第16話「英雄の、いつもの酒」
翌日の午前、アルトは一人で市場に出た。
情報収集だった。王都の市場は広い。商人、旅人、行商人、兵士。様々な人間が交差する場所で、耳をすませば国境の話は自然に聞こえてくる。英雄として大っぴらに動くより、普通の旅人として歩く方が情報が取りやすい。
市場を一周して、角の酒屋の前で足が止まった。
棚に並んだ瓶のひとつが、目に入った。
ラベルに「ロッソ」と書いてあった。赤い封蝋がしてある。安い酒だ。地方の農家がよく飲む、麦から作った蒸留酒。王都でも安い部類に入る。
アルトはそれを一本買った。
「それ、好きなんですか」
後ろから声がした。
振り返ると、セラがいた。
「ついてきたんですか」
「情報収集なら二人の方がいいと思って」
「一人の方がやりやすいことがあります」
「わかりました。でも今は市場を見ていただけです」
反論できなかった。
アルトは瓶を持ったまま、近くの石段に腰を下ろした。セラが隣に座った。
「なんでその酒を買うんですか。毎回同じものを」
「気づいてましたか」
「最初の夜から」
アルトは瓶を少し持ち上げて見た。ラベルが日差しに透けた。
「本物の英雄が好きだった酒です」
セラが動かなかった。
「十年前の戦場で、一緒にいた時に教えてもらいました。戦争が終わったら一緒に飲もうと言っていた。終わったら。だから飲んでいます」
「一人で」
「一緒に飲む相手がいないので」
セラが少し息を吸った。ほんの少しだったが、アルトには聞こえた。
「彼は」とセラが言った。声が少し違った。「その時、何と言っていましたか」
「一言だけ」
「なんと」
「頼む、と」
風が吹いた。市場の喧騒が遠かった。
「頼む、と言って、いなくなりました」
アルトは瓶を持ったままそれを見た。
「何を頼まれたのかは、今でもよくわかっていません。生き残れということだったのか、名前を守れということだったのか、あるいは全然別の意味だったのか」
「でも守っている」
「守っています。理由はよくわかりませんが」
セラが「そうですか」と言った。声の温度が少し変わった気がした。
「あなたは」とアルトが聞いた。「なぜ彼のことを知りたいんですか」
セラが少しの間、黙った。
「大切な人だったので」
「どういう関係ですか」
「それは、まだ言えません」
「まだ、ということはいつか言うんですか」
「……できれば」
アルトはそれ以上聞かなかった。
セラも黙った。二人で市場を見ていた。人が行き交っていた。子どもが走っていた。どこかで誰かが笑っていた。
「一つだけ」とセラが言った。
「なんですか」
「彼は、いい人でしたか」
アルトはすぐに答えなかった。
「強い人でした」とアルトは言った。「強くて、静かで、あまり笑わない人でした。でも、一度だけ笑ったのを見たことがある。その顔が、どういう顔だったか、今でも覚えています」
セラが前を向いたままだった。
でも目が、少し赤かった。
「……そうですか」
それだけ言って、立ち上がった。
「市場の情報、私が集めてきます。アルトさんはそこにいてください」
「わかりました」
セラが歩いていった。アルトはそれを見送った。
瓶を膝の上に置いて、空を見た。
懐の不変の石が、日の光を浴びて青く透き通っている。十年前、あの人が笑った時も、この石は全く同じ色でそこに転がっていたはずだ。
あの人が笑った顔を、セラも知っているんだろう、と思った。
第16話、お読みいただきありがとうございました。
安酒「ロッソ」に込められた英雄との約束。そして、決して傷つくことのない「不変の石」の重み。
アルトが背負っているのは、単なる「英雄」という嘘だけではなく、十年前の真実そのものなのかもしれません。
次話、王都に潜む「記録の影」が動き出します。
物語はさらに核心へと迫っていきます。引き続きよろしくお願いします。




