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エピローグ

 休日の夕方、宙はつっかけを履いてベランダに出た。洗濯物を避けて進み、柵にもたれるようにして景色を眺める。三階なので見晴らしがいいとは言い難いが、向かいの家の庭に色とりどりの花が見えるのが綺麗だった。

 風が庭の木々を揺らすのをぼんやりと眺め、やがてポケットからスマートフォンを取り出す。

 少し迷って、宙は電話の発信ボタンをタップした。数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた優しい声が耳をくすぐる。

『宙、どうしたの?』

「あ、母さん? あのさ……急だけど、来週そっち帰ろうと思ってて」

『あら、本当に? もう夏休みは帰ってこないのかと思ってたわ』

 弾んだ声に、宙は思わず笑った。

「バイトあるから、あんまり長居はできないけど」

『顔見れるだけでも嬉しいわよ。何か食べたいものある?』

「んー、何でもいいよ」

『そう? じゃあいつも通り、あんたの好きな豆ご飯作っておくからね』

 いつもなら、反射的に「やった」と答えていた。

 けれど今日は、口を開きかけて――止まる。

「……母さん」

『ん?』

「あー……えっとさ」

 たった一言なのに、妙に言いづらい。

 宙は視線を上へ遣った。オレンジ色に染まった空が広がっている。まるで、空き家から出られたときに見た空のようだ。

 自然と、背中を押されるような気持ちで、口を開く。

「俺……実は、豆、あんまり好きじゃなくて……」

『えっ、そうなの?』

「うん。……ごめん」

 一瞬の沈黙。スマホを強く握りしめたまま、緊張して返事を待つ。

『なによ、別に謝ることじゃないでしょ』

「……え?」

『もっと早く言いなさいよ。それなら他のもの作ったのに』

 軽い調子で言って、母は『オムライスは好きよね?』と尋ねてくる。

「……うん」

『じゃあ決まり』

 あまりにもあっけなく話が終わり、宙は苦笑した。

 ――記憶を失ってから、本音を話すことが苦手だった。相手を悲しませたり、気を遣わせたりするくらいなら、自分が飲み込めばいいと思っていたのだ。

 その結果、こんな些細なことすら本当のことを言えず、ずっと嘘をついてきて。

 でも、言ってみれば、こんなものだったのだ。

「じゃあ、また日にち決まったら連絡する」

『はいはい。待ってるわね』

「うん。じゃあね」

 通話を切り、ふう、と息を吐く。どこか晴れ晴れとした気持ちだった。小さく笑みをこぼし、振り返る。

「うわっ!?」

 開いた窓の向こうに久瀬が立っていた。片手には洗濯籠を持っている。

「スーパー行ってたんじゃ……」

 カップ麺の特売があるとかで、久瀬がマイバッグを手に家を出ていったのは、つい二、三十分前のことだ。

「ついさっき帰ってきた」

 久瀬は淡々と答える。

「……聞いてました?」

「聞いてたんじゃなくて、聞こえただけだ」

「一緒ですよ!」

 会話を聞かれたのが、妙に恥ずかしくて、頬が熱くなる。久瀬は気にした様子もなくベランダへ出ると、洗濯物を取り込み始めた。

「言えたならよかっただろ」

「まあ……そうですけど」

 宙は少しだけ口を尖らせる。久瀬はそれ以上何も言わなかった。

 しばらく、ハンガーの触れ合う音だけが続く。

「そういえば」

 久瀬がシャツを洗濯籠へ入れながら言った。

「山根家の件、処分が決まった」

「……空き家ですか?」

「ああ。建物そのものが異失物化している可能性が高く、現状のまま管理するには危険すぎるからな。本部の判断で、建物を解体して破壊処理することになった」

「そっか……」

 空き家の鍵に触れたとき、見た記憶が脳裏に蘇る。思わず俯くと、久瀬が小さく息をついた。

「残せば、また誰かを取り込む可能性がある」

「分かってます」

 悲しくないと言えば、嘘になる。

 けれど、あの家が求めていた家族はもう戻らない。終われないまま残り続けるより、終わらせてやる方がいいのかもしれない。

 宙は柵に背中を預け、空き家で起きたことを反芻する。

 クローゼットの中で見た、記憶の断片。あれは、記憶を失くす前の自分の記憶だったのだろうか。

『三井くんは、自分の記憶を取り戻したい?』

 以前、篠原に問われたことを思い出す。あの後、彼はこうも言っていた。

『知りたいなら、方法は二つある。本部が情報を開示するのを待つか、あるいは、未回収の異失物を自分で見つけるか』

 穏やかで、それでいて何を考えているのか分からない瞳が宙を見た。

『前者は、たぶん時間がかかる。もしかすると、永遠に開示されないかもしれない』

『永遠に……』

『後者は危険だけど、君自身の目で確かめられる』

 篠原は「すぐに答えを出す必要はない」と言っていた。

 けれど、宙の中では、もう答えが決まっていた。

「俺の記憶を奪ったかもしれない異失物……探してみようと思います」

 呟くように言った宙に、久瀬の手が止まる。

 久瀬がこちらを振り向いたのが、気配で分かった。宙は足元を見つめたまま、続ける。

「記憶が戻ったら、嫌なことも思い出すかもしれない。たぶん、楽しいことだけじゃないんだと思います」

 身体の前で両手を組み、ぎゅっと握りしめる。

「それでも……俺の記憶なら、知りたい」

 久瀬はしばらく黙っていた。

「……勝手にしろ」

 素っ気なく言うと、洗濯籠を抱え、部屋の中へ戻っていく。

「冷たいな〜」

 苦笑しながらも、てっきり止められるのかと思っていたから、ほっとした。久瀬を追ってリビングに戻ると、ちょうどテレビで『おかえりワンワン』のアニメが始まるところだった。

『<おかえり>のある場所が、あなたのお家』

 有名だと秋田が言っていたキャッチフレーズが、ナレーターに読み上げられる。その言葉に、宙は「あ」と声を漏らした。

「久瀬さん、忘れてました!」

 洗濯籠を抱えたままの久瀬が振り返る。宙は満面の笑顔で久瀬を見た。

「おかえり!」

 久瀬は虚を突かれたように、わずかに目を見開く。それから、少し――ほんの少しだけ、表情をやわらげた。

「……ただいま」







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異失物管理番号:02-028

作成日:2026年9月10日

作成者:久瀬隼人、三井宙

異失物名:空き家・山根家

分類:領域形成型

危険度:Ⅰ級

発動条件:対象敷地内への立ち入り

確認された影響:対象者に、本人が後悔している過去を追体験させる。対象者を「家族」または「客」として認識し、「家族」と認識した対象を領域内に閉じ込める。

破壊可否:可能。ただし、領域内部からの破壊は危険を伴うため、屋外からの処置を要する。

処置:建物を解体し、破壊処理


備考:当該空き家に付随する鍵への接触時、接触者(異失物管理番号:02-018の装着者)が、対象物由来と思われる過去の追体験を申告。同接触者からは、本件を含む計四件の異失物において同様の申告が確認されている。以上の事例を踏まえ、本件をもって当該接触者を感応者として認定した。

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【感応者候補・三井宙に関する経過報告】


対象者:三井宙


異失物管理番号:02-028に付随する鍵への接触後、対象者に強い感応反応を確認した。

対象者については、本件を含む計四件の異失物への接触時に、対象物由来と思われる過去の追体験が確認されている。

以上をもって、三井宙を正式に感応者として認定し、本部データベースへ登録する。


また、個別の聞き取りにより、対象者には幼少期の一部記憶の欠落、および閉暗所に対する強い恐怖反応が認められた。

本人は原因を把握しておらず、これらの症状と過去の異失物による干渉との関連については、現時点では不明である。


ただし、感応能力が確認されたこと、記憶欠落の発生時期、ならびに未解決事案⬛︎⬛︎-⬛︎⬛︎⬛︎の発生時期との一致を鑑み、対象者を単なる民間協力者として扱うことは不適切と判断する。


よって、夏期インターンシップ終了後も引き続き対象者を東京分駐所預かりとし、長期インターンシップへ移行させる。

併せて、東京分駐所における継続的な経過観察を行うこと。


特異遺失物管理課東京分駐所

統括管理官 篠原 悠

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いったん完結です!

ここまで読んでくださってありがとうございました。

感想などありましたら、一言でもいただけると嬉しいです。

続編はカクヨムでのみ掲載予定です。

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