとハワード様も変わるはず。
いろんな不安が渦巻いていました。
後から考えると、おかしなことです。私が背負う必要のないことまで、なんとかしなければと考えていたのですから・・・。
離縁を言い渡されて一週間が過ぎたところで、私は、お義母様に相談しました。今度は今までと違うかもしれないと。
お義母様は、すでに事情を知っていました。
「お義母様、私は一体どうすればいいのかわかりません。本当に薬を受け取っただけなんです」
「私に言われても・・・約束を破ったのは貴女なんだし。それに、事情を説明する段階は、もう過ぎたのではないかしら」
お義母様の言い方は、今までとは違い、素っ気ないものでした。優しかったお義母様にも見放されたようで、私の目に涙が滲んできました。
そんな私の姿を見て、お義母様はイライラしたようです。
「さあ、もう行きなさい。私、今出かけるところだから・・・コホッ、コホッ。あっ、余計なことをしなくて結構よ。さあ早く」
背中をさすろうとした私の手は払われました。
あんなに感謝をしてくれていたのに・・・。
お義母様にとって私は、ハワード様との結婚生活を上手くやり過ごしているからこその存在でしかなかったのです。
自室に戻ると机の上に、離縁届が置かれていました。ハワード様のサインは記入済みです。私のサインを書き入れて一週間以内に出ていくこと、私がハワード様の信頼を失うことをしたので財産は一切渡さないと、事務的に書かれた紙も置いてありました。ハワード様の字ではなかったので、すでに第三者を立てているのでしょう。
あれだけハッキリ『離縁だ』と言われたのに、現実を突きつけられると、居ても立っても居られなくなりました。ついさっき突き放されたばかりだというのに、私は救いを求めて、お義母様の部屋に向かっていました。
お義母様は部屋にいらっしゃいませんでした。出かけると言っていたのは本当だったようです。お義母様が医者と教会以外の日に出かけるのは、かなり珍しいことです。
いつもの私なら、お義母様がいないのに勝手に部屋に入ることはしないのですが、この時はどうにも落ち着かず、部屋に入ってしまいました。
部屋を見渡しながら、ハワード様の仕打ちに落ち込んだ時、お義母様に慰めてもらったことを思い出していました。優しい言葉で励ましてもらったり、お菓子を渡してくれたことなど。
ふと見ると、お菓子をしまっていたキャビネットの引き出しが少し開いています。何とはなしに、近寄って引き出しを閉めました。引き出しの中の紙がきちんと収まっていなかったようで、外に少しはみ出してしまいました。もう一度閉め直そうと、引き出しを大きく引いて、私は一瞬固まりました。
え?
はみ出ていた紙は、私が今まで、ハワード様に無視されるたびに書かされていた誓約書でした。
え? なんで?
なんでお義母様のところに?
・・・・ハワード様は誓約書をお義母様に渡していた?
お義母様は、私が毎回誓約書を書かされていることを知っていた?
知っていてハワード様を咎めることもなく、私を慰めていた?
私はつねられていることも、無視の後、誓約書を書かされていることも、お義母様に伝えていませんでした。ハワード様の行いは、なぜか誰にも知られてはいけないと思い込んでいたのです。
心臓の音が早くなるのを感じながら、確認するなら今しかないと、ふっとそんな考えが浮かびました。
何を確認すべきなのか、何を見つけるべきなのか、そんなことは全くわかりませんでした。
でもこの時は、何かを見つけなければ、という強い思いが湧いていました。
キャビネットの引き出しを全部開けてみる。
特に変わったものはない。
ドレッサーの引き出し、特にない。
本棚、本が並んでいるだけ。
いえ、本だけじゃない。
本の背表紙が並ぶ片隅に、ひっそりと隠すかのように、育児記録と書かれた手帳がありました。
それは、直感というより必然でした。
私は、育児記録にすーっと手が伸びていました。本棚から取り出すと、パラパラとめくっていました。
最初の方は、ハワード様誕生の喜びと成長の記録であふれています。さらにめくっていくと、途中から乱れた字に変わっています。私は、パラパラとめくるのをやめて、今度はゆっくりと確認するようにめくりました。
ハワード様が5歳のときのある日から、字が乱れ、涙を落としたと思われるページが続き、書くのをやめたようでした。私は5歳のときのある日のページから読み始めました。
そこには、家族で遊びに行き、ハワード様が沼に落ちたことが書かれていました。どうやら沼は、ひどく汚染された沼だったようです。汚染されたものが体内に入ったのでしょう。ハワード様は直後に、体が・・・腫れ、高熱を出し、何日も寝込んだとあります。続いて、どうにか助かってほしいという母の願いが切々と書かれています。さらには、夫婦に迫られた苦渋の選択についても書かれていました。
─────!!
その苦渋の選択の結果、ハワード様の命は助かり、後継者としての役割を一つ果たすことができなくなっていたのです。
・・・・・誰が悪いわけでもありません。命を助けるために、代償のある選択をしたことは間違っていないと思います。親なら皆、その選択をしたでしょう。
ただ、前向きな未来にするためには、自身の選択と結果を受け入れる強さが必要だったのかもしれません。
ですが、誇り高き当時のオーヴェル侯爵には、それができなかったようです。侯爵は選択の重さに耐えられず、そのやり場のない感情を、お義母様にぶつけたのです。今の私のような時が、お義母様にもあったのでした。そして、そんなお義母様を庇う、小さなハワード様の姿も書かれていました。
・・・・・私にはそこから今に至るまではわかりません。
オーヴェル侯爵邸で父子がどう過ごしてきたのか、母子関係がどうなっていったのかも・・。
ただ、これをきっかけに、夫婦仲が壊れたことだけは読み取れました。
私はそこまで読むと、育児記録を元に戻し、部屋を出ました。
『将来子どもに示しがつかないな』
『子どもができればハワードも変わるわよ』
何が?
子ども・・・・・できる可能性なかったのですね。
もう、ブランナー先生にお話を聞きに行く必要はなくなりました。




