【佐々倉 真弓のメール⑤】
to: takaomi_kagurazaka@████.ne.jp
from: mayumi_sasakura@████.ne.jp
日時:2026年5月15日(金) 18:27
神楽坂教授
お疲れ様です。佐々倉です。
本日17時過ぎ、Hホールディングスより正式に調査打ち切り、および明朝までの完全撤収命令が下りました。
契約上、エコリアルの社員としてはこの決定に従うほかありません。同行のメンバーも一様に落胆しております。
しかし、研究者として、あのメンブレン層の下に広がる未知の水域を前にして、このまま手ぶらで引き下がることはどうしてもできません。
メンバーと協議した結果、今夜、企業の目を盗んで、もう一度だけ水中にアプローチします。
ROVの再投入はログが残るため不可能です。
幸い、私とR君はテクニカル・ダイビングのライセンスと経験があります。機材の撤収作業を装い、深夜、2人で直接潜水し、メンブレン層の亀裂から下層空洞への侵入を試みます。
危険は重々承知の上です。万が一の際、これは私とR君が会社に無断で行った「私的な密漁・不法侵入」であり、他のメンバーや先生には一切の責任が及ばないよう、すでに口裏を合わせてあります。
少しだけ、思い出話をさせて下さい。
魚宿三潴について初めて知ったのは、大学二年生の頃のことでした。
当時から度々ケイビングを行っており、そのサークルメンバーとして知り合ったY先輩から話を聞いたのです。
きっかけは「死ぬまでに訪れてみたい洞窟はどこか?」という、よくある雑談だったと記憶しています。
私は「クルベラ洞窟に行きたい」と話し、他のメンバーも皆、世界的に有名な洞窟の名前を次々と挙げていきました。
まだ大学生だったこともあり、知識を披露したがりだった私たちにとって、段々とそれは「あまり知られていないマニアックな洞窟名を挙げる」という、一種の衒学的な遊びに変わっていったようにも思えます。
そこでふいにY先輩が口にしたのが、”魚宿三潴”でした。
メンバーの中で、誰一人としてその名前を知る者はいませんでした。
先輩曰く、その洞窟は房総半島の山中にあり、見た目はまるで森の中のブルーホールのようであるそうです。
入り口となる湖は直径30メートル程度。しかしそこから、深度400メートルを超える未知の垂直地下空間が存在している可能性があると言うのです。
私たちはそれを聞いて大笑いしました。
房総半島に、そんな深度の自然湖やシャフトが存在するはずがないからです。
ご存じの通り、房総半島には火山帯が存在しません。
400メートルを超えるような深い湖や大空洞が形成されるには、火山活動によるカルデラや、断層運動によって生じた大規模な地溝に水が溜まるなど、地質学的な大イベントが不可欠となります。
確かに房総半島は複数のプレートがひしめき合う日本屈指の激甚な隆起地帯ですが、マグマが生成される火山フロントからは完全に外れており、実際に過去数百万年にわたって火山が存在した記録はありません。
地盤自体も比較的最近(と言っても数十万〜数百万年前の第四紀ですが)海底に積もった砂や泥が急激に押し上げられたものであり、地質学的に見れば極めて「柔らかく脆い」堆積岩の地層です。
水による浸食も激しく、そんな場所に400メートルもの深度を誇る水没洞窟が自立して存在し続けるなど、あり得ない話なのです。
……あり得ない話。
そう理屈では笑い飛ばしながらも、魚宿三潴の存在は私の中で奇妙なほど深く刻まれました。
そこには何と、古くから鯨が棲んでいるとも言われていると聞き、余計におとぎ話のように感じました。
それでも何故か、頭から消えなかったのです。
緑の絨毯の中にぽっかりと開いた、底知れぬ群青の穴。
まるでその光景が、森の中にある巨大な鯨の瞳のように思えてくる。
いつしか私にとっての”死ぬまでに訪れてみたい洞窟”は、魚宿三潴に変わっていました。
そしてついに、現地調査という形で、魚宿三潴に訪れROVを使っての調査で謎の巨大空間を発見したのです。
現実的に考えれば、厚いメンブレン層の下に狭い横穴が存在し、そこへROVが急速に吸い込まれたと考えるのが妥当でしょう。
急激な流れの変化と、狭い洞窟内での壁面衝突。その際のセンサーのエラーが、メンブレン層を抜ける瞬間に、あり得ない水深と容積の数値を叩き出したのかも知れません。
それでも、やはり私は自分の目で確かめたいのです。
あのメンブレン層の下に、データが示した通りの、巨大な地下空間が本当に実在しているのか。
それを、この目で確認したい。
少々長く語り過ぎてしまいました。
やはり私も緊張しているようです。
このメールが先生の元に届く頃には、私たちはすでにエントリーしているはずです。
電波が届かない場所になりますので、返信は不要です。
先生に最初のサンプルをお見せできることを楽しみにしています。
未知の発見が待っていますように。
佐々倉 真弓




