12
山根家の門の前に立つと、思っていた以上に足が竦んだ。資料で何度も見た、古びた二階建ての家。門の向こうには赤茶色の玄関扉が見える。
この中に、久瀬がいる。――怖気付いている場合じゃない。
宙は手に持っていたファイルを胸に抱き、門を潜った。近くに停めた車から、こちらを見守る浜松と秋田の視線を感じたが、あえて振り返らなかった。
玄関前まで進むと、直接触れないよう手袋をした手で鍵を差し込む。
カチャリ、と音を立てて鍵が開いた。
扉を開けると、暗い玄関が宙を迎える。
「……お邪魔します」
敷居を跨ぎ、深く息を吸うと、家の奥へ向かって続ける。
「同居人の久瀬さんを迎えに来ました!」
声を張り上げた瞬間、背後で鍵の閉まる音がした。空気が揺れるのを感じる。まるで、家が怒っているような気がした。
久瀬を――息子を連れて行く者は許さない、と言うように。
ごくりと唾を飲み込む。胸に抱いたファイルを確かめるように撫で、再び大きく息を吸う。
「久瀬さーん! いたら返事してください!」
靴カバーをつけ、玄関を上がる。その瞬間、家の中がまばゆい光に包まれた。
「……っ!」
電気がついたのだ。窓も雨戸が上がり、外から光が差し込んでいる。足元は、浜松から聞いたのと同じ、緑の客用スリッパに変わっていた。
宙はショルダーバッグから取り出しかけた懐中電灯を戻した。……これは必要なさそうだ。
気を取り直し、久瀬の名前を呼びながら廊下を歩き出す。
左手に和室。右手には洗面所。正面にはリビング。浜松から聞いた間取りと、今のところは一致している。
「久瀬さん! 久瀬さーん!」
繰り返し名前を呼ぶが、返事はない。それほど大きな家でもないし、本来ならどこにいても聞こえる声なはずだ。恐らくこの家が、意図的に、久瀬に聞かせないようにしているのだろう。
リビングへ入ると、四人分の夕食がテーブルの上に並んでいた。湯気の立つ味噌汁。ケチャップの掛かったハンバーグ。つやつやとした白米。
誰もいないのに、まるで今から家族が食卓を囲むかのようだった。
ぞわり、と背中に寒気が走るが、宙は負けじと口を開いた。
「あと一セット足りませんよー! 久瀬さんは客なので!」
腹から声を出すが、応答はない。料理も増えない。
宙はすごすごとリビングを後にした。ここに久瀬がいたらよけいなことをするなと怒っただろう。
気を引き締め直し、しんとした廊下を歩き出す。客に見えるよう、周囲の物には触らず、大人しく部屋を回った。
「迎えに来ただけだからな……」
二階へ続く階段を上りながら、誰に聞かせるでもなく呟く。
「久瀬さんがいたら、すぐ連れて帰るから」
手袋越しに手すりを掴み、慎重に一段ずつ上っていく。二階には三つの扉があり、宙は手前の部屋を開けた。
夫婦の寝室らしい。
「いない……」
次の扉は書斎で、こちらも空振り。残るは廊下の一番奥の部屋のみとなった。
扉を開けると、勉強机とベッドが見えた。棚には漫画と参考書、その横には野球のバットとグローブが無造作に置かれている。
「子ども部屋……?」
久瀬は、この家に息子として認識されている。なら、ここにいるかもしれない。
「久瀬さん!」
部屋へ足を踏み入れた――その瞬間だった。背後で、ばたん、と扉が閉まる。
「っ!」
慌てて振り返る。けれど――扉がない。代わりに宙の周りには、服が掛けられていた。
「……え?」
ここがクローゼットの中だと気づくのに、少し時間を要した。
――狭い。壁が、すぐそばにある。
圧迫感に、喉の奥が引き攣った。クローゼットの中は暗く、扉の隙間から、わずかな光が差し込んでいるだけだ。
「……はっ……」
息が浅くなる。
――駄目だ。分かっている。ここはただのクローゼットで、扉を押して出ればいいだけだ。
そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
「は……っ、は……」
胸が苦しい。吸っても、吸っても、空気が足りない。
やっとの思いで手を伸ばし、扉に触れると、思い切り押した。けれど、扉はびくともしない。
押して、引いて、叩いて。何をどう試しても、扉が開く気配はない。
「開け……っ」
声が掠れる。
「開けろ……!」
暗くて、狭い。――息ができない。
宙はシャツの胸元を掴み、その場に蹲った。――その瞬間、頭の奥で何かが弾ける。
目の前の景色が揺れ、クローゼットの壁が消えた。代わりに見えたのは――瓦礫の山。
暗く、埃っぽい空気。息を吸うたび喉の奥がざらついた。
身体が重い。何かに挟まれているのだろうか。思うように身動きが取れない。足が痛い。腰も、肩も、どこが痛いのか分からないくらい、全身が痛かった。
助けを求めるように視線を彷徨わせる。すぐそばに、誰かが横たわっているのが見えた。
暗闇の中、こちらへ向かって伸ばされた手。――女の人の手だ。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎……」
喉の奥から声が漏れた。声変わり前のような、少し高い声。女の人を呼んだ気がするのに、何と呼んだのか分からない。
ただ、胸が引き攣れるように痛んだ。目の前が涙で滲む。
「宙……大丈夫だ……」
少し離れたところから、男の人の声がした。弱い声だった。
「すぐ、助けが……」
そこまで聞こえて――途切れる。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎?」
返事はない。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎……?」
動かない。何度呼んでも、誰も答えない。
全身がガタガタと震えだす。
早く――助けを呼ばないと。俺が、助けないと。
そう思うのに、声が出ない。息が苦しい。苦しくて、息を吸おうとするのに、もっと苦しくなる。
そのとき、遠くから誰かの声が聞こえた。助けが来たのだ。
「――――っ」
助けて。ここにいる。
そう叫ぼうとするのに、声が出ない。
早く助けを呼ばないと、間に合わなくなる。
瓦礫の隙間から見える救助隊の姿が遠ざかっていく。その姿に、ふいに見覚えのある姿が重なった。
背の高い、スーツ姿の男。――久瀬だ。
「……たす、けて」
声が出た。小さく、掠れていても、溢れた声は確かに空気を震わせた。
『動かなくていい。息は吸うな。吐け』
いつか、久瀬に言われた言葉が脳裏に蘇る。宙は目を閉じて、深く息を吐いた。
「助けて……久瀬さん! 久瀬さん!」
何度も繰り返し叫ぶ。返事がなくても、声が裏返っても、構わず久瀬を呼び続けた。
「久瀬さん!」
「――三井?」
ふいに、声が聞こえた。
息をのんで目を開けると、さっきまであったはずの瓦礫の山がなくなっている。宙の周りには、ハンガーに掛かったコートやスラックスがぶら下がっていた。




