あるべき未来
いつもヘラヘラとした顔をしているのに、その裏側では一冊の本でそんな風に考えていたなんて。
でも、だから哲ちゃんは自分がいいと思うまま、後悔しないように生きているのかもしれない。昔、たった一回しか会ったことのない僕をこうして気にかけてくれたりしてくれるのもそういうところからかもだ。
哲ちゃんは、森田から僕のことを聞いて待っていてくれた。あの葬式の日、哲ちゃんが声をかけてくれなければ会うことはなかった。哲ちゃんも今会っておかないと、と思ってくれたのかもしれない。哲ちゃんの行動力に感謝だ。
やって後悔、しなくて後悔。どっちの後悔が大きいのかはやってみないとわからない。その時になって失敗だったら何年も引きずることになる。
ヒロのことを思い出し、胸がチクリとした。
・・・僕のは考えればわかることだったけれど、実際の見極めは難しい。
「よ、祥子ちゃん、どうしたんや?」
え?
哲ちゃんの言葉に時本さんを見た。驚いた。時本さんの目には今にもこぼれそうな涙が溜まっている。
哲ちゃんは慌てて時本さんの隣にきて座り、顔を覗きこんだ。
様子からすると、哲ちゃんの話に出た涙ではないようだ。
「どうしたんですか、しんどいんですか、大丈夫ですか?」
時本さんは小さく横に首を振る。
どの意味かわからず、僕は躊躇いながらも時本さんの背中に手をまわした。
その途端、時本さんの溜まっていた涙はボロボロとこぼれ落ちた。とっさにまわした手を放してしまった。
次々とこぼれ落ちる涙に、小さく体を震わせながら漏れ聞こえる嗚咽に、僕も哲ちゃ んもどうすればいいかわからなかった。
それから時本さんは目をギュッとつむると、両手で顔を覆い隠してしまった。
それでも涙は止まらない。彼女の腕を伝って涙は、テーブルに小さな水溜まりを作り始めた。
繰り返される嗚咽と、その度に震える肩。
さすがの哲ちゃんも声をかけられず頭をかきむしった。僕は・・・僕もただ見ているだけだった。
僕たちはどれくらいそうしていたんだろう。
「昔・・・。」
時本さんの弱々しい声が聞こえた。そう言うと大きく深呼吸をした。少しは落ち着いたのか震えも止まっている。
それからゆっくりと話だした。
「高二になった時の年、同級生が死んで・・・その時の事考えてしもて・・・。」
そこまで話すとまた大きく深呼吸をした。
高二ということは十二年ほど前ということか。
涙は止まっているようだけれど、顔は手で隠したままだった。
「病気やったんか?」
哲ちゃんが聞いた。
時本さんは首を振る。
「・・・二年生は、一年から一緒やったコらがほとんどやって。せやからみんなめちゃくちゃ仲良かって。」
時本さんがゆっくり顔を上げた。泣きはらした目は真っ赤ではれている。
「彼は・・・。」
涙を浮かべながら話してくれる声はかすれてとても弱々しい。
「彼は、ふざけてバカばっかりやってる人で、先生によぉ怒られとったけど、休み時間になったらみんな彼のとこに集まって。何か自然とクラスも彼を中心にまとまって。せやからすごい楽しいクラスやった。他のクラスからも羨ましがられた。」
その頃を思い出しているからか時本さんのは目はどこか遠くを見ているようだ。
「・・・その日・・・文化祭の打ち上げをしようって、上位に入賞したから祝おうって、夜みんなで集まることになって、店に向かってるときやった。信号が青になって、向こうで手を振ってるみんなの所に行こうと彼が横断歩道へ駆け出した・・・その時・・・。」
時本さんの目からまた大粒の涙がこぼれた。大きく息を吸い吐きだした。それを何回も繰り返した。
「彼が横断歩道に出てすぐに音が・・・バイクの音が聞こえてきて。だんだん近づいてくるのはわかったけど見えへんかって・・・ただ音だけが大きくなって・・・。」
時本さんが目をギュッとつむった。
「警察に追われて逃げてる暴走族やった。ライトも点けんと、ブレーキも踏まんと信号無視して突っ込んできた。突然バイクがすごい音させて転けて・・・。私らは何が起こったんかわからへんかった。」
時本さんの声が震えている。
「みんなの悲鳴が聞こえて。彼の名前を叫ぶ声が聞こえて。さっきまでいた横断歩道に彼の姿はなかった。彼は・・・彼は、バイクに跳ね飛ばされて・・・その後すぐにもう一台のバイクに・・・。彼は横断歩道と全然違うとこに倒れとった。みんなが彼の名前呼んどるのに返事せえへん。全然動かへん。動かへん彼を私は見てるしか出来へんかった。体が動かへんかった。目の前で起きてるんはホンマに現実なんて思った。すぐいっつもみたいにふざけて立ち上がるんちゃうんて思ったのに・・・。」
時本さんは顔を上げた。涙は頬を伝って流れ続けている。
「あいつらが彼のとこに近づいてきて・・・死なんといてくれっ、頼むから死なんといてくれって叫んどった。何度も何度も頼むから死なんといてくれって。」
時本さんの感情が、悲しみから怒りに変わっていくのがわかった。
「あいつら罪軽くしたいからって、助かりたいからってあんなこと言って。」
こんな悲しいことがあったから、店で暴走族を見た時様子がおかしかったんだな。
時本さんにとって事故を起こした本人たちだけではなく、全ての暴走族が憎しみの対象というわけだ。暴走する人間がいる限り悲しい悲劇は繰り返される。
そうだ、社会のルールを平気で破る人間がいるから悲劇が起こる。それも他人を巻き込んで。
どれだけ取り締まってもなくならない交通違反に暴走族、そして飲酒運転。
クラスメイトが犠牲になることもあった。クラスメイトの家族が犠牲になることもあった。・・・元クラスメイトが犠牲者をつくったこともあった。
飲酒運転もやっていることは暴走族と一緒だ。
悲しい事故を知る度に、そんな大人は車に乗った時点で奈落の底に落ちればいいのに、と思ったものだった。
「何で彼なん。何で彼が死ななアカンかったん。あいつらが憎いっ。暴走族が憎いっ。あの一瞬で彼は未来を無くしてしもたんや。せやのにあいつらは大したケガもしてへんかった。あんなやつら、腕も足もちぎれて、苦しんで苦しんで苦しんで、死ねばよかったのにっ。」
哲ちゃんの、戦争がなければ生きているはず、の言葉が時本さんの心を揺さぶった。 事故がなければ彼も生きているはずだった。大人になって、今頃もしかしたら持っていたであろう夢を叶えていたかもしれない。家庭も作っていたかもしれない。これが、涙を流した理由。
時本さんはその人のことを好きだったのかもしれない。
小さな風が吹いた、と思ったと同時にまっすぐに伸ばされた腕が時本さんを包み込んだ。二三子さんだった。
哲ちゃんも僕も驚いた。
「フミちゃん、起きたんか。」
一瞬驚いた顔をした時本さんも、しっかりと二三子さんに抱きしめられ、小さな子供をあやすように背中をポンポンとリズムよく叩かれながら体を預けている。
すっかり二三子さんが眠っていることを忘れていた。いつから起きていたんだろう。感情をおさえられず大きくなってしまった時本さんの声に起きてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、大きな声出して・・・起こしてしもた。」
二三子さんに抱きしめられたまま時本さんは謝った。
「アナタやったんやねー。夢見てるんやと思うとったわ。高校生のコらに混ざっておったら悲しい事故が起こって・・・夢やなかったんやね。アナタが見ちゃったことやったんやね。」
どうも二三子さんは、眠りながらも時本さんの話が聞こえそのまま夢へと映像化し、見てしまったようだ。
「悲しかったねぇ・・・つらかったねぇ、頑張ったねぇ。」
時本さんは二三子さんの体にしがみつくように腕を回した。
二三子さんは時本さんをアナタと他人行儀に呼ぶ。もしかしたら今は知らない女のコになているのかもしれない。それなのに、そんな自分を抱きしめてくれる二三子さんが時本さんにとっては支えになってくれているんだろう。
「むかーしね・・・。私の友達の話なんやけど。」
二三子さんが時本さんにゆっくりと語りかけるように話始めた。
「昔、若い時にすごい悲しい思いしたコがおってね。その時は一人で何日も泣いたんやて。悲しすぎて誰にも話せへんかったんやて。言えへんまま日が過ぎて・・・。でも何年もしたらそのことを胸の奥に閉まっとけるようになってきたんやて。友達が自分につらい事を打ち明けてくれた時、今なら話せるかも、聞いてもらおう、て何度も思う時があったらしいんやけど、やっぱりどうしても言えへんかってんて。話を聞いた友達はきっと泣いてしまう。友達にさせなくていい悲しい思いをさせてしまう。そのことを言葉にしてしまったら自分もきっと泣いてしまう・・・もう二度とそのことに涙を流したくない。そんなん考えてしもうたからそのコは結局ずっと話し出来んと何十年も秘密にしてきたんやわ。これからもずっと・・・誰にも言わんとお墓の中までってしんどいねぇ・・・ホンマしんどいねぇ。泣ける時に泣いて枯れるまで涙を流したほうがいいんやで。泣いたほうが楽になれるんやから。若いアナタはまだまだこれから未来にいろんな事が待っとるんやから。これからも悲しい事は一つや二つ起こるかもしれへん。せやから、悲しい事は溜め込んどったらアカンのやわ。ね。」
顔を上げて二三子さんの話を聞いていた時本さんの目から涙がこぼれ落ちた。まだ枯れていない涙。時本さんはウンウンと頷きながら、また二三子さんの胸に顔を埋めた。
哲ちゃんは目を赤くしたまま二三子さんの手を握った。二三子さんも握り返した。
哲ちゃんも途中で気づいたのかもしれない。二三子さんの友達の話だと思って聞いていた話が、二三子さん自身に起きた話だったということに。
僕は、哲ちゃん、二三子さん、時本さんと目を順番に移していった。
なぜこの人たちが、知らなくてもいい悲しみを背をわなければいけないんだろう。僕は悔しい。




