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九月に入ると、急に暑さがやわらいだ。日中はまだエアコンがないと厳しいが、朝夕は風も涼しく過ごしやすい。
朝、いつものように分駐所へ出勤すると、宙は篠原の執務室を訪ねた。執務室は窓が開け放たれ、部屋の隅に置かれたタワーファンが心地よい風を送っている。
「すみません、篠原さん。忙しいのに時間とってもらって」
「構わないよ。今日はちょうど、こっちに来る用事があったし」
応接用のソファを勧められ、腰を下ろすと、篠原はローテーブルを挟んだ向かいのソファに座る。
「それで、何かな? 聞きたいことって」
いつもの穏やかな笑みを浮かべ、篠原が尋ねる。宙は膝の上で組んだ手に、少しだけ力を込めた。
「……前に、異失物に深く干渉された人間は、感応性を残すことがあるって言ってましたよね」
「うん」
「俺……実は、小四のときに記憶喪失になっていて。それって、異失物と何か関係あると思いますか?」
篠原の笑みが、わずかに薄れた。すぐには答えず、宙の顔をじっと見つめる。
「……可能性はある」
やがて小さく息を吐くと、背もたれに身体を預けた。
「君が十一年前に遭った事故の記録は、異管にも残っている。市民会館の崩落事故だね」
思わず目を見開く。
「なんで、知って……」
「きみのインターンが決まる前、いろいろ調べさせてもらったんだ。ごめんね」
「知ってたなら、言ってくれたらよかったのに」
思わず、口を尖らせる。篠原は軽く首をすくめて笑った。
「きみが異管の仕事を続けられるか、まだ確証がなかったから、言えなかったんだ。一般人に機密に関わる情報は教えられないからね」
「機密?」
目を瞬いた宙に、篠原は頷く。
「当時の現場では、異失物によるものと思われる異常現象が確認されている。ただ、事故そのものの規模が大きく、現場はかなり混乱していた。該当する異失物は回収されていない」
「じゃあ――」
「今も未回収。行方不明のままだ」
宙は思わず眉を寄せた。
「行方不明……」
「それ自体は、さほど珍しいことじゃないよ」
篠原は静かに続ける。
「異失物が発生しても、必ず異管がすぐに把握できるわけじゃない。普通の遺失物として処理されたり、誰かが拾って持ち帰ったり、そのまま廃棄されたりすることもある。本部では、そういった未回収異失物の情報を蓄積して、該当しそうな案件が見つかったときには各分駐所へ照会をかけている」
「じゃあ、俺の記憶喪失に関係してる異失物も、そうやって探してるんですか?」
尋ねると、篠原は少し困ったように眉尻を下げた。
「それがね。君に関係がありそうな未回収異失物については、扱いが違うんだ」
長い脚をゆったりと組み、小さく息をつく。
「本部の特別管理室が、秘匿管理案件に指定している」
聞き慣れない言葉に、宙は瞬きをした。
「……秘匿管理案件?」
「通常の未回収異失物なら、管理番号や推定される物の見た目、性質なんかは、必要に応じて各分駐所にも共有される。でも、この案件に関しては情報規制がかけられているんだ。僕の権限では、詳しい記録を見ることができない」
「何で、そんなことになってるんですか?」
思わず身を乗り出す。
「理由は僕にも分からない」
篠原はあっさりと言った。
「特別管理室は、通常の保管室では扱えない異失物を管理、研究している部署なんだ。破壊できないものや、破壊した場合の影響が予測できないもの。それから――異失物としての性質に、有用性が認められているものなんかをね」
「有用性……」
「たとえば、条件次第では人命救助や捜査に利用できる可能性があるもの。もちろん、危険性がなくなるわけじゃないから、扱いはかなり慎重だけど」
篠原は一度言葉を切った。
「本部の中でも、かなり閉鎖的な部署だよ。所属していない人間には、必要以上の情報を開示しない。もちろん僕も例外じゃない――というか、どちらかと言うと僕は彼らに嫌われてるんだ」
「何でですか?」
「警察って縦割り社会でしょ? でも僕、そういうのあんまり馴染めなくって。いろいろやりたいようにやっちゃってるから」
「あー……」
はは、と笑う篠原を見て、正直なところ納得してしまった。
苦笑しつつ、視線を落とす。膝の上で組んだ、自分の指先をじっと見つめた。
「当事者の俺でも……情報は開示してもらえないんですか?」
「きみの記憶喪失が関係しているというのは、あくまでも可能性があるというだけだからね。確たる証拠がなければ、特別管理室は首を縦には振らないだろう」
顎に手を当て、篠原は長い睫毛を伏せる。
「記憶喪失は事故による外傷や精神的なショックが原因だった可能性もある。君は当時、事故で怪我を負っていたからね。ただ――」
そこで、篠原は宙を見る。
「現在の君に感応性があること。そして、十一年前の事故現場で未回収の異失物があったこと。この二つに関連がある可能性は、否定できない」
宙は小さく頷いた。篠原は微笑み、宙の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「三井くんは、自分の記憶を取り戻したい?」
問われた言葉に、はっと息をのむ。
記憶を……取り戻せる?
そんなこと、考えたこともなかった。だけど、原因が異失物なら、確かに可能なのかもしれない。
「俺、は――……」
掠れた声が溢れた。迷うように視線を彷徨わせ、何も言えないまま、口を閉じる。
篠原はふっと表情を緩め、ソファに背中を預けた。
「急に言われても困るよね。……すぐに答えを出す必要はないよ。ゆっくり考えてみるといい」




