13
「三井、いるのか?」
聞き慣れた、静かな声。息苦しさがほんの少しやわらいだ気がして、ふっと息を吐く。
「……久瀬、さん」
「下がれ」
言われるまま、狭い中でできる限り身体を後ろへ寄せる。直後、扉に何か硬いものがぶつかり、激しく揺れた。
とっさに目を閉じると、ガンッ、ガンッと数回音が響き――次の瞬間、バキッと何かが壊れる音がした。
目を開けると、眩しい光が降り注ぐ。顔を上げた先、壊れたクローゼットの扉の向こうに、久瀬が立っていた。
野球のバットを片手に、肩で息をしている。
宙はしばらく何も言えなかった。ただ、その顔を見た瞬間、張り詰めていたものが一気に緩む。
「……遅いですよ」
ようやくそれだけ絞り出す。久瀬は眉間に深く皺を寄せた。
「何でお前がここにいる」
「迎えに来たんです。……同居人を」
宙は足元を手で探り、いつの間にか落としてしまっていたファイルを拾った。震える膝に力を入れ、クローゼットの中から這い出す。
「一緒に帰りましょう」
久瀬の前に立ち、笑いかける。久瀬は深く息を吸い――
「この――馬鹿!」
思いきり宙を怒鳴りつけた。
「なっ……馬鹿!?」
可愛い後輩が先輩のピンチを助けに飛んできたのに。ここは感激して涙を流すところじゃないのか?
「何で来たんだ! 来るなって言っただろ!」
あり得ないことに、久瀬はさらに宙を叱り続ける。
「ここはⅠ級の領域形成型だぞ。何が起きるか分からないって――」
「分かってます! だから来たんでしょ!」
宙は負けじと声を張った。久瀬が言葉を止める。
「自分が一番危ない目に遭ってるくせに、何かっこつけてるんですか!」
「かっこなんてつけてない」
「うるさい、痩せ我慢! そんなだから空っぽのケチャップも捨てられないんですよ!」
「今ケチャップは関係ないだろ。あと、あれは空じゃない」
「空です!」
いつの間にか、いつもの言い合いになってしまっている。
だが、今は喧嘩をしている場合ではない。
宙は一度息を吐き、胸の前でファイルを抱え直した。
「話は後にしましょう。とにかく、帰らないと」
「どうやって? まさか無策で来たわけじゃないだろうな」
腰に手を当て、久瀬が尋ねる。
助けられる側とは思えないような、ふてぶてしさだ。もう半日くらい放置してから助けにきた方がよかったかもしれない。
「当たり前じゃないですか」
宙はふん、と鼻を鳴らし、久瀬を指さした。
「足手まといって言ったこと、後悔させてやりますから」
宙は久瀬を促し、玄関へ移動した。赤茶色の扉は閉ざされたまま。内側を向いた鍵穴も、久瀬が見たときから変化していないらしい。
「それで、どうするんだ」
「これを使います」
宙は抱えていたファイルを開いた。中から一枚の紙を取り出す。
「何でそんなもの……」
久瀬が、怪訝そうに眉を寄せる。紙の一番上には、大きくこう書かれていた。
『独身寮同居規則』
久瀬が作り、二人で署名した、あの規則だ。
「この家、久瀬さんを山根さんの息子だと思ってるんですよね」
「恐らくな」
「だったら、違うって教えてあげればいいんです」
宙は紙を両手で持ち、久瀬へ見せた。
「久瀬さんには、別の家があるって」
これは、他の誰でもない久瀬自身が作った規則だ。
細かくて面倒な決まりばかりで、正直、最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた。冷蔵庫の食べ物には名前を書くとか、緊急時以外は互いの部屋に入らないとか。わざわざ署名までして約束するようなことじゃない、と。
だけど、一緒に暮らしていくうちに、何度もぶつかって、喧嘩をして。そのたびに規則は増えたり、減ったり、少しずつ形を変えていった。
そうして出来上がったこの『独身寮同居規則』は、いつの間にか、宙と久瀬が一緒に暮らしてきた軌跡そのものになっていた。
「この家が言葉とか行動で、住人と客を決めてるなら……こういうのも、意味があると思うんです」
久瀬は紙を見つめたまま、何も言わない。しばらくして、脱力したようにため息をついた。
「……こんなところで役に立つとは思わなかったな」
「俺もです」
むしろ一生役に立たないと思っていた。
そう思ったことは秘密にして、玄関扉の前に立つ。
「読みますよ」
「ああ」
紙に目を落とす。小さく息を吸い、「せーの」の合図で一緒に読み始める。
「独身寮同居規則。本規則は、異失物管理課独身寮第一棟三〇五号室において、久瀬隼人および三井宙が共同生活を送るにあたり、両名の生活区域、共用部分、私物管理その他必要事項を定めるものである」
そこまで読んだところで、久瀬が眉間に皺を寄せ、小声で尋ねてくる。
「これ、全部読むのか?」
「もちろんです。大事な家のルールなんで」
「いつも違反してる奴が言うな」
ジト目で睨まれる。宙は口を尖らせた。
「リビングなら、帰ったら片付けますよ!」
思わず言い返して――はっとする。
――帰ったら。その言葉を確かめるように、もう一度口にする。
「……帰ったら、ちゃんと片付けます」
久瀬が宙を見る。
「だから、久瀬さんも帰りましょう」
「……ああ」
頷き合うと、再び同居規則を読み進める。そして、最後に二人の名前が並んだ欄へ視線を落とした。
「久瀬隼人」
隣に立つ本人を見る。
「三井宙」
読み終えた、その瞬間。
――カチャリ。
二人は同時に玄関扉を見た。鍵の開く音だった。
「……開いた?」
見ると、玄関に久瀬と宙の靴が並んでいる。スリッパから履き替えると、宙は恐る恐るドアノブへ手を伸ばした。
ゆっくりと扉を押すと、オレンジ色の夕日が差し込んでくる。門の向こうには、浜松と秋田の姿も見えた。
「……やった」
声が漏れる。思わず駆け出そうとした宙の肩を、久瀬が掴んで止めた。
「最後、挨拶」
「あっ!」
慌てて二人で玄関に並ぶ。久瀬と目配せし、一緒に家の中へ向かって頭を下げた。
「お邪魔しました」
最初に宙が、次に久瀬が敷居を跨ぐ。今度は、久瀬の身体が押し戻されることはなかった。
「久瀬! 三井!」
浜松の声が聞こえる。
宙はようやく安堵の息を吐いた。振り返ると、赤茶色の玄関扉が静かに閉じていく。
最後に見えた家の中は、もう二十年前の明るい玄関ではなく、埃を被った暗い空き家へ戻っていた。
――久瀬の帰る場所は、ここじゃない。
宙は隣を歩く久瀬を得意げに見た。
「ほら。ちゃんと連れて帰れたでしょ」
「……そうだな」
「足手まといじゃなかったでしょ?」
「調子に乗るな」
「そこは素直に認めてくださいよ!」
文句を言いながらも、宙の口元には笑みが浮かんでいた。




