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ジュンネンの悲鳴

 二三子さんの腕の中で子供のように泣き続けていた時本さんも、だんだんと落ち着いてきたのか今は静かだ。泣き止んだようだ。

 だから落ち着いたんだなと安心したけれど、なかなか顔を上げようとしない時本さんにまたまたどう声をかけたらいいのかわからなかった。

 そう思っていたのは哲ちゃんも同じだったようで眉毛を八の字にしている。目が合うと哲ちゃんは立ち上がり、僕にこっちに来いと顎で合図をし、時本さんから離れたところで押し殺した小さな声で言ってきた。

「お前、何かおもろいこと言え。」

「は?」

 この人何言ってんの。

「ええから、おもろいこと言うて、祥子ちゃん笑わせぇ。ええな。」

 気合を入れるように腕を叩かれた。

「おもろいことって、え?」

 僕の質問には答えず、哲ちゃんはそれだけ言うと元の場所に座ってしまった。

 ボーッとしていると、早く座れと手を振られてとりあえず座った。 哲ちゃんから目で早く言えと合図をされた。哲ちゃんが言えばいいのに。 こんな時に場違いなこと言ってどうしようというんだろう。 顔を上げようとしない時本さんの上で、哲ちゃんがまた僕に催促してきた。

「早よ言わんかい。」

 口だけ動かしてるつもりかもしれないけれど、ところどころ声が漏れている。

 おもしろいことおもしろいこと、僕は考えた。 ・・・全然思いつかない。そもそも人を笑わせるような力量は僕にはない。

 そうだ、おもしろかったことならある。

 笑ってもらえるように話せるかわからないけれど、僕は時本さんのほうへ体を向けて話を始めた。

「この前来ちゃったお客さん、六十代くらいの女の人やねんけど、カウンターのとこ来ちゃったら流しとる曲聴いて、踊りたくなる曲やなぁ、て言うてホンマに踊り出しちゃって。」

 お客さんのセリフはちょっとマネをして、座ったまま僕は腰をひねり腕を左右に振って、踊りを再現してみた。大昔に流行ったツイストだ。

「ほぉ、なかなかファンキーなばあさんやのぉ。わしも今度踊ってみよかのぉ。」

そう言うと哲ちゃんは時本さんの反応を見た。

どうやら哲ちゃんはこの静かな空気を変え、時本さんを笑わせて顔をあげやすくしようと考えたようだ。

 けれど沈黙。

 その様子から哲ちゃんに、

「おもろないんじゃ。しょぉもないのぉ。他にないんか。」

と言われてしまった。

 僕はおもしろいと思ったんだけどな。後でオーナーたちに話したら笑ってたし。

 他?他・・・。

 僕は考えた。考えたというより思い出そうとした。

 あった。これはどうだろう。

「一昨日、おじいさんが花買いに来ちゃって。自分で花選んじゃったから自宅用かなぁ思ってんけど、ケーキ持っとってやからプレゼントかもやなぁ思て聞いてんやん。ラッピングしましょかって。そしたら、誕生日おめでとうで、て言われて。いやいやそうやないやん。プレゼント用にしましょかって聞いてるのに。リボンつけたりしましょうかって聞き直ししたら、今度はハッピーバースデーでって。英語に変わっただけやん。」

と、突っ込みを入れたところで時本さんに反応があった。

 笑った?

 ふっと空気の漏れる音が聞こえた。

 あ。

 その時僕は、僕の中で極めつけの話を思い出した。

「そーそー去年の夏。オーナーの代わりに配達行ったことがあって。」

「ほぉほぉ。」

 哲ちゃんが僕と時本さんを交互に見ながら相づちを打つ。

「暑いしあっちこっち行ってしゃべったからめっちゃ喉乾いとってんやん。何件目やったかここの配達終わったら何か飲み物買おう思ってて。そしたら花持って行ったトコの家の人が、これまた飲みなって言うてくれちゃったからラッキーって思ったのに見たら紅茶のティーパックやって。何でここでティーパックやねん。湯もないのにどうせいっちゅうねん、て思ったわぁ。」

 時本さんがプフッと吹き出して笑った。

 やった。

「はー、何やその客。」

 哲ちゃんは驚いた後、大袈裟すぎるだろうというほどゲラゲラ笑った。

 二三子さんの胸から勢いよくガバッと体を起こした時本さんも

「ホンマ何なんそれ、ティーパックって。おもしろすぎるんやけど。」

と、笑顔を見せた。

 何十分か振りの笑い声が部屋に広がった。笑ってくれて良かった。

「お見苦しいところをお見せしてすみませんでした。」

 そう言って時本さんは、両手を膝に置いて上目遣いで照れくさそうにこちらを見た後、頭を下げた。

 まだ目が赤いけど笑顔を見せてくれている。

「二三子さんありがとう。」

 そう言って時本さんは二三子さんの手を握りしめた。

「これからやわ、これから。」

二三子さんはそう言うと時本さんの頭にポンポンと手を置いた。

「祥子ちゃん祥子ちゃん、コイツがおもろいんやないで。お客がおもろいんやからな。」

 人に面白い話を言え言えと言ってこの仕打ちはないんじゃないのか。

「何や、ほな哲ちゃんが自分で笑わせたら良かったやろ。」

「あほう、祥子ちゃんだけにならともかくお前に聞かせるんなんかもったいないわ。」

「何でやねん。」

「ははは。ほなまた哲司さんの聞かせてもらお。」

 時本さんが笑いながら言った。笑ってくれると安心する。

「おお、ええでええで。ワシの話はおもろすぎて腹ねじれるで。」

 哲ちゃんもその笑顔のせいか張り切ってこたえた。

「そんなハードル上げて大丈夫なん。」

 そんな大きなコト言って大丈夫なのかと一応心配してみたけれど、哲ちゃんから返ってきたのは、

「あほぅ、お前みたいに人頼りちゃうねん。ワシの今まで生きてきた人生でつちかったコレやっちゅうおもろいんやつ披露させてもらうで。」

と、拳をかかげてまでの熱い言葉だった。

 言わせておこう。

 そんな僕たちのやりとりを見ながらまた時本さんが笑ってくれた。笑っていてくれるなら僕は何を言われたっていい。

「せやけど、いろんなお客さんおってんやなぁ。本屋ではないわぁ。」

「おってですよ。他にもねぇ、歌を習い始めた言うて店の入り口のとこど歌い始めてや人とかねぇ、しょうもないダジャレでポトスをポスト言うたり、ペペロミア三ノ宮言うたり。」

 焦らなければ他にも簡単に思い出せた。

「ペペロミア三宮て、しょうもなすぎて笑えんのぉ。」

「うん、全然笑えんかった。」

 僕はその時のことを思い出して低くうなるように頷いた。笑うところかわからないようなのは、お客さんを目の前にしたとき一番困ることだ。 お客さんとのコミュニケーションも大切だとオーナーに言われるので何とか頑張って応対しているけれど・・・うん、やっぱり困る。

トイレに行くのに部屋を出て、外が暗くなっていることに気づいた。

「暗っ。」

 驚いてつい独り言を言ってしまった。

 あっという間のようで長かった。いや、長かったようであっという間なのか。時本さんの笑顔を見るまでの時間は長かったように思う。早くこの時間が過ぎて時本さんが笑っている時間にしてほしいと、早送り出来たらと思っていた。

 哲ちゃんの部屋の前まで戻ると中から三人の笑い声が漏れてきた。

 今にも命の火が消えそうという人がいればどこかでは新しい命が誕生しようとしているように、悲しみに打ちひしがれている時他の誰かは喜びはしゃいでいる人もいはずだ。 事故当時時本さんが悲しんでいる同じ時に、うれしくてたまらないという人もいただろう。今、立ち直り笑う時本さんとは逆に悲しんでいる人がいるだろう。なぜ人は楽しく笑い合ってだけで生きていくことが出来ないんだろ。これは、答えは出ないのに僕が何度も自問自答してしまうことだ。

 僕は哲ちゃんから一冊だけ小説を借りて帰ることにした。哲ちゃんの人生観を変えたという戦争の本だ。僕が読み終わったら時本さんに渡す約束をした。その本を読み終わった時、僕の人生観も変わっているのかな。

 時本さんとは僕の降りる元町駅でわかれた。

 発車する電車の中から、僕に花束を小さく振ってパクパクと口を動かした。聞こえなくてもわかった。「ありがとう」だ。胸がくすぐったかった。

 何十年と生きてきた中で、今日という特別な日が増えた。

 うん、濃い一日だった。前の僕の生活じゃ考えられない。

もらったプレゼントを自転車のハンドルにかけてから、楽しかったことの余韻に浸りながらゆっくりペダルを漕いでいった。

 途中、いつも通る道が工事で通行止めになっていた。

 仕方ない、遠回りするか。

 昼間は気づかなかったな。そうか、行きしは店に寄ったから通ってなかった。わかっていたら最初から手前の通りで帰っていたのに。

 僕はもう一本東にある通りの道を目指した。

 角を曲がってから気づいた。五十メートルくらい先が明るく何だか騒がしい。赤いライトが回っているのも見えた。 道は通り抜けそうだったので、自転車から降りておしていくことにした。近づくにつれ、人だかりの奥にパトカーと救急車が止まっているのが見えた。

 事故か事件かのどちらかがあったのかもしれない。神戸の街じゃ珍しいこでもない。

 こんなところで足を止めてみんな暇なんだなぁ。 野次馬ってやつか。

 帰って何をするでもない僕でも、興味がないと通り抜けようとしているのに。

野次馬たちの間を通り抜けようとした時だった。

「・・・ネン。」

 え?

 僕は足を止めた。

 今、どこからかジュンネンという声が聞こえた。

 気のせいか?

「ジュンネンやって。」

 聞こえた。今度は違うほうからだ。

 やっぱりさっきのもそうだったんだ。

 気づくとあっちこっちでジュンネンと言っているのが聞こえる。小声のせいでまるで僕に対して囁かれているような錯覚に陥りそうになった。けれど僕のことじゃない。〈死〉を思わせる言葉も聞こえてくる。そして集まっているみんなが、口を動かしながらも目は真ん前にたつアパートに向けられていた。

 もしかしたら・・・。

 いつもなら他人に聞けるような、こんなことを聞くような僕じゃないけれど今は違った。

「あの、すみません。」

 僕は中でも話しかけやすそうな、おばさんたちのグループに声をかけた。

突然知らない人間に話しかけられ、胡散臭さそうな顔を向けたおばさんたちも、何があったのかと聞くと、すぐに得意気な顔をして話してくれた。

「今日になってからな、このアパートに住んどる男の人が部屋で死んでるんがわかってんや。」

「部屋で?」

「そうなんやって。」

「部屋でって殺人事件とかですか?」

「ちゃうねんちゃうねん。病死らしいわ。」

「もっと早よう死んどっちゃったらしいんやけどな、隣も空室やって誰も気づかへんかったんやて。」

 おばさんたちが交互に自分の持っている情報を話してくれる。

「それがなぁ、その死んどった人ジュンネンやってんて。」

「そうそう、ジュンネンやって。」

 僕はドキリとした。

「こんな近くに住んどるのに知らんかったわぁ、ジュンネンがおるん。事件性もなさそうやし、まだ老人とかいうわけやないらしいから病気やないかって、警察が話しとるん聞こえてきたわ。」

「臭いで気づいたんやって。」

「えー。」

 おばさんたちが声を揃えて驚いた。しかめっ面をしている。

 三月の夜のまだ冷たい気温の中、僕の体温だけが上昇していくようだった。

 こんなに近くに住んでいたなんて。

「心筋梗塞とかやろか。せやけど何で誰も気づかへんかったん。仕事しとったら来ぉへんなぁって思うやろ。」

「ジュンネンやさかい職場でうまいこといってへんかったんちゃうか。来ぉへんかっても、ま、ええわぁ、程度の存在やってんで。」

 事実とも噂ともわからないことを好き勝手に言っている。すでに僕に話してくれるているというより、自分たちで盛り上がっているようだ。 ジュンネンだから、という言葉に僕の胸がズキンといたんだ。

「若い頃はジュンネンやったら年なかなかとらへんからええなあ思たことあったけど、やっぱり普通がええわぁ。」

「思た思た。そぉやんなぁ、普通がええわ。」

「やっぱりおかしいって。どんな体しとんやろ。宇宙人やったりして。」

「私、見たことないねん。」

「ウチもないわ。待っとたら見れるんかなぁ。」

何ていうことだろう。この人たちは僕たちジュンネンは人間と思っていない。

 バケモノ・・・思い出したくない記憶が蘇った。

 普通ってなんだよ。

 一年ずつ年をとる人間のことか。無難に多数派のほうを選んだ人間のことか。あんたたちみたいに差別発言をする人間のことか。

勉強ができるとあのコは普通じゃないからと言う人がいる。片親だと普通の家庭じゃないと言う人がいる。

 おもしろおかしく騒ぎ立てるこんな人たちがいるから・・・胸の中に、今まで感じたことのない黒いモノが渦巻いた。真っ黒でドロドロしている。この人たちが死ねば良かったのに。たった独りで、誰にも気づいてもらないまま死んでいった彼の変わりにこの人たちが死んでいれば良かったのに。 いっそ僕のこの手で・・・この時初めて僕にもこんな黒い部分があることを知った。

 叫びたくなった。悲鳴のような声を何度も何度も枯れるまで叫びたくなった。

 突然ざわついた。

 アパートの方をみんなが背伸びをしたり首を伸ばして見ている。

「あ、出てきた。」

 誰かが言った。

 見るとストレッチャーにのせて布をかけられた遺体が運び出されてきた。

「布かかっとるから見えへんわぁ。見たら話のネタになる思うたのに。」

「そんなん見えへんよう隠すん決まっとるやん。ま、一回見てみたかったけどなぁ。残念。」

 悲しかった。悔しかった。僕たちジュンネンは見せ物か。

 アパートにひとり暮らしということは大人か、もしかしたら僕と同じくらいかもしれない。誰にも気づいてもらえずに独りで逝かなければならないなんて、何十年という人 生を彼はどんな風に生きてきたんだろう。

もう少しで一階というところで、ストレッチャーを持つ一人がバランスを崩した。

 その音はドサリ、という音じゃなかった。糸を引いたようなねっとりとした不快感のある音だった。

 ジュンネンを見てやろうと勇んでいたおばさんたちも周りも悲鳴を上げた。

 吐き気をもよおした人の声があっちこっちから聞こえてくる。

 まだまだ寒い三月。いったい何日気づいてもらえなかったというんだろう。彼も自分の命が消えていこうとしているとき、こんな変わり果てた姿で発見されるなんて微塵も思わなかったんじゃないのか。悲しすぎる。

 落とされた拍子にバラバラに飛び散った彼を、慌てて集める人たちの姿を目にした時、一気に僕の体温が地面へと吸い取られていった。

 ああ。

 力が抜けてふらりと倒れそうになった。けれど、すぐ後ろにいた人にぶつかり何とか持ち直した。支えてくれた人が僕を見て驚いた顔をした。

 僕は泣いていた。

 彼を思い泣いたのか、自分の未来に泣いたのか、それはわからない。

 僕はそこから離れて自転車に乗ると、来た道を戻って行った。

 南へ。そして西へ。思いっきり漕いだ。漕いで漕いで漕いで漕ぎまくった。

 もっと早く。もっと早く。もっと早く。

 僕は止まる車の間をすり抜け、したことのなかった信号も無視した。

 彼女の家が見えた。

「あれぇ、何でおるん?」

 街灯の下、僕を見つけた時本さんが驚いた声を上げた。

 僕は自転車を放り出して時本さんの元へ走った。不思議そうな顔で見ている。

 僕はその勢いのまま時本さんを抱きしめた。

 時本さんは突然すぎて声も出ないようだった。ただ、僕の勢いに負け少しだけ後ろへのけぞった。

「どうしたん?」

 すぐには言えなかった。

 切れた息を整えながら、伝わってくる時本さんの温もりに勇気が湧いた。

「俺・・。」

「うん?」

「俺、時本さんが好きです。」


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