8.教会
朝の樹海は夜よりもひどい。
霧がたちこめて、樹木の陰と足元の道しか判別できなくなるのだ。
体にまとわりつく霧は四月にもかかわらずひどく冷たい。
オーロンはエルテに足で揺らされて、起こされた。
エルテは既に起きていて、荷物をまとめていた。
「さぶっ」
オーロンは朝靄に湿っぽくなりながら、横たえた身を震わせた。
「はやく行きましょう。寝てる時間なんてないわ」
オーロンにはこの世でどうしても我慢出来ないものが二つあった。酢漬けキャベツと寒い朝に足蹴にされて起こされることだった。
「霧が晴れてからにするぞ」
オーロンは不機嫌な声を出して毛布を被った。
「自分の立場がわかってるの? あなた命を狙われてるのよ」
エルテは呆れて、毛布を引っ張った。
オーロンがそれを引っ張り返してかけなおす。
「お前こそ俺のことが分かってない。俺は起きたくもないのに毛布を剥がされるのが大ッ嫌いなんだ」
「霧が晴れるのを待ってたら昼になるわ」
「いいねえ、昼まで寝られるわけだ」
「私、寝たくない」
「じゃあ、そのへん見張ってろ。ふああ……」
オーロンはさっそくウトウトしてきた。
エルテはオーロンの首筋をぎゅっと押した。軽く押しただけだが、まるで火かき棒を突っ込まれたように激しく痛み、オーロンは思わず飛びあがった。
「何しやがる、メスチビめ!」
エルテは「何だ、起きられるじゃない」とせせら笑った。
オーロンのどうしても我慢できないものが三つに増えた。
服についた落ち葉を払い、荷物をまとめて、馬を馬具につなぐと途切れがちの舗道に戻り、ゆっくりと進む。
このまま進むと……ほら、朽ちた石柱のそばを通る。このまま道なりに行けば樹海教会の尖塔が見えるはずだ。そのあとは……けっこう道が複雑なんだよな……
霧の道中を進みながら、オーロンは外套の前をぐいぐい引き寄せて何とかボタンを閉じた。この冷たい霧が懐に入り込まないよう服をぴっちり閉めようとしたのだが、ボロボロの背中ではそれも叶わず、冷気はオーロンのチョッキとシャツを貫いて、肌を粟立たせた。
おまけに厄介な問題も持ち上がった。
「げっ」オーロンは舌打ちした。
「どうかしたの?」エルテは毛布を探して荷物を掻き回しながらきいた。
「地図がズダボロだ」
オーロンが取り出した樹海地図は幾筋にも裂けていた。
「昨日襲われたときにやられたんだ。参ったな。これじゃ道が分からん」
「この森、しょっちゅう通ってるんでしょ。道ぐらい覚えてないの?」
「樹海の植物はスゲエ速さで成長するんだ。昨日通った獣道が草で塞がれて見失うことだって珍しくない」
エルテは毛布を引っ張り出すとそれで身を包んだ。
「あー、寒い」
小さな顔だけを毛布から出し、もぞもぞ動いて足踏みする。
「小さい教会がこの先の開けた場所にあるから、そこで地図を貰おう。ついでに毛布もな。今日の樹海は妙に寒い」
オーロンはエルテの毛布を引っ張って自分の膝にかけようとしたが、すぐ引っ張り返された。
正午が近づき、霧が晴れると木々の隙間から教会の尖塔が見えてきた。
赤いペンキが剥げた木造の尖塔で銅の鐘が鈍い光を放っている。
オーロンは教会裏手の斜面の麓に荷馬車を停めて、エルテにここで荷馬車を見張ってろと言いつけた。
「どうして私が残らないといけないの? ここ、寒くて嫌いよ」
「うるせー。お前、自分の身なりを見てみろ。いかにも暗殺者でございって感じの服じゃねえか。おまけにでっかいナイフ腰にさして、鎌の刃だの斧の刃だのごてごて身につけてる。木こりじゃあるまいし。これから神父に会って地図貰いにいくんだぞ、わかってんのか?」
「身なりに関してはあなたにとやかく言われたくないわ。穴のあいた帽子にぼろきれみたいな上着。まるで浮浪者よ」
「口の減らないガキだな。とにかく見張ってろ」
「見張ってろ見張ってろってそればかりね。先が思いやられるわ。あなた、私を嫌ってるでしょ」
エルテはふざけて拗ねながら言った。
「嫌うなんてとんでもない」オーロンは大袈裟に手を振った。「蔑んでんのさ。お前だって俺のことバカにしてんだろ」
エルテは小さく嘲笑った。
「バカになんかしてないわ。コケにしてるのよ」
オーロンはこの子供っぽい中傷合戦を早々に打ち切り、雑草に埋もれて滑りやすい階段を上っていった。
「ちゃんとそこにいろよ。でないと毛布貰ってきてやらねえからな」
苔むした板壁と崩れた石小屋に支えられて、樹海教会が空いた土地の真ん中にぽつんと立っている。伐り出された丸太が積み重なる他は資産らしいものが見当たらないこのみじめな木造建築の主に地図を旅人に配る余裕があるのか怪しかったが、しょうがない。ここ以外に頼る相手がいないのだ。
「すんませ~ん」
オーロンは粗末な両扉を押し開けながら、聖堂に足を踏み入れた。
信徒用の板を打ちつけた長椅子が数段並び、石造りの祭壇には銀製の祭具が幾つか並んでいる。その後ろには女神像が台座の上に据えられて、訪問者に優しい瞳を投げかけている。
「誰かいないか~?」
オーロンの呼びかけに最前列の長椅子がきしんで応えた。
ぎょっとしながら、恐る恐る椅子を覗き込むと小柄な老神父が居眠りをしていた。
「神父さん、おい、神父さん!」
老神父が寝ぼけ眼を擦りながら、「どちら様かのう?」とたずねてきた。
オーロンは旅のものです、とだけ答え、樹海の地図と毛布を分けてくれませんかね、と気さくに頼んでみた。
「いいですとも、いいですとも。人間困ったときは助け合わんといけません」
神父はそう言って、温和な笑みをたたえた。
こんなしなびたじいさんでも可愛くみえてくるぜ。ここしばらく嘲笑と苦笑にしか縁のなかったオーロンはほっとした。
「地図と毛布だけでいいかの?」
神父は裏の倉庫から品物を両腕に抱えて持ってくるとふうっと埃を吹いた。
「助かりますよ」
オーロンは咳き込みながら、地図をポケットに毛布を脇に抱えた。
オーロンはお布施箱に十クー銅貨を放り込み、軽く祈った。礼を言いながら立ち去ろうとしたが、思い出したようにこんなことを言い出した。
「ねえ、神父さん。悪魔ってどうやったら祓えるんですかね?」
「悪魔?」神父は目を瞬いた。
「いま厄介な小悪魔にとりつかれて参ってるんですよ。髪は死人の肌みたいな灰色で雪みたいに白い肌に雪みたいに冷たい心で人を小馬鹿にするような忍び笑いをする性格の悪い小娘なんですがね」
「ふうむ……」
そのとき毛布に包まったエルテが扉を開けて、教会に入ってきた。
「ちょっと! 寒いんだから早くしてよ。毛布は?」
エルテは頬を膨らませた。
「うるせーな。いま神父さんにお前のことを愚痴ってたんだ。まだまだかかるから馬車で待ってろ」
オーロンはしっしと手を振って追い払うような仕草をした。
「神父?」
エルテは首を傾げ、老神父の顔を覗きこんだ。
神父の笑みが一瞬ぐらつく。
エルテはくっくと低く笑い出した。
「先生、お久しぶりですね」
オーロンは寒気を感じて、神父を見た。
「先生だと?」
温和な笑みは相変わらずだったが、神父の両手の甲には既に刺さったらかなり痛そうなギザギザの鉄の爪が装着されていた。
オーロンは咄嗟に毛布を放った。そして毛布が被さった神父を力いっぱい蹴り飛ばした。体が跳ね上がったが、神父は空中で一回転して、毛布を切り裂きながら着地した。
外から銃声がして、エルテのすぐそばをかすめた。教会はもう包囲されている。
罠だった!
オーロンはベルトにさしたピストルを引っこ抜き、神父に向けた。神父は動きを止めた。
一方エルテもなけなしの毛布を切り裂いた。既に二本の人斬り鎌が手に収まっていた。
「私は外を! あなたはそいつを片づけて」エルテが教会の前庭で走り去る。
(こいつを片づけてから行けよ、畜生!)
オーロンは銃口をまっすぐ向けたまま、神父を睨みつけた。
「悪く思うなよ、じいさん」
オーロンは引き金を引いた。
カチッ。火皿からわずかな火花があがっただけの乾いた音。
ヤバイ、不発だ。朝の霧で火薬が湿って……
ギザギザの刃が襲いかかる。オーロンの投げつけたピストルをバラバラに切り裂き、神父の爪がオーロンの首を狙う。
あの人の好い笑みを絶やさないまま容赦なく攻撃を繰り出す。オーロンは教会中を逃げ回った。
「エルテ! 早く帰ってこい!」
オーロンは叫んだが、エルテは来ない。
(自分で何とかするしかない。なんか攻撃をしのげるものは……!)
長椅子に放置された円筒形の大きなヤカンを手に取り、それできわどく攻撃を受け止める。
「ほう、それでいつまでもちますかね?」
神父が間合いを開けて、楽しそうに訊いてきた。
「ほえ面かかせてやるぜ、クソジジイ」
オーロンも黙ってやられる気はなかった。
右から払ってくる刃にヤカンをぶち当てる。高い金属音とともにヤカンの丸い底が持っていかれた。爪に引っかかったヤカンの底を弄び、神父が微笑する。
また刃が振るわれて、オーロンは残ったヤカンで受け流した。今度は胴と注ぎ口がもぎ取られる。オーロンの手の中には頼りない針金の取っ手しか残らなかった。
横壁の袋小路に追いつめられた。左右を長椅子に挟まれ、背後は支柱の間に出来た窪みで窓はない。
オーロンは針金を捨てた。
「おや、観念しなさった。じゃあ一応希望を聞きましょうか。首を落とすのと腸を引き摺り出すの。どちらがよろしいかな?」
神父は三ツ星レストランの給仕頭のような自信たっぷりの口調でオーロンの注文をきいてきた。
「じゃあ、シェフのお勧めで……」
オーロンは後ずさりした。
「両方いっぺんにして差し上げましょう!」
神父が長椅子の間を走りこむ。オーロンは両手を左右の長椅子に伸ばすと、力任せに引っ張った。
長椅子が両側からバンッと閉じて、間を走っていた神父の体をサンドイッチのように強く挟んだ。
「がはっ!」
神父は腹を背もたれに強打され、苦しそうに喘ぐ。
オーロンは長椅子をつかみ、馬鹿力で頭上にかざすと神父の背中に振り下ろした。
鈍い音と木が木目を無視して裂ける音。神父は長椅子の下敷きになり、ピクリともしなかった。
「ぜぇ、ぜぇ……ざまーみろ……ま、ざっとこんなもんよ」
肩で息をしながら、オーロンはすぐ前の長椅子に座り込む。懐のエルフロア煙草をくわえて、マッチを探すと……
背後で長椅子が真っ二つに引き裂かれる。神父が飛びあがり、オーロンに襲いかかった。
「わっ!」
オーロンは床に転がった。爪が胸先三寸まで迫る。
ピュンッ! 奇妙な風音とともに神父が動きを止めた。首に細い針金のようなものが巻きついている。
針金は天井の梁を経由して、祭壇の女神像の手首に結び付けられていた。
エルテはその後ろの窪みに隠れてクスリと笑った。
神父の顔から笑みが剥ぎ取られ、恐怖にひきつった。
エルテが女神像を蹴り倒すと像が地面に叩きつけられ、手首がグンと下がった。
代わりにに神父の体が宙に引き上げられた。
「ゲッ!……グエェ……」
首を吊られ神父はもがき、つい針金を外そうとして鉄の爪で自分の首を触ってしまった。
血が頭上から雨のように降り注ぐ。
「あーあ、先生も腕が鈍ったわね」
エルテの表情はカナリアをくわえた猫のように柔らかかった。
オーロンはぶるっと震えて、煙草をしまった。




