11
宙は驚いて久瀬を見た。久瀬は滝山の母を見つめたまま、静かに続ける。
「声は確かに父のものでしたが、自分の名前も答えられず、息子の名前もこちらに言われるまで呼べない……そんな相手を私は父だとは思えません」
膝に置かれた久瀬の手が、強く握られる。
「あなたも心のどこかでは、あの声が本当は息子のものではないと、分かっていたんじゃないでしょうか?」
滝山の母はかさついた唇を、血が滲みそうなほど強く噛み締めた。
彼女の頬を、ゆっくりと涙が伝う。
「……遺書も何もなかったって、刑事さんが言ってたんです」
滝山の母は両手で顔を覆い、震える息を吐いた。
「じゃあ、俊樹は……私に何の言葉も、想いも、残していなかったってことですか?」
その問いに、胸が締め付けられるように痛んだ。
何か言ってあげたかった。違うと。そんなことはない、滝山俊樹が母親を思っていなかったわけじゃないと。
けれど、久瀬は安易な慰めを口にしなかった。
「少なくとも、あの異失物には息子さんの想いは残っていません」
淡々と、けれど逃げずに告げる。
「……もう電話は掛けないでください」
滝山の母は答えなかった。何も言わず、肩を震わせ、嗚咽を漏らしながら泣く。
宙は何か言葉を掛けようとして――結局、何も言えないまま、久瀬と会議室を後にした。
「あのスマホ……どうするんですか?」
久瀬と廊下を歩きながら、ぽつりと尋ねる。
「破壊処置になるだろうな。……あの母親は、きっとまた電話を掛ける」
久瀬は前を向いたまま、淡々と答える。その言葉に、宙はショルダーバッグの紐を両手でぎゅっと握りしめた。
「滝山さんのお母さんにとっては、きっとあのスマホが唯一の救いだったと思うんです。それが無くなって……ちゃんと立ち直れるのかな」
「立ち直るしかない」
久瀬の声に迷いはない。
「あの異失物は、今はまだ、短い返答を繋げているだけだ。だが、回数を重ねるほど、あの母親が望む言葉を返す精度が上がる」
「でも、それで救われるなら――」
「救いじゃない。依存だ」
言いかけた宙の言葉を、久瀬は容赦なく切り捨てる。
「これ以上電話を続ければ、あの人は現実に戻れなくなる」
宙は俯いて、唇を噛んだ。
――頭では分かっている。久瀬の言っていることが正しいと。
だけど、頭では分かっていても、どうしても割り切れない。何か一言でもいいから、滝山の母への想いが残っていてほしかった。
「久瀬さん!」
不意に掛けられた声に顔を上げる。滝山俊樹の担当だった刑事だ。
「今、滝山さんの母親が来てるって聞いたんだけど……」
「はい。先ほど話して来ました」
こちらに駆け寄ってきた刑事に、久瀬が頷く。硬い表情で話し始めた二人から、宙は後退りながら離れた。
「……すみません、俺ちょっとトイレ行ってきます」
小声で久瀬に言って、パッと走り出す。
廊下を曲がった先に、トイレがある。そこを通り過ぎて、宙は地下へ向かった。
異失物は壊さなければいけないのかもしれない。だけど、その前に何か――滝山の母にとって救いになる何かを、見つけられれば。
自分に本当にそんな力があるのかは分からないが、異失物の記憶を読むことができれば、何か見つけられるかもしれない。
遺留品保管室の隣にある事務室を覗くと、昨日から何度か対応してくれている女性職員が気づいて席を立った。
「あれ、異管の三井さんでしたっけ? 久瀬さんと一緒にいた……」
「あー、その……追加で確認したいことがあって。久瀬さんに、もう一度あのスマホを見てくるように言われて……。外に持ち出す必要はないんですけど!」
罪悪感から目を合わせられず、視線を逸らしつつ話す。心臓がバクバクと嫌な音を立てていた。
――ちょっと触るだけだから。何も見えなかったら、すぐ戻ればいい。
「そうでしたか。少し待っててくださいね」
女性職員は特に疑う様子もなく、鍵を取ってくると、宙と事務室を出た。
「確認には時間がかかりそうですか?」
遺留品保管室の鍵を開けながら、女性職員が尋ねる。宙は久瀬が来ないかときょろきょろ周囲を見回しながら「えーっと……そ、そうですね」と適当に答えた。
「じゃあ、申し訳ないですけど、終わったら声を掛けに来ていただいていいですか? 今、ちょっと立て込んでいて……」
「分かりました」
宙が頷くと、女性職員はドアを開けて、事務室に戻っていった。窓のない暗い部屋を前に、宙はごくりと喉を鳴らす。
一瞬怖気付きそうになるが、さっき見た滝山の母の泣き顔を思い出し、何とか踏みとどまった。
部屋の外から電気のスイッチに手を伸ばし、明かりをつける。
――大丈夫。暗くないし、狭くない。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟き、部屋の中へ足を踏み入れる。ドアは開け放したままにした。
なるべく周りを見ないよう、自分の爪先だけを見つめて部屋の奥へ進む。心臓の鼓動が速い。汗の滲んだ手のひらを、ぎゅっと握り締めた。
突き当たりの棚の前に着くと、滝山の名前の書かれた箱を探し、床に下ろす。中には保管袋に入った滝山のスマートフォンがある。手を伸ばしたところで、久瀬の言葉が頭をよぎった。
――無闇に触るな。
感応者は能力を使った際、副作用を起こすことがあると久瀬は言っていた。強い異失物ほど、症状が重くなるとも。
だが、このスマホは昨日久瀬から教わった異失物の等級振り分け基準から考えるに、恐らくⅢ級――宙が着けていたコタロウの首輪と同等だ。
コタロウの首輪は長時間身に着けていたが、身体に異常はなかった。だからきっと、少し触れるくらいなら問題ないはず。
それに――これを言えば久瀬に怒られそうだが、多少具合が悪くなる程度なら、構わないとも思っていた。
何もせず、ただ壊されるのを待つより、自分にできることをしたい。
宙は小さく深呼吸して、保管袋からスマホを取り出した。




