第89話 仏校大混乱
フランス滞在五日目。
朝の空気はひんやりとしており、石畳には昨夜の雨がわずかに残っていた。
燈由は寮の窓を開け、深く息を吸う。
◇
「……空気が違いますね」
◇
〈湿度、温度ともに東京と差異があります〉
脳内でイリスが即座に応答する。
◇
(風情という概念的な話です)
〈再定義します〉
◇
小さく息を吐き、制服に袖を通す。
この日もまた、慌ただしい一日が始まる予感がしていた。
◇
「Bonjour!」
食堂に入ると同時に、すでに声が飛ぶ。
◇
「……ボンジュール」
少し慣れた発音で返す燈由。
◇
「昨日の歌、すごかった!」
「動画めっちゃ広がってるよ!」
◇
(やはりですか)
〈拡散速度、想定以上です〉
◇
スマートフォンを見る。
そこにはすでに大量の通知。
◇
「……増えていますね」
◇
〈フォロワー数、急増中〉
◇
「帰国後が大変そうです」
◇
◇
午前の授業。
◇
だが――
何かがおかしい。
◇
視線。
明らかに多い。
◇
(観察対象になっていますね)
〈注目度、過去最大値〉
◇
そのとき。
教室の扉が勢いよく開く。
◇
「見つけた!」
◇
見知らぬ生徒たちが一斉に入ってくる。
◇
「サインください!」
「写真いいですか!?」
◇
(来ましたね)
〈予測通りです〉
◇
「……授業中です」
冷静に言う燈由。
◇
「五分だけ!」
「三分でもいい!」
◇
(時間交渉が始まりました)
〈優位に立っています〉
◇
「……二分」
◇
その一言で、歓声。
◇
◇
結果――
教室が即席サイン会場と化した。
◇
教師は苦笑い。
◇
(統制が取れていません)
〈人気の代償です〉
◇
◇
昼休み。
◇
中庭は、もはや人だかり。
◇
「すごい……」
「完全に有名人だ……」
◇
(自覚はあります)
◇
そのとき。
◇
「ちょっといいか」
低い声。
◇
振り向くと――
教師陣。
◇
「急で悪いが、お願いがある」
◇
(嫌な予感がします)
〈高確率で追加イベント〉
◇
「今日の午後、特別授業をやってもらえないか?」
◇
「……はい?」
◇
「テーマは自由だ」
「日本文化でも、演技でもいい」
◇
(範囲が広すぎます)
〈裁量権が大きいです〉
◇
「……わかりました」
◇
◇
午後。
講堂。
◇
予想以上の人数が集まっていた。
◇
(増えていますね)
〈全校規模です〉
◇
「……」
壇上に立つ燈由。
◇
(どうします)
〈複合型が最適です〉
◇
「では」
マイクを持つ。
◇
「演技と表現について、少し」
◇
静まり返る会場。
◇
「言葉だけでなく」
「視線、間、声の強弱」
◇
実演を交えながら説明する。
◇
「例えば――」
◇
同じ台詞を、違う感情で演じ分ける。
◇
ざわめき。
◇
「……おお……」
◇
さらに。
簡単な参加型演習。
◇
生徒たちが挑戦する。
◇
笑いと驚きが広がる。
◇
(成功しています)
〈非常に高評価〉
◇
最後に。
◇
「表現は、正解がありません」
◇
「だからこそ、面白いです」
◇
拍手。
大きな拍手。
◇
◇
終了後。
◇
控室に戻ると――
◇
「……疲れました」
椅子に座り込む。
◇
〈消耗度、中程度〉
◇
「体感は高いです」
◇
◇
そのとき。
スマートフォンが震える。
◇
樹
『なんか講演してるらしいな』
◇
英隆
『帰国後もやれ』
◇
「やりません」
即答。
◇
(情報が早すぎます)
〈監視されている可能性〉
◇
(否定してください)
〈冗談です〉
◇
◇
夜。
寮の部屋。
◇
窓の外には静かな街並み。
◇
「……本当に」
小さく呟く。
◇
「予想以上ですね」
◇
〈イベント密度が高すぎます〉
◇
「ですが」
◇
少しだけ笑う。
◇
「面白いです」
◇
〈肯定的感情、増加〉
◇
ベッドに横になる。
◇
目を閉じる直前。
◇
(明日は何が起きますかね)
◇
〈未定です〉
◇
(それが一番危険ですね)
◇
〈同意します〉
◇
静かな夜。
◇
だが――
嵐のような日々は、まだ続く。
◇
燈由のフランス留学は、
すでに“交流”の枠を超え、
ひとつの騒動へと発展していた。
◇
そしてその中心で、
彼女は今日も変わらず冷静に――
次の一手を考えているのだった。




