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久瀬は腕を組み、心底嫌そうな顔をする。宙は思わず笑ってしまった。
「でも、コタロウが見つかってたなら、教えてくれたらよかったのに」
「あのときは、まだコタロウだという確証がなかった。……それに、柴犬を探しているという問い合わせも、この一ヶ月なかったそうだからな。たとえ飼い主が見つかっても殺処分される可能性が高かった」
宙は一瞬きょとんとして、また両手を組んだ。
「もしかして、俺がショックを受けるのを心配して……?」
わざと高い声を出すと、「おめでたい頭だな」と一蹴された。けれど、はっきり否定しないあたり、図星なのだろう。
「……ん?」
ふと、首に違和感を覚えて手を遣る。何となく、さっきより首輪の締め付けが緩んだような気がした。
「どうかしたか?」
「すみません、ちょっと……」
宙は一言断ってから、部屋を出た。首に巻いていたタオルを外し、首輪に直接触れる。あんなにびくともしなかった金具が、少し浮いている。
おそるおそるベルトの先を押すと、驚くほどあっけなく金具からベルトが抜けた。そのまま金具を引くと、するりと首輪が外れる。
「は、はず――!」
「外れたか」
「うわあ!?」
振り向くと、真後ろに久瀬が立っていた。バクバクと鳴る心臓を押さえていると、無言で片手を差し出される。
「原さんに返すんですか?」
首輪を渡しながら、首を傾げる。
「返さない」
「えっ?」
久瀬は背負っていたリュックから厚手の透明な袋を取り出すと、受け取った首輪を入れる。宙は戸惑いながら久瀬を見た。
「返さないって……じゃあ、どうするんですか?」
「情報を整理して記録した後、保管室に収容する」
「ちゃんと外れたのに、返してあげられないんですか?」
宙の言葉に、久瀬はため息を吐く。
「いいか、一度異失物に変異したものは、二度と普通の物に戻ることはない。いったん無害化したとしても、何かきっかけがあればまた怪異を起こす。さらに感情が蓄積していけば、より強い等級の異失物になる可能性もある」
淡々と声を落として説明しながら、久瀬は首輪を入れた袋をリュックに仕舞う。宙は俯いて、久瀬のリュックを見つめた。
「でも、その首輪の感情は悪いものじゃなかったのに……」
「今はな」
そう切り捨てる久瀬を少し冷たく感じたが、反論できるだけの言葉を宙は持たない。自分は今回たまたま巻き込まれただけで、異失物のことなど何も知らないのだ。
「首輪の保管のために分駐所へ戻る。悪いが、もう少し付き合ってくれ」
「……はい」
宙は頷いて、久瀬とともに部屋へ戻る。原と職員に別れを告げると、久瀬の車に乗り込み、保健所を後にした。
保健所を出る前、久瀬は分駐所にメールを入れていたらしい。戻ると、秋田と浜松が笑顔で出迎えてくれた。
「いやぁ、思ったより早く解決したな」
「さすがですね、久瀬さん」
浜松と秋田の言葉に、久瀬はちらりと隣の宙を見る。
「俺というより……今回の件に関しては、こいつの見た記憶が役に立ったので」
「ああ、コタロウの記憶を見たんだったか」
浜松が顎を撫でながら、不思議そうに宙を見る。
「俺も拘束型の異失物は何件か当たったことがあるが、記憶を見せるものは初めてだな」
「その件ですが、実は篠原さんに連絡していて――」
久瀬がわずかに声をひそめて話しながら、浜松とデスクへ向かう。その後に続こうとすると、ふいにひょいっと秋田が宙の顔を覗き込んだ。
「首輪、無事に外れてよかったね。具合悪くなったりはしなかった?」
「はい、超元気です!」
「あはは、ならよかった」
笑顔で力こぶを作ってみせた宙に、秋田は笑い、それから少し悪戯っぽい表情で顔を寄せてきた。
「久瀬さんとは大丈夫だった? 怖かったでしょ」
「いえ、まあまあ優しかったですよ」
「『まあまあ』は余計だ」
地獄耳か。
デスクの方から飛んできた声に、宙は首をすくめた。見ると、久瀬は既に浜松との話を終えてパソコンに向かっている。
「嘘ー! 三井くんってメンタル強いんだね」
本気で感心したように秋田が言う。
そんなに驚くことだろうか。確かに久瀬は愛想がないし口調もキツいが、理不尽なことは言われなかったし、焼きそばパンだってくれた。
宙は軽い調子で「まあ、高校でバンドやってたんで」と適当に答えた。
「それは関係なくない?」
「いやいや、舞台の上でミスりまくっても平然と演奏を続けるために、メンタル鍛えなきゃいけないんですよ」
「そこはメンタルじゃなくて、演奏の腕を磨くべきだろ」
浜松が苦笑してツッコミを入れる。宙は笑いながら、ほんの少し名残惜しさを感じていた。
――不思議な体験だった。
あのとき、倉橋に首輪を着けられなければ、きっと一生知ることのなかった世界。散々な目に遭ったが、これで終わりだと思うと、少し寂しい気がした。
だが、自分は異管どころか警察官ですらない一般人だ。明日からは、バイトをしたり友達と遊んだりする、いつも通りの生活に戻るのだろう。
宙は目に焼き付けるように、ゆっくりとフロアを見渡した。――そのとき、
「何だか賑やかだね」
背後のドアが開き、誰かがオフィスに入ってきた。振り返ると、微笑を浮かべたスーツ姿の男が立っている。背が高く、目鼻立ちのはっきりした華やかな顔立ちだ。
「篠原さん! お疲れさまです」
驚いたように秋田が姿勢を正す。席に座っていた久瀬と浜松を含め、フロアにいた数名の職員が一斉に立ち上がった。
「ああ、みんな気にせず仕事続けて。……久瀬くん、ちょっといいかな」
篠原と呼ばれた男は、久瀬に向かって小さく手招きする。それを横目に、宙は小声で「誰ですか?」と秋田に尋ねた。
「うち――異管の東京分駐所のトップだよ。て言っても、半分くらい本部の人だから、あんまりこっちには顔出さないんだけど」
「へぇ……」
見た目は若そうに見えるが、確かに、上に立つ人間らしい落ち着きと余裕がある。ついじっと見つめていると、視線に気づいたように篠原がこちらを向いた。
「きみが三井宙くんかな? はじめまして、特異遺失物管理課東京分駐所の統括管理官、篠原悠です」
「は、はじめまして」
差し出された手を取ると、思いのほか強く握り返される。宙は微笑を浮かべたままの男の顔を、戸惑いながら見上げた。宙も背は高い方だが、篠原の方がさらに目線が高い。
「久瀬くんから聞いたよ。きみ、異失物に残った記憶を見たんだって?」
「……はい。たぶん、ですけど」
「たぶん、でいいよ。こういうものは最初から断定しない方がいい」
久瀬がそばに来ると、篠原は宙から手を離した。
「メールを貰った後、非公開資料も含めて調べてみたよ。だけど、やっぱり拘束型の異失物にそういった事例はなかった」
「そうでしたか……」
久瀬は僅かに眉を寄せ、持っていた袋に入った首輪へ視線を落とす。篠原は首輪を見て、すっと目を細めた。
「それが例の首輪だね。ちょっと貸してもらえる?」
「……いいんですか?」
「ああ、大丈夫だよ」
なぜか躊躇うようなそぶりを見せた久瀬に、篠原は笑顔で頷く。久瀬から袋を受け取ると、篠原はチャックの口を開けて、首輪を取り出した。
首輪を手にしたまま目を伏せ――しばらくして、袋へ戻す。
「――うん。断言はできないけど、記憶干渉の力がある可能性は低そうだ」
今ので、どうやって分かったのだろう。
思わず目を瞬いて篠原を見る。
「では、彼が見たのはただの夢だったということでしょうか」
「まだ何とも言えないね」
久瀬に答えて、篠原は宙へ向き直った。
「きみが見たのは、ただの夢だったのかもしれない。可能性が低いというだけで、異失物の力ということもあり得なくはない。でも、一番可能性が高いのは――」
近くの棚に浅く腰掛け、篠原が宙と目線を合わせる。
「きみの力だ」
「俺の……?」
ぽかんと口を開けて篠原を見返す。篠原は探るような視線を宙に向けたまま、軽く首を傾げた。
「三井くん。よかったら、うちでインターンしてみない?」
「イ……インターン?」
思いもよらない言葉の連続で、オウム返しすることしかできない。
大学三年生になり、同級生には企業や官公庁のインターンシップに参加する人が何人もいた。そんな彼らを宙は「えらいな〜」と他人事のように見ていたのだが。
超能力的な力を認められて、警察の秘匿部署からインターンに勧誘されるなんて、そんなドラマみたいなことが自分に起こるとは。
「篠原さん。彼は一般人です」
「分かってるよ。だから、選ばせる」
表情を硬くした久瀬に、篠原はひらひらと手を振ってみせる。
「無理にとは言わない。ただ、自分の身に起きたことを知らないまま日常に戻るのは、きみも怖いんじゃないかな」
篠原は宙と目を合わせ、微笑んだ。
選ばせる、と言いながら、まるで篠原の考える『正解』へ誘導されているみたいだ。
「インターンって、俺は何をすれば……?」
「今日していたこととそう変わらないよ。週に三、四日この分駐所に来て、先輩職員と一緒に行動してもらう。そこで、何か気づいたことがあれば教えてくれればいい」
「それだけ?」
「それだけで、こっちは十分助かるんだよ」
本当だろうか……?
篠原の言葉を鵜呑みにするなら、それほど大変ではなさそうだ。
「でも、夏休みは短期でバイトやろうと思ってたんですよね〜……」
自分で学生寮の家賃と生活費を払うことを条件に、宙は一人暮らしさせてもらっている。もともと警察官志望というわけでもないのに、インターンのために稼ぎ時の夏休みを潰すのは躊躇われた。
頭を悩ませる宙に、篠原は内緒話をするように顔を寄せた。
「通常、警察庁のインターンは給与なしだけど、きみは特例として謝金を出せるよう上に掛け合ってあげる」
「えっ」
「そこらのアルバイトより、いい時給にしてあげられるよ」
悪戯っぽい顔で言って、「どうかな?」と首を傾げる。宙は勢いよく手を上げた。
「やります!」
「お前、そんな簡単に……」
苦い顔で久瀬が宙を見る。それを秋田が「まあまあ」と宥めた。
「私は一緒に働けるの、嬉しいよ。これからよろしくね」
笑顔で言って、秋田は小走りで浜松のデスクへ向かった。
「浜松さーん、三井くんが異管でインターンするそうですよ」
「んん? そりゃまた急展開だな……」
デスクの方から浜松たちの声が聞こえてくる。その声を聞きながら、篠原は「いやぁ、よかった」と満足そうに微笑んだ。
「異管は万年人手不足だからね。久瀬くんも、先月バディの子が異管を離れてから、ずっと単独で動いてくれてたし」
「……ちょっと待ってください。まさか、こいつを俺の新しいバディにするつもりじゃないですよね?」
「あはは」
「あははじゃなくて、ちゃんと答えてください」
笑って誤魔化そうとする篠原に久瀬が詰め寄る。
宙は改めてフロアを見渡した。別れを告げるためではなく、これからここで自分が働くことを想像して。
胸の鼓動がいつもより少し早い。少しの緊張と、不安と――それを遥かに上回る好奇心。
警察庁刑事局特異遺失物管理課。そのインターンとして働く日々には、どんなものが待ち受けているのだろう。
期待に胸を高鳴らせながら、宙は笑みを浮かべた。
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異失物管理番号:02-018
作成日:2026年8月2日
作成者:久瀬隼人
異失物名:コタロウの首輪
分類:拘束型/装着型
危険度:Ⅲ級
発動条件:首輪の装着
確認された影響:装着者への締付反応/犬用命令語への服従反応
破壊可否:条件付きで可能。装着状態での破壊処理には締付反応を伴うため、要保護措置。
処置:東京分駐所第一保管室に収容
備考:装着者が対象物由来と思われる過去の追体験を申告。ただし、当該分類の異失物に類似事例なし。継続調査。
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