第二部:オーヴェル侯爵夫人の生活
(4323字)
結婚して二年近くが経とうとしています。
私を取り巻く環境は、閉鎖的になっていました。
ハワード様は、一度私に感情を爆発させてから、不機嫌を隠さなくなりました。屋敷内で働く者たちにも、何か気に入らないことがあると、元々きつく当たっていたようです。私はそれを見ていられず、口にしてしまったため、いつしか矛先が全部私に向かうようになりました。
実家には、手紙のやり取りだけで、ずっと帰っていません。
手紙もハワード様が目を通すので、だんだんと控えるようになり、ここ半年、家族や友人とのやり取りは、なくなっていました。
出かける場所も話す人も限られていきました。
「この書類、棚にある書類と一緒にまとめたんだよね?はぁっ!?棚の書類は入れてない!?」
「申し訳ございません。すぐやり直します」
「君はいつになったら、まともに仕事ができるようになるんだ。侯爵家の妻の仕事がまともにできるようになったら、いつでも実家に帰っていいんだけどな。こんなことでは、将来子どもに示しがつかないな」
「申し訳ございません」
「まったく君は幸せ者だな。君みたいな出来の悪い人に、二年近くも仕事を教えてくれる気の長い夫を持って」
「ありがとうございます」
私は、ハワード様に対して、『申し訳ございません』『すぐやります』『ありがとうございます』、この三つの言葉しか言わないようになっていました。
ハワード様が何に気が障るのか、予想するのは難しいことでした。
ある時には、労りの気持ちを込めて、
『お疲れのようです。今日は早めにお休みになられては?』
と言ったことで激しくお怒りになりました。
『仕事の能力が低いと言っているのか!君の物覚えが悪いせいだろう!』
必要最低限なことしか言わない───それが一番平和にやり過ごす方法でした。それ以外の言葉を発すれば、顔をつねられ、無視をされ、最後に一筆書かされることになります。
三度目の一筆のときには、『愚かな妻を娶ってくださったハワード様に一生感謝いたします』と書かされました。
私の感情は、この一文を書き終えると、完全に停止いたしました。
***
こんな生活の中でも、月に一度だけ出かけることを許されている場所がありました。お義母様が『子どもができればハワードも変わるわよ』と言ったことから、子どもを授かるための治療に行くことだけは、早くから認められていました。お義母様の古い知り合いで、ハワード様のかかりつけ医である女性医師のところへ通っていました。
この日は、月に一度の診察の日でした。肌寒い日で、王都では、高熱と激しい咳が出る風邪が流行っていました。医院に行く時に付き添ってくれる侍女は、子どもがこの風邪にかかったため、その日の朝急に休みを取りました。私は初めて医院へ一人で行くことになりました。
侯爵家の馬車で送ってもらい、王都の医院近くの通りに一人で降り立つと、とても不思議な感覚になりました。王都の通りを全力で走ってみたい衝動に駆られたのです。もちろん、そんなことは、いたしませんでしたが・・・。
医院に着き、名前を呼ばれて診察室に入ると、私はハッとしました。
診察室にいたのは、いつもの年配の女性医師ではなく、若い男性医師だったのです。咄嗟に頭に浮かんだのは、”どうしよう、男性と喋ったことがばれたら、ハワード様に怒られる”でした。
私の慌てた様子を見て、男性医師は優しくおっしゃいました。
「大丈夫ですよ。直接の診察は、本日はありません。男の医師がいて驚かれたのでしょう。不安にさせて申し訳ありません。ルーカス・ブランナーと申します。いつもの医師は、急に王宮に呼ばれてしまったので、僕がお話を伺って、薬だけお渡しするように頼まれたのです」
「あ、そうでしたか・・・・・・・・ふふっ」
普通は、男性医師の診察を受けるのかと心配する場面でした。それなのに、私ときたらハワード様に怒られることを心配するなんて・・・・・。
思わず、自嘲の笑いが漏れていました。
「では、・・・・・え!?ちょっと、え!?あ、ジェイン、ハンカチ!いや、隣の控室へ!」
先生が焦って、隣の看護師さんに言います。
一体どうしたのでしょう?
・・・・・?
私の頬を温かいものが伝っています。
目が熱くなっています。
私は自分では微笑んでいるつもりでした。
────なのに実際は、微笑みながら泣いていたのです。
看護師さん、先生の奥様のジェイン様だったのですが、フワっと柔らかい毛布で私をくるみました。そして私を優しく抱きかかえ立たせると、そのまま先生たちの控室へ連れて行ってくれました。
ジェイン様は、私を控室の椅子に座らせると、暖かいミルクティーとハンカチを私の前にそっと置きました。
「お好きなだけ休んで行ってくださいね。大丈夫ですから」
「・・・・・」
ジェイン様は、私の横にかがむと、大丈夫、大丈夫と言っているかのように、優しく、優しく毛布越しに背中を撫でてくれます。私の目からはブワッと涙が溢れて止まらなくなりました。次から次へと溢れてくる涙で、顔はぐしゃぐしゃになりました。
・・・・・・・・・・どれぐらいの時間そうしていたのでしょう。入れていただいたミルクティーの湯気は消えていました。ジェイン様は入れ直そうとしてくれましたが、私は先程のミルクティーをいただきました。
「美味しい・・・味がある・・・」
「え?」
私はまた泣きそうになりましたが、今度は堪えることができました。
先生が他の方の診察を終え、控室に入っていらっしゃいました。
「あの、どうかな?大丈夫かな?」
先生が、遠慮がちにジェイン様と私を交互に見ながら聞きます。
先生もジェイン様も、『なぜ』とは聞きません。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ございません。ハンカチは洗ってからお返しします。そろそろ迎えが来る頃なので、すみません、いつものお薬をお願いいたします」
先生は頷くと、何事もなかったかのように、私のカルテを丁寧に確認しました。
「・・・ん?・・・オーヴェル侯爵夫人は僕の妹と同じ年ですね。あ・・・もしかして夫人はグリーグ家のご出身ですか?」
「そうです。ソフィア・グリーグでした。えっと、妹さんて?」
「僕の妹は、エマ・ブランナーです。覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんです!一度だけ一緒に教会のバザー活動でご一緒したことがあります!」
私は、学生時代のバザー活動のことを、すぐに思い出しました。特にこのバザー活動は、エマ様と一緒にチームを組んで計画を立て、手作り品をたくさん用意し、完売までやり切ったというキラキラとした思い出です。学校から言われて組んだチームでしたが、エマ様との時間が楽しくて、このまま親友になってほしいと思ったぐらいでした。
でも、エマ様に頑なに断られてしまいました。
「やめときましょう。身分も違うし、私はこんなだから、一緒にいてソフィア様が損するかもしれないし」
エマ様は、男爵家のご出身で、見た目に特徴がありました。右目と左目の色が違うのです。右は茶色、左は緑色で、入学当初はよくからかわれていました。あまりにもひどいことを言う人がいたので、私は一度だけ注意したことがあります。ですが、その必要は全くありませんでした。エマ様は気が強く、高位貴族であろうとビシッと言い返していました。
「だから?ふーん、それで?私の目の色が違うと貴方様に何か迷惑かけるのかしら?」
「あら眼鏡の侯爵様、私は廊下の端から端まで全部クッキリ見えますのよ。他のクラスのお友達に宿題を写させてもらうのは、おやめになった方がいいのでは?」
「私、目が良いから順位表の一番上にある自分の名前がしっかり見えて良かったわ。変ね。貴方様のお名前が見当たらないのだけど。あっ、失礼いたしました。100番内に入っていなかったのですね」
入学して最初の頃は、高位貴族の甘やかされた男子が、エマ様をいじめようとしていました。でも、エマ様に返り討ちにされるのと、エマ様が圧倒的に優秀であることから、最終的に誰もエマ様の目のことは言わなくなりました。
「エマは、バザー活動のことを楽しそうに話していましたよ。『ソフィア様の刺繍された作品が素晴らしくて、本当は売るより自分が欲しかった』ってね」
「まあ、そんな・・・。今、エマ様はどうされているのですか?」
「エマは、商会を立ち上げましたよ。エマール商会、御存知ないですか?そんなに大きな商会ではないのですが、国内だけでなく、輸入物の日用雑貨も扱っています」
「存じております!素敵なものをたくさん扱っているお店ですよね。もしかしてこのカップも?」
「そのようですね。エマのお店のロゴが入っていますから。・・・・さて、あまりお引止めしたら悪いから・・・・・・はい、こちらのお薬ですね。いつもの貧血のお薬」
「・・・・・貧血??・・・・・あの、貧血のお薬は妊娠しやすい体質に改善してくれるのですか?私は、ここに通うと妊娠しやすくなるからと言われて通っているんですけど・・・」
「んー、妊娠しやすくするというより、貧血があると妊娠しにくかったり、赤ちゃんの成長や出産に影響が出ます」
「・・・・・。あの、妊娠しやすくなるお薬というのはないのですか?」
「妊娠に至るまでの、どの段階を改善したいか、それがわかれば段階ごとに良い条件に改善する薬はあります。ただ妊娠は、女性だけの問題ではないです。詳しくはいつもの医師に、ご夫婦で一度ご相談に来られるといいと思います。・・・あ、オーヴェル侯爵も子どもの頃からここに通っていらっしゃる?それなら僕が言うことはなさそうですね。・・・ん?ジェイン、オーヴェル侯爵のカルテも出してくれたのか。うん、確かに子どもの頃から通院されて・・・・・・・───!!」
「先生?」
「・・・・夫人は、妊娠しやすくなるためにここに通われている、とおっしゃいましたよね?それは、ご夫婦で話し合われて決めたことですか?」
「・・・・・・いえ、義母にすすめられて」
今、先生は何か大事なことを私に確認しようとしている、そんな気がしていました。
コンコン。
控室のドアがノックされると、受付の方が声を掛けてきます。
「失礼いたします。オーヴェル侯爵家のお迎えの方が来られています」
何か大事なことに触れる前に、時間切れになった感じでした。
先生は帰り際、ためらいながらおっしゃいました。
「もし・・・・・もし、何か思うことがあったら、いつでも僕のところへ聞きにきてください。あと、余裕があるときにでも、エマのお店に訪ねて行っていただけると喜ぶと思います」
先生の何か言いたげな様子は気になりましたが、帰りが遅くなるわけにはいかず、お礼だけ述べて侯爵邸に戻りました。




