良かったこととうれしかったこと
時本さんに告白した三日後の朝、哲ちゃんからの電話で目覚ましが鳴るより先に起こされた。朝といっても遅番なので、昼に若干近い朝だ。
「もしもし?。」
「こら、ワシに何か言うことないんか。」
「え、何。」
寝起きの頭に哲ちゃんの声が響く。僕がまだ寝ていたということはどうでもいいらしい。
「よ?よ?どの口が言うねん。」
「んー?」
しばらく考えて思いついた。時本さんとのことを言っているのかもしれない。時本さんの働いている本屋に出かけて会い聞いたのだろう。
「ほぉー、ほぉー、ほぉー。ワシに何にも言わへんつもりか。」
「時本さんのこと言うとるん?」
「お、祥子ちゃんが何や。祥子ちゃんがどないしたんや?」
聞いてるな、これは。
口調が変わった。見えなくてもニヤニヤしているのがわかる。
「時本さんに聞いたんやろ。」
「何をやぁ。どんなことやろのぉ。」
しらじらしくとぼけたフリをしている。このクソジジイ。
「もう聞いとんねやろ。そういうことやん。」
「何のこっちゃわからんのぉ。」
またとぼけたことを言っている。僕の口から言わせようとする哲ちゃんの魂胆が見え見えだ。想像できる顔はいたずら小僧ならぬいたずらジジイだ。
哲ちゃんは僕の口から聞かない限り、ずっとこの繰り返しをするに違いない。
僕は諦めた。
「あー、哲ちゃんには会うた時に言おう思とってんけどな・・・俺から告うてな・・・時本さんと付き合うことに・・・つき合うてもらえることに・・・ん?付き合っていくことにか・・・ん?あれ。」
「ええ、ええ、それで許したろ。」
僕は何か悪いことをしたのか?
こんな報告、照れくさい。
時計を見るとそろそろ仕事へ行く準備を始めなければいけない時間だった。
今日は食パンにピザソースだけをぬってオーブンにほりこんだ。焼けるまでの間に新聞を取りに行き、着替えをした。その間も哲ちゃんはしゃべり続けた。
「お前にもそんな度胸あったんやぁ。もじもじもじもじしとったからのぉ、心配やってんけどのぉ。ほぉー。まあ、よおやった、よおやった。さっき本屋で祥子ちゃんに会うてな聞いてビックりやったわ。」
僕はてっきりからかわれるものだと思っていたのに、以外にも哲ちゃんは褒めてくれた。
頑張った人間を相手にそんなことはしない、か。そこも哲ちゃんの隠れたいいところかもしれない。どうせなら隠さずにいてほしい。
実際僕もよくやったなと思う。今でも夢だったんじゃないかと思ってしまうくらいだ。朝、起きる度に確認してしまう。昔、もう恋なんてしない、なんてことを思ったことがあったはずなのに。人の心は変わる。
でも、お客さんとしては早くから知ってはいたけれど、友人として付き合いだし、どういう人間かということを知っていってからそんなに日はたっていないのに、こんなふうになるなんて。勢いのまま先走りすぎたなんてことはないんだろうか。
僕がそんな不安を漏らすと哲ちゃんは、
「最初から誰でも全部知っとって付き合いするわけやない。これから、ええとこも悪いとこも知っていったうえで二人の未来に先があるんや。これから二人でお互いを育てていったらええねん。アカンなったらそれはそれ、それまでやったいうこっちゃ。こんなん聞いて怖がっとったらアカンぞ。最初から終わること考えとったら何も始まらへんのやからな。だあれも終わりを考えて付き合い始める訳やないんや。」
何だかもっともらしいことを言う。哲ちゃんの言葉にまるで暗示をかけられたように、僕に強さを与えてくれた気がした。
「うん。」
焼けたばかりの食パンにかぶりつきながら僕は頷いた。いつもなら新聞を広げているところだけど、今日は仕事の休憩の時に読むことにした。
「今、幸せやろ。」
そう聞かれて食パンをかじる口が止まった。
幸せ?
「幸せやろが。祥子ちゃんに好かれとったんがわかって。付き合えるようになって幸せやぁ思わへんかったんか。」
幸せ・・・あの時、うれしいとは思った。自分の好きな人が同じように好きになってくれていたと知った時、すごくうれしかった。うれしいと思う時と幸せと思う時はどう違うんだろう・・・。
ゆっくりと口を動かしながら食パンをモソモソとかじっていった。
このピザトースト、おいしいのがうれしい。
何かもらった時うれしいと思うし、この前の誕生会をしてもらった時もうれしいと思った。哲ちゃんに再会出来て、良かったうれしいと思った。時本さんが僕を好きでいてくれたと知った時もうれしかった。でも・・・。
哲ちゃんに言われて気づいた。いつからだろう。長い間、幸せと思った事がない。思ったことがないというのか、言葉にしたことがない。胸の中でも。幸せと思ったこっがあったのかもわからない。
あれ、良かったとうれしいは一緒か?良かった、うれしい、幸せは原級比較級最上級みたいなものか?
「何や、またお前ごちゃごちゃ細かいこと考えとんちゃうやろのぉ。ええ、ええ、何も考えんな。」
黙り込んでしまった僕に気付いた哲ちゃんは、僕の性格をこの短期間で見抜いたようだ。うじうじうじうじ、考えなくてもいいことを無駄に考えて沈んでいく。哲ちゃんの声に、僕の考えは振り払われた。
仕事に行く準備をしながら、両手が使えるように耳と肩で携帯電話を挟んだ。多少肩に力が入って疲れるけれど十分話せる。
今日の昼飯用のおにぎりを作るために、炊飯器からご飯をどんぶり茶碗にしゃもじ二杯分入れた。ふりかけを入れてまんべんなく混ぜ、広げて敷いたラップの上に茶碗を逆さにしてご飯を落として端っこをつかんで丸めていく。おにぎりの出来上がりだ。二個目はふりかけの味をかえて作った。今日はおかずナシでいい。時々ズレる携帯の位置を戻しながら作り終えた。おにぎり用の袋に入れてからリュックの一番底に突っ込み、 哲ゃんの話にうんうんと相づちを打ちながらジャケットに袖を通し、携帯電話を手に持ち替えてからマフラーを巻きリュックを背負った。後はもう出るだけだ。
「哲ちゃん、俺そろそろ出んなん。」
「よ、そうこそうこ。ああ、言わんなん肝心なこと忘れとったわ。前に久実が病院に見舞い行くとき、花頼むは言うとったけどなぁ、何や花は持って行ったらアカンらしいわ。」
誕生会の日に言っていた、久実ちゃんの同級生のお見舞いのことだ。
「そうなんや。」
「学校でセンセにそう言われた言うてな。すまんなぁ。」
「ええでええで。そんなん謝ることやないし。ほな、もう久実ちゃんお見舞い行ってんや。」
「おお、今日、学校終わったら友達と行く言うとったわ。」
久実ちゃんは哲ちゃんに早めに行くようにと言われたお見舞いを、先延ばしすることなく早速行くようだ。
それから五日ほどして、哲ちゃんから注文のメールがきた。
〈葬式に持って行ける花、頼むわ〉
とだけで、後は日にちと取りに来る時間だけだった。てっきり哲ちゃんの同世代の人へのものかと思っていたのに、驚いたことにその花を取りき来たのは久美ちゃんだった。 こんにちは、とクラスメートと一緒に店に入ってきた。
「こんにちは、あれ?」
「おじいちゃんが花頼んでくれとったと・・・。」
「うん、え、あれ、そうなん。久美ちゃんのやったん?え?」
頷いて僕を見た時の久美ちゃんの目は充血していた。
「今から・・・。」
そう話し出したとたん、涙がボロボロと溢れて零れ落ちた。
「どうしたん。大丈夫?」
隣に立つクラスメートも目が真っ赤だ。
久実ちゃんは気持ちを落ち着かせるためにそのクラスメートの袖を掴んで三回深呼吸をして、震える声で話してくれた。
「今から・・・お葬式に行くんです。」
僕は黙って頷いた。
「前に言うてた同じクラスの病気やったコ・・・一昨日死んじゃったぁ・・・。」
「え・・・。」
死んだ?この前見舞いに行ったばかりなのに。
「ふうう・・・。」
涙を流すのを耐えていた久実ちゃんも子供のように泣き出した。顔も隠さず、涙をボロボロ流しながら声をあげて。
いや、まだ子供だ。中学生の小さな女のコだ。こんなに若いのに、たった十三、十四で本来なら知ることのない悲しみで胸を痛めている。
何事かと覗きに来たオーナーたちも、声をかけることが出来ないようだった。こんな悲しみの時は、どんな言葉も慰めにはならない。
僕は二人から静かに離れて、用意しておいた花束をキーパーに取りに行った。会ったことのないそのコの元に、この花束が供えられるのを想像して溜息が出た。
ドアを閉めながら、二人の後ろ姿を見た。
大切な久実ちゃんがこんなつらい思いをしているなんて、哲ちゃんもつらいだろうな。
僕は二人の前に行き、カウンターに花束を置いた。
久実ちゃんは鼻を啜りながら、花束に入っている白いユリにそっと触れた。
「・・・お見舞い行っとって良かった。おじいちゃんに言われてへんかったらまだ行ってへんかったわ。絶対後悔しとった・・・でも、毎日でも行っとったらよかったって今は思てしまう。」
そう言うと哲ちゃんのように泣きながら笑った。
久実ちゃんの泣いている姿は哲ちゃんにそっくりだった。
人の命なんてホントいつどうなるかわからないな。
こんなに突然じゃ、何も言えないまま聞いてもらえないまま心の時が止まってしまう。その家族にとっては突然のことだったかもしれないけど、久実ちゃんにとっては会えていただけでも良かったのかもしれない。哲ちゃんも久実ちゃんの同級生が手術しなければいけないような重い病気だとは思いもしなかったと思う。そのうちに、というやり方は何でも後悔を生むことが多いとわかっての助言だったんだと思う。でも、哲ちゃんのその一言があったから久実ちゃんの心は前へ進む位置に立てたんだと僕は思う。
後日、哲ちゃんがやってきて久実ちゃんの亡くなった同級生の話しをしてくれた。
「手術中に亡くなったんやて。手術せぇへんかったら後一年、手術をしても成功の確率は二十パーセントやて。つらい選択やで。せぇへんかったら死ぬ。しても死ぬかも。どないせぇっちゅうねん。助かるかもや思て手術したら死ぬん早めてしまうかもなんやさかいな。親御さん、えろう悩んみはったやろな。久実が見舞いに行った日にな、その子が手術するんやぁ言いよったんやて。手術が終わったらこれからは皆と一緒に運動が出来る言うてな、チーム組む時は久実を同じチームに入れたろぉて言うてくれとったらしいわ。見舞いから帰ってったらな、元気になれるんやってていうてな、うれしそうに話してくれとったんや。せやのに次はえらい顔して泣きながら帰ってってなぁ。」
哲ちゃんもどう慰めればいいかわからなかったらしい。でもそのうち泣き止んだ久実ちゃんから、ありがとうと言われて何のことかと聞くと、見舞いに早く行くように言ってくれたことだと言われたそうだ。
どんな病気か知らなかったにせよ、久実ちゃんが一度でも会えて、自分と同じ思いをすることにならなくて良かった、と言ってほっとしていた。
僕が哲ちゃんと久実ちゃんはよく似ているというと、
「そうこ?」
と、うれしそうに笑った。
良かった。その笑顔を見て僕はそう思った。




