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「うるさい。近所迷惑だ」
ドアが開き、久瀬がじっとりと睨んでくる。
「久瀬さん、遅いですよー。無視されたのかと思いました」
「…………」
「あー、暑い、溶けそう……お邪魔しまーす」
宙はキャリーケースを玄関に置いたまま、ずかずかと上がり込む。早くエアコンの効いた部屋に入りたい。
まだ不満そうな久瀬を無視し、宙はリビングに続いているらしきドアに手を掛けた。
「お邪魔しまーす……って、え!? 物無い! てか暑! エアコンは!?」
「ついてる」
「嘘だ! 設定温度何度ですか!?」
宙は唖然としてリビングを見回した。十畳ほどのリビングに、座布団と折り畳み式の小さな座卓が一つだけポツンと置かれている。キッチンカウンターの上にエアコンのリモコンを見つけた宙は、表示された温度を見て思わず声を上げた。
「三十度!? これ、つけてる意味あります?」
「外は四十度近いんだ。まだマシだろ」
「マシって何ですか!? こんなのエアコンの意味ないですよ!」
よく見ると、久瀬も若干汗をかいている。
こんなの絶対に身体に良くない。
「おい、勝手に下げるな。電気代かかるだろ」
問答無用で設定温度を下げると、久瀬が宙の手からリモコンを奪おうとした。宙は素早く背中にリモコンを隠す。
「三十度なんて、熱中症になりますって! 病院に運ばれたら、もっとお金かかりますよ?」
宙の言葉も一理あると思ったのか、久瀬が黙り込む。
「俺の分、光熱費の半額は課で出してくれるんだし、ちょっと温度下げても久瀬さんの支払いは減りますって」
「……分かった、譲歩してやる。ただし、二十八度までだ」
渋々、といった様子で、久瀬が頷く。
この男、ドケチすぎる。まだ来たばかりだが、宙はさっそく久瀬との同居生活に一抹の不安を覚えていた。
「あーもう、全然汗引かない……。俺、シャワー浴びてきていいですか?」
玄関に置きっぱなしだったキャリーケースを引っ張ってくると、リビングに広げて着替えを探し始める。
「おい、荷物は自分の部屋で広げろ」
「あれー、パジャマがない……」
一刻も早く汗を流したい宙は、久瀬の言葉を聞かなかったことにして、キャリーケースをひっくり返す勢いで中の物を出していく。据え置きのゲーム機その一、ゲームソフト、ゲームソフト、据え置きのゲーム機その二、ゲームソフト……と続いたのを見て、久瀬は眉を顰めた。
「お前、何しに来たんだ」
「共同生活です」
「ゲーム合宿に見える」
「それも楽しそうですね」
「楽しむな」
久瀬は宙を見張るように、腕を組んでじっと見下ろしてくる。しかし、パジャマはいつまで経っても出てこない。キャリーケースに入れ忘れたのだろうか。
宙は諦めたように、大きめの巾着袋を手に取った。
「仕方ない、今日はこれ着て寝るか……」
「何だそれは」
「犬です」
巾着袋から取り出したのは、犬の着ぐるみパジャマだ。耳の付いたフード部分を持ち、「わんわん」と鳴いてみせる。
「高校の文化祭で、バンドの演奏したとき着たんですよ」
「……わざわざ持ってきたのか? 何のために?」
「え? 懐かしいな〜って眺めるため?」
久瀬は理解できない、という顔で額を押さえた。
「それをパジャマにするのはやめろ」
「え、なんでですか。可愛くないですか」
「夜中にそれと廊下で鉢合わせたくない」
「それ呼ばわり」
「怪異と誤認する」
失礼な。宙は「でも、他に着るものないです」と口を尖らせた。
久瀬は一際大きなため息をつくと、リビングを出ていった。怒らせたかと思い、そわそわしていると、手に何かを持って戻ってくる。
「今日はこれを着ろ」
そう言って差し出されたのは、部屋着らしき薄手のスウェットパンツとTシャツだ。
「え、優しい!」
宙は喜んで受け取り、さっそくシャワーを浴びにいった。すっきりして戻ってくると、座卓の前に座った久瀬に「ちょっと来い」と呼ばれる。
「何ですか?」
「これに署名しろ」
そう言って、ペンと一緒に一枚の紙を差し出される。宙は困惑しつつ、受け取った。
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独身寮同居規則
本規則は、異失物管理課独身寮第一棟三〇五号室において、久瀬隼人および三井宙が共同生活を送るにあたり、両名の生活区域、共用部分、私物管理その他必要事項を定めるものである。
一、私物は各自の専有スペース内に保管すること。共用スペースに放置された私物は、所有権を放棄したものと見なす。
二、相手方の居室への入室は、緊急時または生命・身体に危険が及ぶおそれがある場合を除き、これを禁ずる。
三、共用部分の清掃は週一回、交替制とする。
四、冷蔵庫内に保管する食品・飲料には、必ず氏名を記載すること。記載のないものは廃棄対象とする。
五、二十三時以降の洗濯機使用を禁ずる。ただし、業務上やむを得ない場合は事前に申告すること。
六、客を招く場合は、事前に相手方へ通知すること。宿泊は禁止。
七、騒音、強い臭気、その他相手方への迷惑行為を禁ずる。
八、本規則に定めのない事項については、協議の上、必要に応じて条項を追加する。
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「……何ですか、これ」
「書いてあるだろ。共同生活を送る上での規則だ」
読んでいるだけで眠くなりそうだ。宙は久瀬の隣に胡座をかいて座る。紙の下の方には、すでに久瀬の署名と捺印がされていた。
「久瀬さんって法学部卒ですか? 今度、民法教えてくださいよ。専攻なんですけど、全然分かんなくて」
「全然分からないものを専攻にするな。……というか、話を逸らしてるだろ」
バレたか。
宙は首をすくめ、渋々ペンを手に取った。
「なんか窮屈だな〜。そもそも、こういうのって普通、一緒に考えません? 俺の意思は?」
「改定が必要なら、理由を明記して書面で提出しろ。検討はする」
「口頭じゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
「ええ〜、めんどくさ……」
ぶつぶつ文句を言いながら契約書に視線を落としたところで、スーツケースの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、宙は「あ」と声を漏らす。
「……すみません、ちょっと」
通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てる。
「もしもし……母さん?」
『宙? よかった、全然チャットの既読つかないから、心配したわよ』
安堵したような声に、ちくりと罪悪感が胸を刺す。宙はわざと明るい声で笑った。
「あー……マジ? ごめんごめん、気づかなかった」
『夏休み、いつ帰ってくるの?』
尋ねられ、一瞬言葉に詰まる。
「……まだちょっと分かんない。バイト始めたから、しばらく忙しくて」
『そうなの? 帰ってくる日が決まったら早めに教えてね。あんたの好きな豆ご飯、炊いて待ってるから』
「まじ? やったー。楽しみにしてる」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてる食べてる。大丈夫だって」
その後も二、三言話してから電話を切る。
スマートフォンを座卓に戻すと、隣から視線を感じた。
「……何ですか?」
「お前、豆は嫌いなんじゃなかったのか」
「え?」
そういえば、警察署で昼食をとったとき、久瀬にグリーンピースを食べさせたのだった。宙は誤魔化すように笑って頭を掻く。
「あー……実家のは食えるんですよ。母さんのだけ特別っていうか」
「…………」
「何ですか、その顔」
久瀬はしばらく宙を見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……お前は余計なことは話すのに、肝心なことは言わないな」
「え? 今、何て言いました?」
「何でもない」
「えー、気になるじゃないですか」
聞き返しても、久瀬はもう答えなかった。宙は改めてペンを持ち、契約書へ目を通す。
……まあ、いいか。
抗議したい項目もあるが、同居一日目から揉めたくもない。ひとまず条件をのむことにして、宙は署名欄に自分の名前を書いたのだった。
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異失物管理番号:02-021
作成日:2026年8月14日
作成者:久瀬隼人
補佐:三井宙
異失物名:滝山俊樹のスマートフォン
分類:発声型/準会話型
危険度:Ⅲ級
発動条件:電話の着信。ただし、連続して電話を掛けても繋がらず、通話後は四〜五時間程度、時間をおく必要がある。
確認された影響:発信者が話したいと願う相手の声で答える。会話から学習し、相手の望む返答をするようになる。
破壊可否:可能
処置:破壊処置
備考:接触者(異失物管理番号:02-018の装着者)が対象物由来と思われる過去の追体験を申告。当該分類の異失物に類似事例なし。継続調査中。
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