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それから数日後。宙と秋田は今日も留守番で、分駐所の書類整理をしていた。
「そろそろお昼だけど、浜松さんたち大丈夫かなぁ」
書類をファイルに綴じながら、秋田が壁の時計を見上げる。
時刻は十一時を回ったところだ。
この数日、久瀬と浜松は空き家の周辺調査を続けている。近隣住民への聞き込みと並行して、敷地内へ短時間だけ立ち入る調査を繰り返した結果、少なくとも十分以内であれば、例の記憶干渉は起こらないことが分かったらしい。
そこで今日は、初めて建物の中へ入って調査を行っている。
もちろん、一度の滞在時間は十分以内。時間になれば必ず外へ出て、異常がないことを確認してから再び中へ入る。何かあればすぐに連絡し、昼を過ぎても連絡がない場合は、篠原へ報告するよう言われていた。
「大丈夫なんじゃないですか? 足手まといもいないし」
宙は書類から顔も上げずに答えた。
「三井くん、まだ久瀬さんと喧嘩中なの? 粘るねぇ」
秋田がおかしそうに笑う。宙はむっと唇を尖らせ、ファイルの背表紙にラベルを貼った。
「久瀬さん、俺のこと馬鹿だと思ってるんですよ」
だから、何を聞いても教えてくれないし、今回の異失物の調査にも連れて行ってくれないのだ。いじける宙に、秋田は「んー」と考えるように眉を寄せた。
「まあ、それは仕方ないんじゃない?」
「酷い……!」
思わずシャツの胸元を握りしめ、めそ、と目を潤ませる。
「あっ! ち、違う違う! そういう意味じゃなくて!」
秋田が慌てて両手を振った。
「三井くんが馬鹿って意味じゃないよ。久瀬さん基準で考えたら、たぶん大抵の人は自分より頭悪く見えるんじゃないかなって」
「……久瀬さんって、そんなに頭いいんですか?」
「まあ、警察のキャリア採用らしいし」
「キャリア採用?」
宙は目を瞬いて秋田を見た。
「なんかドラマとかで聞いたことある気はしますけど……それって、すごいんですか?」
「すごいよ!」
秋田が思わず声を上げ、すぐにはっとして声量を落とす。
「キャリア組なんて、警察の中でもほんの一握りだし。ほとんどが帝都大の法学部とか、そういう超難関大出身なんだから」
「ええっ!?」
今度は宙が声を上げた。
確かに、普段一緒に仕事をしていて、調査の段取りのよさや、作成された書類を見て、頭がよさそうだと感じることはあったが。
「じゃあ、めちゃくちゃエリートってことですか?」
「そういうこと。だから久瀬さんの年齢なら、今頃もっと本部の中心で働いててもおかしくないはずなんだよ。いまだに分駐所勤務って、かなり珍しいと思う」
「へぇ……」
職場だけの印象なら、確かに違和感はなかっただろう。だけど、毎朝ぎりぎりまで寝ていて、空になったケチャップをいつまでも使おうとするあの久瀬が……エリート。
「じゃあ、何でここで働いてるんですか?」
「さあ……現場が好きなのかな?」
秋田が首を傾げる。
「ほら。電話鳴ったら誰より早く取るし、案件入ったらすぐ動くでしょ」
「確かに」
二人で笑いながら話しているうちに、書類整理が終わる。
「じゃあ、次はこっちやろっか」
秋田が立ち上がり、一時保管棚から透明なケースを取り出した。
中に入っているのは、数日前に潮が届けた銀色の鍵だ。
あれから何度か接触試験を行ったが、今のところ確認されている現象は、触れた人間に『おかえり』という声を聞かせることと、漠然とした『帰らなければならない』という感覚を与えることだけだった。
身体や精神への直接的な危害は確認されていないため、仮の危険度はⅢ級としている。遺失物センターにも照会を続けているが、いまだ持ち主らしき人物からの問い合わせはない。
「そろそろ三井くんも触ってみる?」
「いいんですか?」
ケースを差し出され、躊躇いがちに受け取る。
「今のところ危険な反応は出てないし。三井くんが触ったら、何か見えて持ち主が分かるかもしれないでしょ」
「分かりました。……やってみます」
宙は椅子を引き、秋田のデスクのそばへ移動する。
「何かあったら、すぐ離してね」
「はい」
ケースの蓋を開ける。宙は一度息を吸ってから、銀色の鍵へ手を伸ばした。
指先が、冷たい金属に触れる。――その瞬間。
「っ……!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。視界が真っ白に弾ける。思わず鍵を握りしめた次の瞬間には、見知らぬ場所に立っていた。
目の前に、赤茶色のアルミ製の玄関扉がある。扉に鍵を差し込み、回すと、錠の外れる音がした。
「ただいま」
自分のものではない、低く穏やかな男性の声。返ってくる声はない。
玄関を上る。すっかり日は沈んでいるのに、家の中には明かり一つついていない。宙は電気をつけ、ゆっくりと廊下を進んでいく。
リビングへ続くドアを開け、一歩踏み出すと、靴下が濡れる感触がした。後退り、足元を見る。床に、赤黒いものが広がっていた。
血だ。その中心に、二人の人間が倒れている。
一人は女性。もう一人は、制服を着た高校生くらいの男の子。
宙は血溜まりの中に膝をつき、二人の身体に触れた。冷たく、強張った身体。何度揺さぶっても目を開けることはない。
「あ、あぁぁあああ……!」
誰かの叫び声が聞こえた。それが自分の喉から溢れたものだと気づくのに、少し時間がいった。
頭の奥が、激しく軋む。
「――ん、三井くん!」
強く肩を押され、はっと息を吸う。
視界が揺れ、分駐所の景色が戻ってくる。
「……っ、は……」
「大丈夫!?」
目の前に秋田の顔がある。
いつの間にか椅子から身体をずり落としかけていたらしい。秋田に肩を支えられ、宙は荒い息を繰り返した。
――気持ちが悪い。全身に冷や汗を掻いていた。
「三井くん、鼻……!」
「え?」
鼻の下に、生温かいものが伝う感触がした。手の甲で拭うと、赤い血がべったりと付く。
「うわ、鼻血……」
「ちょっと、全然大丈夫じゃないじゃん! 上向かないで。ティッシュ取るから!」
秋田が慌てて箱からティッシュを引き抜く。宙はそれを受け取りながら、デスクの上に置かれた鍵を見た。
「……秋田さん」
「何? 気分悪い?」
「俺、今……家を見ました」
心臓が、嫌な音を立てている。
宙は記憶の中に浮かんだ光景を、必死に思い返した。
古びた玄関。赤茶色の、アルミ製の扉。
――どこかで見た。
宙はデスクの引き出しからファイルを取り出し、パラパラと捲った。ファイルの半ばに、先日、会議室で篠原から配られた資料が挟まっている。そこに載った写真を見て、宙は確信した。
「この空き家です」
「え?」
「浜松さんたちが調べてる家です! 資料の写真に写ってる玄関と、同じだった!」
秋田の表情が、さっと強張る。
「本当に?」
「たぶん……いや、同じです。赤茶色のアルミの扉で、それから、中に入ったら――」
言葉に詰まる。血溜まりと、そこに倒れていた女性と男の子の姿。
「……人が、二人倒れてました」
秋田が息を呑んだ。
「女の人と、男の子。床に血がいっぱいあって……。たぶん、死んでた」
「それって……」
秋田が何か言いかけ――ふいに視線を上げた。壁に掛かった時計を見て、動きを止める。
十二時一分。
じわり、と背中に冷や汗がにじむ。秋田はすぐに机の上のスマートフォンを手に取った。
「連絡、ないよね?」
「はい」
分駐所の固定電話にも、宙のスマートフォンにも着信はない。
「浜松さんに掛けてみる」
秋田がスマホを操作し、通話ボタンを押す。宙は無意識に、その手元を見つめた。
呼び出し音が何度か鳴るが、一向に繋がらない。秋田の表情に、わずかに焦りが滲む。
いったん通話を切り、今度は宙が久瀬へ掛けるが、こちらも繋がらない。
「久瀬さんも出ません」
宙は壁の時計をもう一度見上げた。
――十二時三分。
たった三分だが、事前に決められていた時間はもう過ぎている。宙の胸の奥に、嫌なざわつきが広がった。
「秋田さん」
「うん」
秋田は迷わず頷き、スマホを握りしめた。
「篠原さんに連絡しよう」




