第一部:ハワード・オーヴェルとの結婚
(7161字)
私、ソフィア・ハミルトンはグリーグ伯爵家の長女として生まれました。上には兄が、下には妹がいます。
私の時代の貴族は、家を継ぐのは男性の長子、女性しかいなければ女性の長子が継ぐと決まっていました。それ以外の子は、男性なら婿入り、または文官や騎士などになる、女性なら学園卒業後に嫁入りというのが一般的な時代でした。
私にも、学園入学前からドイル・マーラーという婚約者がいました。二つ年上の婚約者とは、学園卒業と同時に結婚する予定でした。彼は、私が学園を卒業するのを待つ間、交易を学ぶため、隣国へ留学していました。
留学中、私は彼と手紙のやり取りをし、彼の家族からは、お茶会、刺繍の会、読書会などに毎回呼ばれていましたので、結婚に向けて順調に進んでいると思っていました。
でも、卒業まであと少しというある日のこと、私の思い描いていた未来は、突然白紙になってしまったのです。
休暇中に学園から帰省すると、応接室に私と彼の両親がそろっていました。普段とは違う重たい空気に、留学先で彼の身に何かあったのでは、と心配になりました。
彼に何かあったことはあったのですが、婚約者の父親が告げたのは、予想だにしないことでした。
「ソフィアさん、すまない。留学先で隣国の女性との間に子どもができたと言うんだ。この婚姻話はなかったことにしてくれないか」
────!!
私は、この後自分がどうしていたか全く思い出せませんが、両家の親同士で淡々と事務処理がなされたようです。
つまりは、なかったことに
・・・・・は実際にできるわけもなく、元婚約者の家からそれ相応の慰謝料が支払われ、私は結婚直前で婚約破棄された哀れな令嬢になった、ということです。
このタイミングでの婚約破棄は、最悪でした。
卒業前でしたので、婚約破棄後も学園へ行かねばなりませんでした。誰もそのことに触れませんが、残りの学園生活は、きつい日々を過ごすことになりました。卒業式後のパーティは、エスコートする婚約者がいないため欠席しました。一人でパーティに出席する令嬢もいますが、私にはそんな勇気はありませんでした。
今後のことを考えると不安でたまりませんでした。
今さら結婚相手が見つかるはずもない。
かと言って、一人で生きていける程の能力も度胸もない。
もし、このまま結婚せず家にいることになったら、いつか兄夫婦の邪魔になってしまうかもしれない。
妹の結婚式に惨めな気持ちで参列することになりそう。
それよりも、両親が私以上にガックリきている姿を見るのが辛い・・・。
いろんな思いが駆け巡って、私の自尊心は、ボロボロになっていきました。
そしてあっという間に、学園卒業後二年が過ぎていました。
そんな中、両親が方々に頼みまくって持ってきてくれた話が、ハワード・オーヴェル侯爵との縁談でした。私より8歳上で、若くして侯爵家を継いだ眉目秀麗な青年です。
私みたいな行き遅れ令嬢に、なぜそんな縁談が来たのか不思議でした。仲介をしてくれたオーヴェル侯爵の遠戚の方に聞くと、ハワード様は一度結婚していること、社交界で私を見かけ、純朴そうなところが気になったことなどを教えてくれました。
離縁の理由は、前の奥様が結婚後も文官のお仕事を続け、家庭を顧みなかったからということも教えてくれました。
初めてカフェでお会いしたハワード様は、本当に綺麗な方でした。待ち合わせ時間に30分遅れて来たのを忘れさせるぐらい、爽やかに登場し、その場の女性たちの視線を釘付けにしたぐらいです。私も一瞬にして心を奪われました。
「やあ、初めまして。僕がハワード・オーヴェルだ。君のことは良く知っている。ずっと君の純粋そうなとこが気になっていたからね」
私は一気に舞い上がってしまいました。
カフェ中の女性が見つめている、この方の待ち合わせ相手は私、そんな優越感も感じていました。
「あ、そこの君、コーヒーとチーズケーキを二つずつ」
このカフェを待ち合わせ場所に選んだのはハワード様です。私は、普段コーヒーを飲まないのですが、ハワード様が慣れた様子で頼むのを、リードしてくださっている!と嬉しく思いました。
ハワード様は、結婚生活の具体的な希望をはっきりと言われました。
「君は外で働きたいという希望はないよね。僕は外で働く女性に懲りているんだ。母が具合が悪い時に近くにいないのも困るしね。母は肺が弱いから」
「私は、家で夫を支えるのが妻の仕事だと思っております。夫となる方のお母様は自分の母のように大事にしたいと思っています」
「そうか、それはよかった。それと実家にむやみに帰りたがる妻だと困るな。仕事だ実家の手伝いだと、家を空ける妻だと夫婦になった意味がないからね」
「私は家で手仕事をするのが好きです。実家は兄がいますから、そんなに帰ることはないと思います」
こうして私たちは、三回ほどデートをし、たった二ヶ月の付き合いで結婚することになったのです。
結婚式は、ハワード様が再婚ということもあり、二人で新婚旅行に行った先の教会で誓いあうだけになりました。
両親は、残念そうにしていましたが、我が家より格上の侯爵家から言われたことなので、異を唱えることはしませんでした。
ハワード様はお父様がいらっしゃらないですし、お母様も体調を崩されることが多い方なので仕方がないこととして受け止めました。
私は、こんな素敵なハワード様と結婚ができるのだから、それだけで十分だと思っていました。
────ですが、私はハワードという人のことを、何もわかっていませんでした。
見た目の美しさと結婚前の紳士的な態度が、全てだと思っていました。彼が言うことは言葉通りに受け取り、何か聞かれたら素直に答えていました。これが自分の首を絞めることになるとは気付かずにに・・・。
・・・いいえ、本当は少し気付いていました。
今思えば、最初の顔合わせのときから違和感はありました。
でも、この結婚で惨めな自分をひっくり返したい気持ちが強くて、自ら違和感に向き合わないようにしていたのです。
それが、そもそもの間違いでした。
***
新婚旅行は、夢のような時間でした。
伯爵家では泊まることのない煌びやかなホテルに泊まり、お義母様への贈り物を買うために入ったお店では、豪華な個室に案内されたりと初めて体験することばかりでした。グリーグ伯爵領と王都しか知らなかった私は、夕日に染まる海に連れていってもらい感動してしまいました。
「ハワード様、こんな素敵な景色初めて見ました!帰ったら絶対刺繍にします。うまくできたらハワード様も見てくださいね」
「ああ、ほどほどにね」
旅行中、ハワード様の意外な一面を知ることになりました。爽やかな容姿からは想像がつかないぐらい嫉妬深い人でした。
私がホテルのコンシェルジュや店員の男性と、普通に会話をしただけで、不機嫌になるのです。部屋へ戻ると叱られ、私の意思に関係なく、自分の感情の赴くまま独占欲を示されました。
また、『自分の色に染める』と宣言され、私が持って行った服はすべて青か濃い茶色の服に入れ替えられました。青はハワード様の目の色、濃い茶色は既婚女性らしく見える、ということからでした。髪型も、おろし髪は幼く見えると言われ、低めに結う髪型に変えられました。
「うん、これでやっとハワード・オーヴェル侯爵夫人らしくなった。君は僕のものだよ」
ハワード様が指示された服も髪型も、私が普段選ばないものでした。青白い顔色の私が、青を着ると不健康そうに見えます。濃い茶色の髪をした私が、濃い茶色の服を着ると、まるで木です。髪型も幼い顔立ちの私が低めに結うと、無理しているように見えて似合いませんでした。
でも、私はこれを、ハワード様から私への愛だと思っていたのです。
***
新婚旅行から帰り、領主としての日常が始まった途端、ハワード様は険しい顔になりました。旅先で私に見せてくれた、子どものような笑顔を見せることはなく、眉間にしわを寄せて怖いぐらいの雰囲気に変わりました。
私は実家で母がしていたように、少しでもハワード様が安らげるようにと、ハワード様の執務の合間にお茶とお菓子を運んだり、屋敷内に花を飾ったりしていました。また、お義母様の離れにお食事を運んだり、咳が出れば背中をさすったりしていました。空いた時間は、新婚旅行の余韻に浸り、思い出を刺繍にしたりして、幸せな時間を過ごしていました。
そんなふうにしてオーヴェル侯爵家での生活が一か月経った頃、突然ハワード様が私を怒鳴りつけました。郵便で届いた書類をハワード様に渡し、部屋を出ようとした瞬間、パーンッと書類を机にたたきつけたのです。
「君は一体毎日何をしているんだ!夫が一人で苦労している間に、何を吞気に遊んでいるんだ!少しは僕の仕事を手伝おうと思わないのか!!」
ハワード様の突然の剣幕に、私は声が出ず、身動きができないまま見つめることしかできませんでした。
「人のことをジロジロ見て馬鹿にしているのか!今後どうすべきか反省して出直して来い!!」
私は、その場を去り、自室に駆け込みました。自室に戻った後も、しばらく心臓がバクバクして、指先が震えていました。人から怒鳴られたり、誰かが物をたたきつける姿を見たのは初めてのことでした。
落ち着いてきたところで、先程ハワード様が言ったことを思い返してみました。
ハワード様から見ると、私は遊んでいるように見える。
領主の仕事を手伝ってほしいと思っている。
ハワード様の言いたいことはこの二つなのでしょうが、一方的過ぎると思いました。
一か月の間不満を抱えていたのなら、そう言ってくださったらいいのに、突然怒鳴るなんてひどいと。
いえ、きっと旅行の疲れがとれないままお仕事に戻り、イライラしていたにちがいない。オーヴェル侯爵領を一人で支えるハワード様のプレッシャーも私が想像するより大きいのかもしれない。
私は自分の気持ちを整えると、行き違いを解消するため、自分の考えを伝えようと思いました。
この時の私は、本当に能天気な愚か者でした。
執務室に行き、ハワード様の机の前に立つと、できるだけ冷静に言いました。
「ハワード様、気が付かず申し訳ございませんでした。ハワード様のお仕事に口を挟んではいけないものと思っておりました。私にできることがあれば、いつでもお申し付けください。・・・ただ、私は日中、遊んでいたわけではありません。お義母様のご様子を見に行ったり、屋敷内を整えたりしておりました」
ハワード様は私の言うことを聞き終わると、立ち上がって私の前に来ました。射貫くような鋭い目で私を見ながら、無言で右手をあげました。私は、咄嗟に叩かれると思い、身をすくめました。
・・・・・ハワード様は叩きはしませんでした。
ですが、私の頬の肉を指でつまんだのです。
「母上を言い訳に使うな。言われないと気付けないほど君は鈍感なのか?君は侯爵家に嫁いだんだぞ。侯爵家は伯爵家とは違うんだ。僕の横に常に控えて、僕が滞りなく仕事をするのが妻の仕事だろう」
そう言いながら、ハワード様は指先にどんどん力を込めてつねっていきます。
「痛い・・・痛いですっ」
私はたまらず、ハワード様の手を払いました。反動で私は床に倒れこみました。
「出ていけ!役立たずはいらない!」
私は逃げるように、部屋を出ました。
人から顔をつねられる、しかも信頼していた夫に。
────人生で初めて味わわされた屈辱でした。
”出ていけ”と言われて、その通りにできるわけがありません。
婚約破棄された娘がやっと幸せを掴んだ、と喜んでいる両親をまた悲しませることなどできませんでした。
この日からハワード様の無視が始まりました。
食事も寝室も別です。執務室へ行っても、目も合わせてくれません。
自分が生きてきた世界で、無視されることなんてありませんでした。どうしたらいいのか全くわかりませんでした。
夫に無視される妻───日を重ねていけば屋敷の者は自然と気が付きます。
徐々に肩身が狭くなっていきました。
ハワード様は、遠くに私の姿が見えるときは睨みつけてきます。話しかけられそうな距離に私が近付くと、途端に私の存在を目にしたくないとばかりに目を逸らすのです。屋敷の中を歩くことさえも苦しくなっていきました。せめて身なりだけでもと思い鏡を見れば、青紫色になった自分の頬が映っている。青紫、緑、黄色と変化していく肌を見ながら、私の心はゆっくりと、そして確実に折られていきました。
救いなのは、屋敷の者の態度が変わらないことと、お義母様が私に優しくしてくれたことでした。無視されている間、お義母様の部屋に通い、身の回りのお世話をしていました。
お義母様は、ハワード様そっくりの美しい貴婦人です。肺が弱いようで、しょっちゅう熱を出したり咳き込んだりしています。私を頼りにしてくれて、私の愚痴を受け止めてくれていました。私が用事を済ませて部屋を後にするときには、キャビネットから、見た目もキレイなお菓子などを渡してくれていました。
「ごめんなさいねぇ。あの子、昔から気難しい子なのよ。しばらくしたら機嫌がなおるから、それまで我慢してね。前の子は忍耐力がなかったけど、あなたならハワードを支えられるわよ。ゴホッ・・・背中をさすってくれるかしら。貴女の手は気持ちいいわねえ。貴女にさすってもらうと不思議と咳がおさまるのよ。貴女がいると助かるわ。本当ありがとうね」
「領主の秘書?以前はいたけどね、あの子少しのミスも許せないぐらい潔癖なのよ。だから屋敷の使用人も少ないでしょう。ほとんどが子どもの時からの使用人なのよ。まあ、きめ細やかにいろんなことに気が付く貴女がいれば大丈夫よ。秘書の仕事だってできるわ。いいえ、貴女しか務まらないわ」
「貴女みたいな思いやりのある娘ができて、私は幸せだわ。貴女がいない生活なんてもう考えられないわ」
***
無視されて三週間。
このままお義母様のお世話をする生活だけでいいという気持ちにすらなっていました。この頃には、私がお義母様の身の回りのことをするのが、通常になっていました。毎日の薬湯の用意だけでなく、いつの間にかお義母様用の軽食も私が作るようになっていました。
部屋に籠れば、遊んでいると思われてしまう。手伝おうと思ってもハワード様には無視をされてしまう。そうなると、優しい言葉をかけてくれるお義母様のところへ足が向きます。そして少しでも長くお義母様のところにいようと思うと、私のやる内容が増えていくのは自然な流れでした。
いつしかお義母様が心の拠り所になっていました。
無視が続いている時、一度だけハワード様が夫婦のリビングに入っていくのを見たことがあります。もしかして仲直りができるのでは、と期待しましたが、全く違いました。
ハワード様が部屋を出た後、私が部屋に行ってみると、テーブルの上には、あの日以来ずっと放置していた私のやりかけの刺繍が乱雑に置かれていました。近寄って、それを見た瞬間、私の息は止まりました。刺繍枠は割られ、新婚旅行の思い出を縫い込めた布は引き裂かれていたのです。ハワード様も、この刺繍は新婚旅行の思い出だと知っていたのに・・・。
私は震えながら、刺繍枠と布を捨てました。刺繍道具もハワード様の目に付かないクローゼットの奥にしまい込んでいました。
・・・・この三週間で私は、疲弊しきっていました。
「そろそろハワードの機嫌が直るころよ。今日、執務室に言ってみるといいわ。何言われても逆らわないで『はい、申し訳ございません』って言ってれば早く済むわよ。お願いよ。あの子の力になってあげて」
私の顔をつねったハワード様に再び対峙することを考えるだけで、悔しさと怒りが湧き、心臓がドクンドクンしてきます。
でも、いつも優しくしてくれるお義母様に、ハワード様の力になってほしいとお願いされたのです。オーヴェル侯爵家へ送り出してくれた両親の顔も思い浮かびます。私は勇気を振り絞って、執務室に行き、頭を下げました。
「ハワード様、私が・・至りません・・・でした。申し訳・・ございませ・・・んでした」
私は自分の声を聞いて驚きました。
とても自分の出した声だとは思えなかったのです。
涙がボロボロ出ていて、体はガタガタと震えていました。
こんなにもハワード様のことを恐れるようになっていたのかと、自分でも信じられませんでした。
三週間の無視は、夫と妻を支配者と隷属者の関係に変えるのに、十分な時間でした。
ハワード様は満足そうに微笑むと、紙とペンを差し出しました。
「しっかり反省したようだね。さて、君が今の気持ちを忘れないように、一筆書いてくれるかな?」
「えっ・・・何を・・書けば・・・」
「『私は妻として夫に尽くします。夫の言うことに従います』ああ、思い出した。君はすぐ他の男に気が向くからな。『夫以外の男性とは会話をしません』それも書いてもらおうか」
「・・・・・はい」
書きながら、こんなものを書かされている自分が情けなくて情けなくて、涙が止まりませんでした。心は嫌がっている、なのに涙も震えも止まらない。書き終えるとハワード様は、優しく私を抱きしめました。
「よく頑張ったね。今日は仕事はもういいから部屋へ行って、ゆっくりしよう」
夫婦の部屋に入ると、ハワード様は自分のなさりたいようにされました。
「ソフィア、寂しかったよ。これからもずっと一緒だよ。・・・・ああ、そうそう、刺繍は貴族女性の嗜みだと母が言っていたから、空いている時間に刺繍をしてもいいよ」
まだ午後の明るい時間です。この後、侍女を呼ぶことを考えると、恥ずかしさで居たたまれなくなります。それでも、やっとこの緊張から解放される、私を必要としてくれたという安堵の方がずっと大きかったのです。




