第87話 仏留学指名
五月初旬。
新緑が柔らかな陽光に揺れる頃、東京郊外にある星城学園中等部では、いつも通りの穏やかな昼休みが流れていた――はずだった。
だが、その静けさは一枚の書類によって崩される。
◇
「……指名、ですか?」
職員室。
担任教師の前で、燈由はわずかに首を傾げた。
「そうだ」
教師は真剣な表情で頷く。
「フランスの提携校からの交換留学要請だ。しかも――」
一拍置いて。
「君を名指しでな」
◇
「……なぜ、私が」
淡々とした声。
だがその内側では、冷静な分析が始まっていた。
◇
「理由は複数ある」
教師は書類をめくりながら説明する。
「まず、学業成績」
「次に、芸能活動による知名度」
「そして――国際交流の象徴としての適性」
◇
(要するに目立つからですね)
心の中で結論づける。
◇
その瞬間。
頭の奥に、いつもの声が響いた。
〈マスター、補足します〉
◇
イリス。
燈由の脳内で会話する存在。
外部端末ではなく、完全に思考の中で語りかけてくる。
◇
(どうぞ)
◇
〈本件は高確率で利益を生みます〉
〈語学能力の向上〉
〈国際的人脈の獲得〉
〈将来的収益機会の拡張〉
◇
(最後が本音ですね)
〈否定しません〉
◇
「どうする?」
教師が問いかける。
◇
「……期間は?」
「二週間程度だ」
◇
「学業への影響は」
「補習で対応可能だ」
◇
「……わかりました」
静かに息を吐く。
「お受けします」
◇
こうして、燈由のフランス交換留学が決定した。
◇
放課後。
中庭。
いつもの二人が待っていた。
◇
「で?」
腕を組んでいる樹。
「フランス行くらしいな」
◇
「はい」
◇
「指名とは大したものだな」
英隆が軽く笑う。
◇
「断る理由がありませんでしたので」
◇
「お前なら向こうでも普通にやれるだろ」
樹。
◇
(普通の定義とは)
◇
〈平均値からの逸脱が大きいため“普通”ではありません〉
◇
(ですよね)
◇
「フランス語はどうする?」
◇
「最低限は」
◇
〈サポートを行います〉
脳内でイリスが即答する。
◇
「頼もしいな」
英隆。
◇
「外付けチートだろそれ」
樹。
◇
「否定はしません」
◇
数日後。
出発当日。
東京の空港。
◇
「問題起こすなよ」
樹。
「起こしません」
◇
「むしろ巻き込まれるな」
英隆。
「努力します」
◇
軽いやり取りの後、燈由は搭乗口へと向かった。
◇
長いフライト。
そして――
異国の地へ到着する。
◇
石造りの街並み。
歴史ある建築。
空気の匂いすら違う。
◇
「……綺麗ですね」
思わず漏れる本音。
◇
〈観察対象として価値があります〉
◇
(風情という概念はありますか)
〈現在学習中です〉
◇
学校に到着。
出迎える生徒たち。
◇
「Bienvenue!」
歓迎の声が飛ぶ。
◇
「……ボンジュール」
少し慎重に返す燈由。
◇
その瞬間。
歓声が上がる。
◇
「本当に来た!」
「テレビで見た人だ!」
◇
(想定以上の認知度です)
〈想定内です〉
◇
交流会。
授業見学。
インタビュー。
◇
予定はぎっしり詰まっていた。
◇
「……忙しいですね」
◇
〈高密度なスケジュールです〉
◇
だが。
疲労の中にも、確かな充実感があった。
◇
夜。
寮の部屋。
◇
窓の外には、異国の夜景が広がっている。
◇
「……悪くありません」
ぽつりと呟く。
◇
〈肯定的評価を確認〉
◇
そのとき。
スマートフォンが震える。
◇
樹
『生きてるか』
◇
英隆
『迷子になるなよ』
◇
「なりません」
小さく返す。
◇
(……でも)
◇
〈何ですか〉
◇
(少しだけ、新鮮です)
◇
〈成長機会です〉
◇
静かな会話。
それは誰にも聞こえない。
◇
だが確かに――
燈由の内側で、世界は広がっていた。
◇
新しい場所。
新しい出会い。
新しい可能性。
◇
そして。
それを共に見つめる存在がいる。
◇
〈マスター〉
◇
(はい)
◇
〈次の行動を最適化します〉
◇
わずかに微笑む。
◇
その瞳は、すでに次を見据えていた。
◇
燈由の挑戦は、
国境を越え、さらに加速していくのだった。




