第六十話
「少々お待ちください。今上司の指示を仰ぎますので」
そう言ってどこかに電話をかけだした女、炎羅に対して、ニアスは一度、少し深くゆっくりと呼吸をした。
吸って吐く。
深呼吸ほどでなくても、意識して、ゆっくりそれをする事で精神安定効果を得られる。相手に悟られることもなく、大きな隙も晒さない精神マネジメント。これもまた炎堂に教えられた事である。
そう、炎堂だ。
確かに炎羅は殉職と言った。果たしてそれが非合法組織において正しい表現なのかはともかく、死んだというのは間違いない。
なら、今すべきは逃走。
言葉でも不意打ちでもなんでもいい。
ここにいる理由はもう無い。今すぐにこの恐ろしい女から逃げなくてはならない。
そう、ニアスが結論付けたのとほぼ同時。炎羅が電話を切り、ニアスと改めて目を合わせる。
言葉で解決できるのなら、ニアスにとってそれが一番いい。
「ボスが貴方を連れて来いと言っているのですが、大人しく着いて来る気はありますか? 無ければ動けなくして連れて行きます」
没交渉、OK。
そんな気はしていたニアスの返答は無い。ただ、目を逸らさぬまま、全力で後ろに飛び退いて距離をとった。
そんな回避行動を、炎羅は投降の意思なしとみなし、宣言通り暴力による解決を図る。
「『殴る 37センチ』」
「はい、姐さん」
「姐さんはやめてください」
炎羅は黒服から黒い筒の様な物を受け取り、ビュンッと風切音を鳴らしてその場で振り抜く。
筒はカシャシャン! と音を立ててまっすぐに伸び、警棒へと早替わりする。
持ち手を除いた全長は、ピッタリ37センチ。
一歩、炎羅が距離を詰める。
それと同時に、ニアスは地面を全力で蹴った。
開いたばかりの間合いが即座に潰れる。
二歩目は地面を強く踏み締め、3歩目では既に全力疾走に到達する。
先ほど飛び退いたのは失敗だった。と、ニアスは考える。
自分の家と違い、ここは高層マンション。窓からは逃げられないし、隣や下の部屋に逃げ込む訳にはいかない。
なら、逃げ道は一つ。
炎羅の横、そこで突っ立っている黒服の男を踏み倒して、外へ逃げる。
間合いが埋まり、両者は激突する。
そして、ニアスは後方にぶっとばされた。
「チッ」
「ぐっ!」
舌打ちは、仕留めきれなかった炎羅のモノ。
うめき声は、ダメージを受け、逃げられなかったニアスのモノ。
疾い。
両者の感想は共通のものだった。
ニアスの突進に対して放たれたのは、低空の蹴り。地を這う様に突進したニアスの顔面に、足の甲が迫る。
咄嗟に腕を上げたニアスだったが、速度が付きすぎて吹っ飛ばされた。腕が痺れる。あまりに疾い蹴りだった。
一方で炎羅もまたニアスの評価を上方修正していた。確実に当たると思った蹴りが、ガードされた事に驚いていた。
表面上は無表情のままだが、内心で驚愕していたと言っていい。
そして、反省もしていた。無理に蹴らなくても、足を差し出すだけで良かったな、と。蹴るから吹っ飛んだ。距離を作ってしまった。当てるだけならまだ間合いの内にとどめておけたのだ、と。
上司と契約者。
炎堂という共通の師匠を持つ二人は、非常によく似た思考回路をしていた。
当然、気づく。互いの狙いに。そして実力の差に。
逃げ道は塞がれ、圧倒的不利なのは、ニアスの方。
不利どころか、詰みと言っていい。
だがしかし、ニアスは見つけた。自分の後方、ベランダの窓から見えた、逃走ルートを。
瞬時、後方に向かって駆け出す。
対して炎羅はゆっくりと歩き出した。
たぶん、ニアスも逆の立場なら同じ様にする。
逃げ場のない方へ進む相手を追い詰める時に、下手に走って、部下と作っている通せんぼの隊列を見出したりはしない。
流石に靴を脱ぐほどではないが、それでも確実に追い詰めるために、あえてゆっくりと動く。
だから、ニアスはベランダの窓を開けて、そこからジャンプすることが出来た。
「!?」
ベランダから下の階や横の部屋に飛び移ることは予想していても、それが出来ないほど前へ飛ぶとは、流石に想定していなかった。
初めて、炎羅が無表情を崩す。
一方でニアスは、窓の外に見えたあるモノを掴んでいた。
赤い頭巾を付けた、ぬいぐるみの様な生命体を。
「マスコットって飛べるんだよね?」
「うええええぇぇぇ!!??」
それは、他のマスコット達の力をなんとか借りて、ようやくニアスの居場所を突き止めた、マスコット『カステム』であった。
豆設定
炎羅が武器を長さと動作で呼ぶのは、横文字が苦手でナイフや銃をマトモに区別できないため。割と珍しい万能型の超人であり、複数の種類、長さの武器を使いこなす。




