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「耕祐……どういうことなの? コタロウは長野の叔父さんのところにいるんだよね?」

「…………」

「もしかして、旅行中に脱走したとか? 今すぐ電話して確かめてよ」

 佐野は黙ったまま俯き、久瀬に掴まれた腕を摩っている。原は焦れたように佐野の腕を掴んだ。

「ねえ、何か言ってよ!」

「――うるさいな! 俺はお前のためを思って、捨ててやったのに!」

 かっとなったように、佐野が原の手を振り払う。原は呆然と佐野の顔を見つめた。

「捨てた……? 何、言ってるの? 叔父さんに預けるって言ったじゃない」

「仕方ないだろ。あんな年寄りの犬、面倒見るの大変だし」

 佐野は原から目を逸らし、小さく笑った。

「麗奈だって、面倒だから預けていいって言ったんだろ? 今さら一人だけ善人ぶるなよ」

「お前な……!」

「三井」

 反射的に割って入ろうとした宙を、久瀬が止める。原は顔を歪めて視線を落とした。

「……確かに、私はあの子から逃げた」

 苦しげに言って、シャツの胸元をぎゅっと握りしめる。

「あの子の目がどんどん悪くなって、耳も遠くなって……いつか、私の前からあの子がいなくなる日を思うと、怖くて」

「なら――」

「でも、捨てていいなんて言ってない! あの子は、私の家族だったの。あなたが勝手に捨てていい命じゃない!」

 顔を上げた原の目には涙が浮かんでいた。佐野は怯んだように半歩後ずさる。

「あの子の最期から、逃げるべきじゃなかった。苦しくても、怖くても……ちゃんと向き合うべきだった」

 原の頬を涙が伝い落ちる。宙は目を伏せ、タオルの上から首輪にそっと触れた。

 首輪からは何の反応もない。……コタロウは今、無事でいるのだろうか。

「……原さんにご確認いただきたいものがあります」

 ふと、それまで成り行きを見守っていた久瀬が、スマートフォンを取り出した。画面をタップして一枚の写真を表示させると、原に差し出す。

 写真には、コンクリートの床に敷かれた毛布の上に蹲る、一匹の柴犬の姿があった。

 その姿を目にした瞬間、原の目が大きく見開かれる。

「コタロウ……この子、コタロウです! この写真、どこで撮ったんですか!? コタロウは今どこに――」

「落ち着いてください」

 久瀬は詰め寄ってくる原を片手で制した。

「この犬は今、都内の保健所で保護されています。保護された時は脱水症状があり、少し弱った様子だったそうですが、治療を受け、今は落ち着いているそうです」

 ――病院を出る前、久瀬はどこかに電話を掛けていた。相手は浜松たちだと思っていたが、管理会社や保健所にも確認を入れていたらしい。

 久瀬の言葉に、原の肩からゆっくりと力が抜ける。

「……よかった……」

 両手で顔を覆い、ぽつりと呟く。それから小さく息を吸うと、涙を拭って玄関ドアのフックに掛けられていた車の鍵を手に取った。

「今すぐ迎えにいきます」

「では、保健所まで同行します」

 スマホをポケットに仕舞い、久瀬が踵を返す。原はスニーカーを突っかけてその後に続こうとした。

「おい、麗奈!」

 けれど、それを止めるように、佐野が腕を掴む。原は強く拳を握り締め、振り返った。

「私が戻るまでに、荷物をまとめて出ていって」

「お……お前、本気で言ってるのか? 俺はお前のためにやったんだぞ!」

 動揺した様子で、佐野が声を震わせる。原は唇を噛んで俯いた。

「私のためじゃない。あなたが邪魔だっただけでしょ?」

「結婚の話だってしてたのに――俺よりも犬の方が大事だって言うのか!? 現実見ろよ!」

 原は一度深呼吸して、自分の腕を掴む佐野の手を掴んだ。

「ごめんなさい。……家族を大切にできない人とは、一緒に生きていけない」

 言いながら、自分の腕を放させて顔を上げる。原の目に迷いはなかった。

「なんで……たかが犬一匹で」

 くしゃり、と自分の髪を掴み、佐野が呟く。

「ご存知ないのかもしれませんが、動物の遺棄は犯罪です」

 重い沈黙に、淡々とした久瀬の声が響いた。

「……は?」

「こちらで関係部署に引き継ぎますので、ご自身のしたことに、しっかり向き合ってください」

 佐野の顔がさっと青ざめる。原は目を伏せ、佐野に背を向けた。

「……さよなら」




 保健所までは久瀬の車が先導し、原の車はその後に続いた。閉庁時間ギリギリになんとか受付を済ませると、職員の案内でコタロウのもとへ向かう。

「……あの子、きっと私のこと恨んでますよね」

 長い廊下を歩きながら、原が呟くように言った。

「私が臆病だったせいで、たくさん怖い思いや辛い思いをさせて……。もう、私のこと家族だなんて、思ってくれないかも」

 原の横顔には、深い後悔が滲んで見えた。宙は視線を落とし、タオルの上からそっと首輪を握る。

「……俺には、コタロウの気持ちは分かりません」

 何度もコタロウの記憶を見たけれど、今コタロウが原のことをどう思っているのかはわからない。

「でも……ずっと、あなたを探してたと思います」

 原が弾かれたようにこちらを向く。その目にじわりと涙が浮かんだ。

「着きましたよ」

 原が何か言おうとしたところで、職員が足を止めた。ドアを開けて職員が中へ入ると、原はほとんど走るようにその後を追う。

 並んだ檻の一番奥に、毛布の上に蹲って眠る一匹の柴犬がいた。

「コタロウ!」

 原が声を上げて駆け寄る。コタロウは一拍遅れて、ゆっくりと目を開けた。

 その目が原を映した瞬間、尻尾がぱたぱたと左右に揺れる。コタロウはおぼつかない足取りで立ち上がると、檻の隙間から鼻先を出した。

「コタロウ……ごめん。ごめんね……」

 原は泣きながら床に膝をつき、コタロウの頬を撫でる。

「この子がお探しのコタロウくんで間違いないですね?」

「はい。間違いないです」

 原が頷くと、職員が檻の鍵を開ける。扉が開くと、原は檻の中に入ってコタロウを抱きしめた。

 コタロウの毛に顔を埋め、痩せた身体をそっと撫でる。

「絶対、もう逃げないから……何があっても、最後までそばにいるから」

 泣きながらも、原の声は強く、覚悟に満ちていた。

 コタロウは鼻を鳴らしながら、ゆっくりとその場で足踏みを繰り返している。川原でボール遊びをしていた頃と変わらない仕草に、宙は思わず笑みを溢した。

「いやぁ、無事に飼い主さんが見つかってよかったですね」

 原とコタロウの様子を見守りながら、安堵したように職員が小声で言う。

「いろいろと、ご協力ありがとうございました」

「いえ、我々も一匹でも多くの命を助けたいと思っていますので」

 軽く頭を下げた久瀬に、職員はにこにこと笑いながら両手を振る。

「コタロウくんは本当に運がよかったですよ。久瀬さんから連絡がなければ、今日、殺処分される予定だったんですから」

 原に聞こえないよう、さらに声をひそめて職員が言う。その言葉に、宙は思わず目を見張った。

「え?」

「あれ、久瀬さん、お話しになってなかったんですか?」

 職員に尋ねられ、久瀬は若干気まずそうに目を逸らした。

「いや、それは……」

「コタロウくんはシニア犬で、譲渡先を見つけるのは難しいですからね。でも、久瀬さんが飼い主が見つかったかもしれないから、もう少し猶予がほしいとおっしゃって」

 悪気のない様子で、職員が教えてくれる。

 人にはさんざん「捨てたんじゃないか」とか、「能天気」だとか、酷いことを言っておいて、裏ではちゃんとコタロウのことを助けようとしてくれていたのか。

 宙は思わず胸の前で両手を組み、上目遣いで久瀬を見つめた。

「……うるさい」

「まだ何も言ってないです」

「顔がうるさいんだ」

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