第85話 法廷撮影日誌
四月下旬。
朝の東京は、まだひんやりとした空気を残していた。
だが、その静けさとは裏腹に――
とある撮影現場は、すでに慌ただしく動き出していた。
◇
「機材搬入急いでください!」
「照明チェック入ります!」
「次のシーン、リハいけますか!?」
スタッフの声が飛び交う。
そこは、実際の裁判所を模した大型スタジオ。
春ドラマの要となる“法廷シーン”の撮影日だった。
◇
その中心に立つのは――
燈由。
新人弁護士役として出演する彼女は、すでに衣装に身を包んでいた。
黒のスーツ。
きっちりと整えられた髪。
普段の学生服とはまるで違う、引き締まった空気をまとっている。
◇
「燈由さん、今日のシーン確認です」
台本を持ったスタッフが近づく。
「はい」
静かに受け取る燈由。
◇
本日の撮影内容。
それは――
物語中盤の山場。
被告の無実を証明するため、証人の証言を崩しにかかる重要な法廷シーン。
台詞量は、シリーズ最多。
しかも一つでも間違えれば流れが崩れる、緊張感の高い場面だ。
◇
「大丈夫か?」
共演者が声をかける。
「問題ありません」
即答。
だがその直後。
ほんのわずかに、台本を握る手に力が入る。
◇
(……大丈夫)
心の中で、短く言い聞かせる。
◇
そのとき。
ポケットの中の端末が、かすかに震えた。
――表示された文字。
〈マスター、心拍数が上昇しています〉
◇
イリス。
常に燈由をサポートする存在。
脳内ではなく、今回は端末のテキスト表示で語りかけてくる。
◇
(緊張はしていません)
心の中で返す。
〈客観的に否定します〉
◇
(……少しだけです)
〈許容範囲内です。集中力は高い状態です〉
◇
わずかに口元が緩む。
それだけで、呼吸が整う。
◇
「本番いきます!」
監督の声。
現場の空気が一瞬で引き締まる。
◇
カメラが回る。
照明が当たる。
静寂。
◇
「……異議があります」
燈由の声が響く。
それはもう、“中学生”のものではない。
完全に、役の中の弁護士の声だった。
◇
証人を見据える視線。
言葉の選び方。
間の取り方。
すべてが計算されている。
◇
「その証言には、明確な矛盾があります」
淡々と。
しかし確実に、相手を追い詰めていく。
◇
現場の空気が変わる。
スタッフも、共演者も、思わず息を呑む。
◇
「……以上です」
最後の一言。
沈黙。
◇
「――カット!!」
監督の声が響いた瞬間。
張り詰めていた空気が一気に解ける。
◇
「いい! すごくいい!」
監督が立ち上がる。
「今の、完璧だ!」
◇
周囲からも拍手。
「すごい……」
「鳥肌立った……」
◇
「……ありがとうございます」
軽く頭を下げる燈由。
だが内心では。
(噛まずに言えました……)
という、地味な達成感。
◇
〈マスター、成功です〉
イリスの表示。
〈成功率98.7%〉
(残り1.3%は?)
〈さらなる向上余地です〉
◇
「厳しいですね」
小さく呟く。
◇
撮影の合間。
控室。
椅子に腰掛け、軽く息を吐く。
◇
(疲れました)
〈正常です〉
◇
そのとき。
スマートフォンに通知。
画面を見ると――
樹からのメッセージ。
『今の撮影どうだ?』
続いて。
英隆。
『失敗するなよ』
◇
(プレッシャーをかけてきますね)
〈通常運転です〉
◇
『問題ありません』
とだけ返信する。
◇
数秒後。
『つまらん』
『もっと面白い報告をしろ』
◇
「要求が高いですね……」
思わずため息。
◇
再び現場へ戻る。
次のシーンの準備が進んでいる。
◇
「燈由さん、次いけますか?」
「はい」
◇
その一歩。
それは日常から非日常へ踏み込む境界線。
◇
だが彼女にとっては、どちらも“自分の居場所”だった。
◇
カメラが回る。
再び、弁護士としての顔になる。
◇
〈マスター〉
イリスの文字が浮かぶ。
〈次のシーンも最適解で行動を〉
◇
(了解です)
◇
静かに息を吸う。
そして――
次の台詞が紡がれる。
◇
その姿は、もはやただの学生ではない。
プロとして現場に立つ、一人の表現者。
◇
春の光がスタジオの外で揺れる中。
燈由の戦いは、今日も続いていくのだった。




