外せない首輪⑧
潮の病室を後にし、車に戻ると、車内は蒸し風呂のように暑くなっていた。
「久瀬さーん、もっとエアコン強くして〜」
宙はカーエアコンの吹き出し口にしがみつき、顔面に冷風を浴びながら訴える。久瀬はボタンを一つ外したシャツを摘み、パタパタと扇いでいる。
「これ以上は強くならない。すぐ冷えるから我慢しろ」
「うぇ〜……」
じっとしていても汗が噴き出てくる。項垂れていると、久瀬はスマホを取り出し、車のドアに手を掛けた。
「少し外す」
「はーい」
久瀬は外へ出ると、少し離れた場所でスマホを操作し、耳に当てた。どこかへ電話を掛けているらしい。浜松たちだろうか。
久瀬はしばらく電話をしていて、戻ってくる頃には車内はすっかり涼しくなっていた。宙はカーナビを起動した久瀬を見て、首を傾げる。
「今から飼い主のところに行くんですか?」
「ああ」
久瀬は袋に入ったプレートを見ながら、ナビに住所を入れていく。飼い主が住んでいるのは山梨県だ。神奈川との県境にある街で、ここから高速を使っても一時間くらいかかる。
「結構遠いですよね。飼い主の人、何しに来てたんだろ」
首輪が落ちていた街には繁華街があるが、地元の人や近隣の大学に通う大学生たちが訪れるくらいで、わざわざ他県の人が観光に来るような場所ではない。犬を連れて遊びにいくなら、他にもっといい場所があるはずだ。
「捨てに来たんじゃないか?」
「え? 何を?」
「犬を。……近場で捨てたら、帰巣本能で戻ってくるだろ」
ナビに住所を入れ終わり、久瀬がポケットにプレートの入った袋を仕舞う。宙は思わず久瀬に向き直った。
「何でそんな酷いこと言うんですか!」
「お前があまりにも能天気だからだ。ある程度、覚悟はしておけ。……世の中、そんないい人間ばかりじゃない」
久瀬が言って、シートベルトを指で叩く。宙は大人しくシートベルトをしながら、視線を落とした。
「でも……この犬の飼い主は違うかもしれないじゃないですか。俺、記憶の中で撫でられた話しましたよね?」
「ああ。だが、昨夜見た夢では、乱暴にされていたんだろう」
久瀬の言葉に、宙は言葉を詰まらせた。
「日本では年間約二千匹の犬が殺処分されている。最初は可愛がっていても、飼い主の都合で捨てられる犬がたくさんいる」
「…………」
「そもそも、負の感情の方が強く異失物として残りやすいんだ」
車が発進し、ゆっくりと駐車場を出ていく。
「人の記憶と同じだ。幸せは、悲しみや絶望、恐怖で簡単に塗りつぶされてしまう。……逆は滅多にない」
そういうものなのだろうか。
宙は俯いたまま、首輪にそっと触れた。
「でも、この首輪から伝わるのは、そんな感情じゃない気がするんです……」
久瀬はため息をつき、ハンドルを切る。きっとまた、能天気なやつだと思われているのだろう。
それは正しいのかもしれない。
けれど――頭に触れた、あの、あたたかな手のひら。思い出すだけで、胸の奥が締めつけられるような気がした。この気持ちは何と呼べばいいのだろう。
宙は久瀬から顔を背け、車のシートに身体を沈めた。
◇◇◇
「コタロウ! 取ってこい!」
はしゃいだ子どもの声がして、赤いゴムボールが飛んでいく。宙――コタロウは放たれた矢のように、まっすぐボールを追いかけた。ぐんぐんと景色が流れ、ボールとの距離が縮まる。雑草の伸びた川原にボールが落ちて、何度か跳ねた。それを咥えて捕まえると、土を蹴り、一目散に戻る。
「えらいね、コタロウ! いい子、いい子」
ボールを受け取った子ども――デニムスカートに白いブラウスを着た、ショートヘアの女の子が、コタロウの頬を両手で包み、何度も頬や頭を撫でる。嬉しくて、勝手に尻尾が揺れた。
「ほら、おやつだよ」
女の子の後ろに立っていた女性が、キューブタイプの小粒のおやつを手のひらに出し、コタロウの前に差し出した。
「コタロウばっかりずるーい! ね、お母さん、帰りにアイス買って?」
「はいはい」
仕方なさそうに笑う母親を見て、女の子は「やったぁ!」とコタロウに抱きつく。おやつを飲み込んだコタロウは、待ちきれないようにその場で足踏みした。
「あははっ、分かったってば。コタロウ、もう一回投げるよ」
女の子が言って、赤いボールを持ったまま、振りかぶる。
「取ってこい!」
青空に向かって空高く飛んでいくボールを、コタロウは夢中で追いかけていた。
「――お母さん、お母さん……!」
畳の上に布団が一組敷かれている。そこへ寝かされた、冷たく硬くなった身体。コタロウは母親にしがみついて泣く女性に、ぴったりと寄り添ったまま動かない。畳の上に伏せ、じっと母親の顔を見つめている。その瞼が開き、こちらを見て笑いかけてくれるのを待っていた。
「お願い……ひとりにしないで」
絞り出すような声で女性が言う。子どもの頃よりずっと伸びた長い髪が、女性の横顔を隠した。コタロウは顔を上げ、湿った鼻先を女性の頬にそっと押し付ける。
「コタロウ……」
涙に濡れた顔を上げ、女性がくしゃりと顔を歪める。
「コタロウには、私がいるからね」
両手を伸ばされ、抱きしめられる。強く――強く。
「私がずっと、そばにいるから……」
◇◇◇
「――い、おい」
肩を揺さぶられる感覚に、ふと目を開ける。眉間に皺を寄せた久瀬の顔が視界に映った。
「どうした? また何か見たのか?」
尋ねる声には、どこか気遣うような響きがあった。宙は瞬きをして、頬に手を遣る。……濡れている。泣いていたらしい。
「大丈夫です」
宙は首を横に振り、窓の外を見た。車はメゾネットタイプのアパートの前に停められている。
「もう着いたんですか?」




