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奇跡の世界

 情けない。

 僕は本当に情けない。誰か、過去に戻れる力を持っているなら、ほんの三十分前の時間に戻してほしい。

 苦味が残っていた口の中を洗い、冷や汗と脂汗でじっとりしていた顔をお湯で洗い流しサッパリとしたものの、充血した目にこんなに色が白かったっけと思うほど蒼白な僕の顔が鏡の中にある。

 信じられないことに僕は、告白したとたんに膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。それからすぐにとてつもない緊張におそわれた。とたんに吐き気をもよおし、 時本さんの目の前で消化されかかっていた胃の中身をぶちまけてしまった。

・・・告白の途中で、本当にありえない。

 こんなことを仕出かしてしまったばかりに、時本さんの家の洗面所を借りることになってしまった。

 ああ・・・夢であって欲しい。

「大丈夫?」

 コンコンとドアをノックしてから時本さんが声をかけてきた。

 夢なわけないか。

「はい・・・もう大丈夫です。すいません。」

 僕はタオルで顔を拭きながら答えた。情けない顔は変わらないけどもう落ち着いた。 大丈夫だ。けれど、合わせる顔がなくて出るに出られない。

「ホンマに大丈夫なん?開けるで。」

 なかなか出てこない僕に痺れをきらしたのか、時本さんはそう言うとドアを開けて覗きこんできた。

 顔を見ることが出来ない。

「大丈夫そうやな、早よ出てきいな。あ、こらっ。」

 ドアの隙間を狙ってゴマが入ってきた。僕の足元に鳴きながらすり寄りってきた。

「ゴマも早よ出てこい言うとるわ。」

 時本さんが言った。ゴマをじっと見ていると、ゴマも動きを止めて僕を見上げた。何秒かそのままでいると、モジモジとしだし突然僕に向かってジャンプしてきた。とっさに受け止めやすいように姿勢を低くした。胸の少し下まで届いたかと思うと、後は自分で肩までよじ登って、今度は顔にすり寄ってくる。

「わかったわかった。行こ行こ。」

 もう一度鏡でチェックしてから、先に行く時本さんの後を着いて出た。

「紅茶、飲めそう?」

 居間に行くと時本さんは僕が返事する前に、すでに入れてあったカップを自分の座るテーブルの向かい側に置いた。

「ありがとうございます。いただきます。」

 僕が部屋に入ってきたので隅のほうで眠っていたラムネが目を覚ました。

 僕は何だかかしこまった気持ちになり正座していた。

 僕が座ると、ゴマは肩から畳の上に下りて伸びをしながら寝転んだ。

 カップに口をつけると思ったより熱くなかった。紅茶もゆっくりなら口に含める熱さだ。飲み込むと胸がじんわりと熱くなった。体が温まる。

 僕はふぅっと息を吐いた。そして時本さんの方を見た。

 ドキリとした。

 時本さんは僕を見ていた。肘をテーブルにつき、両手で持ったカップを口元の高さでとめたまま。まるで観察しているかのようだ。

 そんな風に見られると、どう切り出せばいいのかわからなくなる。

 僕の目はすぐに、どこを見ればいいのかとあちこち泳いだ。 その時目の端に、畳に転がる物が見えた。それは僕がほおりだしたリュックや哲ちゃんたちから貰ったプレゼントだった。

「あ、忘れとった。」

「そら忘れるわ。あんな顔しとったら。プレゼント、ちょっと箱がへこんどったけど中は大丈夫やったわ。自転車も庭に入れてるから。」

「あ、あれの後。」

 すぐに洗面所に向かったのでほったらかしたままだ。

「ああ、大丈夫。きれいにしといたから。」

「え。」

 僕が洗面所にこもっている間に片付けてくれたらしい。

「すいません。ホンマすいません。ありがとうございます。」

 僕はペコペコ何度も頭を下げた。その時のことを思い出して顔が熱くなる。

 ゲロの始末まで・・・恥ずかしすぎる。

「で、さっき言ってくれたのはマジですか。冗談ですか?」

「え?」

「自分で言うんめっちゃ恥ずかしいんやけど。」

「あ。」

 さっきの、というかもう何十分も前の告白。

「え、あ、はあ、まあ。」

 あの時は言えたのに今は恥ずかしさでいっぱいだ。

「まあ?」

 僕の返事が頼りなかったからか時本さんは不満げに言った。

「え、いや、マジです。」

 僕が力を込めて言うと、時本さんは笑ってくれた。

「マジですか。そうですか。さっきバイバーイてしたのにおるからびっくりするし、さらに言うてくれたかと思たら。」

 時本さんは吐く時のマネをした。

「・・・やし。びっくりしっぱなしやわぁ。」

 言われて僕はまた下を向いてしまった。

あの瞬間は言わなければと思って必死だった。 あんなに必死に自転車をこいだのも初めてだった。曲がる時には倒れそうにもなった。あの場所で彼の人生を考えた時、とにかく時本さんに会いたい、会わなければと思った。その気持ちでいっぱいだった。着くまでの時間がとてももどかしくて、胸の当たりがザワザワ落ち着かなかった。

 ヒロの時とは違う。今は僕が今の関係が壊れてしまうこと、なくなってしまうことに臆病になっているだけだ。僕の気持ちの問題だ。言わずに終わる後悔より、やりとげた後悔のほうがいいじゃないか、そう考えた。臆病者だから何もしないのは僕だけの都合だ。

 こぎながら考えた。その間、まるで自分に暗示をかけているようだった。

 言うぞ、言うぞ。言うぞ。

 その勢いのまま来たから・・・。

 今も言ったことに後悔はない。その後だ。

「ホンマにすいません。言うた後にあんなことしてしもて。何て言うたらええんか、ホンマ、めっちゃ情けない。カッコ悪すぎ。」

「そうなん?私は別にカッコ悪いとか思わへんけど。そら、びっくりはしたけど、そうそうないんちゃう、告白してもうた後にああいう経験て。うん、逆にインパクト大。」

時本さんは逆に僕を説得するように言った。

「え、いやあ、でも俺としては忘れて欲しいいうか、消し去りたりたいいうか。」

「私がいい言うてるんやからいいやん。」

時本さんが最悪だと、ありえないと気分を悪くしていないなら良かった。他の人ならきっと最低だと怒鳴るなり嫌がるなりしたと思う。いや、きっとした。

「大丈夫大丈夫。明日になったらそういう気分も少しは楽になってるって。明後日になったらさらに。明明後日やったらさらにさらに。日がたつにつれてマシになっていくから気にしない気にしない。」

 言われていることはわかるけれど、今はとてもそうは思えない。

でも、時本さんは本当に気にしていないというふうに話しをつづける。

「ふん、顔色、大分マシになってきたんちゃう。」

 言われて顔を触ってみた。触ってみても顔色はわからない。。

「でも急にどうしたん?帰りの時は全然そんな言う感じやなかったやん。すごい顔してたし。」

 そう言ってその時にしていたという僕の顔マネをした。

 眉間と鼻の頭にシワをよせて口を歪めて歯を食いしばっている。

 人には見せたくない形相だ。

「・・・そんなひどい顔してましたか?」

「してたしてた。」

 そんな顔で僕は告白したのか。

 僕と目があったラムネが、僕の膝に片足をちょこんと置いて一鳴きした。

〈気にするなよ、にいちゃん〉なのか、もしかして〈残念だったな、にいちゃん〉なのか。そう言っているかのように見える。 前者のほうということにしておこう。そう考えると笑ってしまう。

 僕は膝を崩して胡座くんだ。そしてラムネを抱き上げ足の上にのせた。ラムネは段差のある足の上で、居心地のいい場所を見つけて毛繕いを始めた。

「癒されるやろ。」

 時本さんがテーブルの向こうから覗きこむようにしてラムネを見て言った。

 僕はラムネの頭を撫でながら頷いた。

「はい、そうですね・・・。」

 今なら言える。

 僕は時本さんと分かれてからの話をした。おばさんたちのことも、姿の変わり果てた 彼のことも全て。それから昔、バケモノだと言われたことも。

 時本さんはずっと黙って聞いていた。

 僕はラムネを撫でていたからか、感情的になることなく話せた。

 時本さんは全く動かなかった。ただ時々だけれど、眉間に軽くシワの寄ることはあった。

「そっか、そんなことがあったんや・・・。」

 一通り話して黙っていると、力なく時本さんが言った。

「・・・その人が亡くなったんは残念やけど・・そういうこと言う人らはいっぱいおるわ。言いたい人には言わせといたらええねん。そんな人ばっかりちゃうし。ジュンネンやなくっても差別や偏見で見る人はおるんやから。その人らは人を平気で傷つけられるそんな心を持ってしもうたかわいそうな人らや。私らがそんな人間にならんかったらええねん。私らがバケモノやったらとっくに訳の分からん機関に捕まって、訳の分からん実験されてるって。誰が何て言おうと私らはこういうことが起こってしまう世界に生まれた、普通のニ・ン・ゲ・ン。」

 最後の言葉は協調して言った。

 時本さんの言うことは頭ではわかっていても胸は苦しく悲しくなる。気にしない、と考えても胸はズキリと傷む。

「でもさぁ、人が生きてること自体が不思議や思わへん。こんな複雑な身体があって、いろんな生き物おって一日一日が過ぎていって。」

 時本さんは右手を顔の前に上げて、部屋のライトにかざしてその手の甲をじっと見つめた。明かりが手でふさがれて時本さんの顔に影をつくった。そのせいか暗い寂しそうな表情に見える。

「ホンマ不思議やんな。」

 そう言うと今度は、手をくるりと反転させてまた見つめた。

「こうして存在してるんが、何で私なんやろって思う。何億って人間がおるのに、その中の一人が何で私っていう意志持った人間なんやろ。こうして考えてるんが何で私じゃない誰かやなかったんやろ。」

 手を下ろすとギュッと握りしめた。

 手を見たのは自分という人間の確認だったのかもしれない。

 僕も手を見つめてみた。

 僕という人間はここにる。存在している。他の誰かであったならなんて変えようのないことを考えるのは無駄なことだ。

 でも・・・みんなは違う。変えられないことでも、もしも、を考えて楽しんだり悲しんだりしている。

 僕は暗いなぁ。

 時本さんは紙に絵を描き出した。

「何ですか?」

 そこには一枚のドアの絵と、そのドアの前に一列に並ぶ丸いものが沢山描いててあった。

「私の頭の中ではこんな感じやねん。このドアがこの世に出てくるためのドアで、こっちの丸いのがこれから生まれてくる無数の魂みたいなん。こうやって順番待っとって呼ばれたら次々出ていくねん。」

 今度は丸を黒く塗りつぶした。一つ塗りつぶすと、もう一つは離れたところを塗りつぶした。

「この丸が私で、こっちの丸が奥井君。一つしかドアはないからどの国にいくかもわからへんし、日本でもどこに生まれるかわからへんねん。だから、いまこうして出会ってるんてすっごい奇跡って思えへん?人との出会いって、行く学校や仕事でも左右されるけど、今会ってるってことはこれが私らが選んだ道ってことやろ。奥井君が花屋で働いてへんかったら会ってへんかったやろし、働いとっても私が神戸に来てへんかったら会ってへんかったやろうしな。」

 言い終わると、後はその丸におもしろおかしく目を書いたり髪の毛を描いたりしていった。

 時本さんの話からすると、順番が変わっていたら時本さんに会うことがなかったかもしれない。今はそんなこと考えられない。

 僕は、今目の前にいる時本さんが僕にとっての現実。僕の時本さんを好きな気持ちが生きている証拠だ。

 時本さんは別の絵を描いていた。見ると、時本さんがした僕の顔マネだ。

「もしかしてそれ、僕ですか?」

 時本さんは絵を僕のほうに向けて見せた。

「私が好きになった人が、私を好きやって言うてくれることもうれしすぎて奇跡やって思ってしまうわ。」

「・・・へっ?」

 何のことを言っているのか一瞬わからなかった。

「ええっ?」

 時本さんはちょうど横にやってきたラムネを抱き上げ顔の前まで持ち上げた。体をダラリと下げてされるがままのラムネと目が合った。

「そういうこと。」

 そう言ってラムネの向こうでうんうんと時本さんは頷いた。

 どうもラムネで顔を隠したのは照れ隠しのようだ。

 ラムネがナーと鳴いた。

 二人で何やってるのと言っているかのように聞こえた。


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