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 それから二人は、一階の部屋を順番に調べて回った。

 家の中は、先ほどまでの埃っぽい空き家とはまるで別物だった。洗面所には歯ブラシが三本並び、台所の水切り籠には洗ったばかりのような食器が伏せられている。冷蔵庫を開ければ、飲みかけの牛乳や作り置きの惣菜まで入っていた。

 どれも二十年前、この家でまだ三人が暮らしていた頃の生活を、そのまま再現しているように見える。

「ずいぶん手の込んだ領域だな」

「浜松さんは引き続き、異変がないかを見張っててください」

「はいはい、分かってるよ」

 浜松が冷蔵庫から離れ、部屋を見回した――そのときだった。

 ボーン、と低い鐘の音が、家の中に響いた。

 二人は同時に顔を上げる。

「時計か?」

 音のする方へ戻る。リビングへ入ったところで、久瀬は足を止めた。

 壁に掛かった振り子時計の針は、午後七時を指している。

「……十九時?」

 家に入ったのは午前十時過ぎだった。

 久瀬は反射的に腕時計を見る。だが、デジタル表示は乱れ、意味のない数字を点滅させている。

「久瀬」

 浜松の声に、視線を上げる。

 先ほどまで何もなかったローテーブルの上に、夕食が並んでいた。

 四人分の白米と味噌汁、ハンバーグ、ポテトサラダ。湯気まで立っている。

「……えらく歓迎されてるな」

 浜松が冗談めかして言ったが、その顔は笑っていなかった。

「食べない方がいいでしょうね」

「ああ。こういう場所で出された飯を食って、ろくなことになる気がしない」

 久瀬はテーブルには近づかず、部屋の中を見回した。

 四人分の食事。三人分は山根勤と、妻と、息子の分として――あとの一つは誰のものだ?

 時計の鐘が鳴り終わると、リビングに静寂が戻る。そこで、久瀬は妙な感触に気づいた。

 足元が、先ほどまでと違う。

 視線を落とした久瀬は、思わず目を見開いた。

「……俺たち、靴カバーを使いましたよね」

「何?」

 浜松もつられて足元を見て――表情を変えた。

「おいおい……」

 二人が履いていたのは、白い靴カバーではなかった。

 久瀬は色褪せた紺色のスリッパ。長年使われていたらしく、踵の部分が潰れている。浜松は新品のように綺麗な緑のスリッパを履いている。

 久瀬はすぐに脱ごうとした。だが足を抜き、床へ置いたはずの次の瞬間には、また足元に戻っている。

「……なるほど」

「なるほど、じゃないだろ」

 二人の間に、短い沈黙が落ちた。

「げ……玄関に行ってみよう。靴があるかもしれないだろ」

 浜松は空気を変えるように、バシバシと久瀬の背中を叩いた。久瀬は「痛いです」と文句を言いつつ、玄関へ向かう。

 玄関には山根勤とその妻、息子のものらしき靴と、浜松の革靴があった。念のため靴箱を開けてみるが、久瀬の靴だけは、どこにもなかった。

「まじかよ……」

 浜松が低く呟く。玄関扉は相変わらず反転したまま、内側に鍵穴を向けている。

 久瀬はドアノブに触れたが、やはり開かない。

 四人分の夕食と、勝手に履かされたスリッパ。消えた久瀬の靴。

 久瀬は、家へ入ったときのことを思い出した。

『お邪魔します』

 玄関でそう口にした浜松に、自分は何と言ったか。

 久瀬はゆっくりと浜松を振り返った。

「……恐らく、この家は『家族』を閉じ込めてます」

「家族?」

「少なくとも、住人と客を区別している」

 自分の足元を指す。

「浜松さんのスリッパと比べて、俺のスリッパは使い古されてます。恐らく、浜松さんのスリッパは客用で、俺が履いているのは家族の誰か――恐らく息子さんのスリッパです」

 話しながら、久瀬はさっきリビングで見た食卓を思い出す。

「用意された夕飯が四人分だったのも、浜松さんだけが客と認識されていたからでしょう」

「何で俺だけ客なんだ?」

「入るとき、『お邪魔します』って言ったからじゃないですか」

「……なるほどな」

 納得したように、浜松が頷く。

「家に入ってからも、常に俺が先導していました。普通、客が住人の前に出ることはないですからね」

「確かに。俺は家の中の物にもほとんど触らなかったしな」

 浜松の言葉に久瀬は小さく息を吸う。

「家族なら、家から出せない。だけど――客なら帰れるはずです」

 久瀬はまっすぐ浜松の目を見た。

「試してみましょう」

 二人は玄関に立った。浜松が靴を履く。

 久瀬はその背後に立ち、少し考えてから口を開いた。

「今日は来ていただいて、ありがとうございました」

「……お前、急に芝居下手だな」

「うるさいです。合わせてください」

「はいはい」

 浜松はわざとらしく咳払いをすると、玄関の方へ身体を向けた。

「じゃあ、そろそろ失礼するよ」

「お気をつけて」

 浜松がドアノブへ手を掛ける。

「お邪魔しました」

 ――カチャリ。

 聞こえた音に、二人とも動きを止めた。

 鍵の開く音だ。

 先ほどまでびくともしなかった玄関扉が、あっけないほど軽く開いた。外の光が差し込んでくる。

「……当たりだな」

 浜松が息をつく。扉の向こうには、伸び放題の庭が見えた。――元の世界だ。

「行ってください」

「何言ってるんだ。お前も来い」

 久瀬は一瞬ためらった後、浜松の横を抜け、そのまま外へ踏み出そうとした。

「――っ!」

 その瞬間、身体全体を強く押し返された。目に見えない何かに弾かれ、久瀬は玄関の床へ背中から倒れ込む。

「久瀬!」

 浜松がとっさに戻ろうとする。

「来ないでください!」

 久瀬は起き上がり、鋭く叫んだ。浜松の足が止まる。

「浜松さんは客として外に出られた。戻ったら、次はどうなるか分かりません」

「でも、お前を一人で置いていけるか!」

「外に出た方ができることが多い。篠原さんに内部の情報を共有して、応援を要請してください」

「久瀬――」

「早く!」

 浜松は扉へ手を掛けたまま、久瀬を睨むように見つめた。

「必ず助けに戻る」

「お願いします」

 浜松が扉の外へ出る。次の瞬間、勢いよく扉が閉まった。

 鍵の掛かる音が、静かな玄関に響く。

 久瀬はしばらく閉じた扉を見つめていた。

 足元には、色褪せたスリッパ。背後からは、食事の匂いが漂ってくる。

 まるで、家族の一人がようやく帰ってきたとでもいうように。

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