第41話 中学受験
器物破損娘との最初のトラブルは、受験当日――あのピリピリと張り詰めた試験会場の教室で起きた。
私は開始時刻よりも少し早めに教室へ入り、指定された席に座った。
周囲は最後の確認に必死な受験生ばかり。単語帳をめくる音、参考書のページを繰る音、鉛筆を走らせる音。
そんな中で私は、鞄から一冊のラノベを取り出した。
別にふざけているわけではない。
直前に詰め込んでも意味はないと分かっているし、イリスと積み上げてきた学習量に不安はなかった。むしろリラックスするほうが合理的だ。
〈緊張緩和には有効です〉
「でしょ?」
物語に集中していた、その時だった。
「ちょっと!」
鋭い声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、眼鏡をかけた真面目そうな女子が立っていた。きっちりとまとめた髪、背筋を伸ばした姿勢。いかにも“努力家”という雰囲気。
「ここは受験会場よ? 冷やかしなら帰ってくれる?」
教室の空気が、ぴたりと止まる。
私は本を閉じ、彼女を見上げた。
「私も受験者なんだけど。」
「真面目な受験生が試験前にラノベなんて読むはずないでしょ!」
声が大きい。周囲の視線が一斉に集まる。
「どうせ話題作りの記念受験なんでしょ? 芸能人が目立ちたいだけで来るなんて迷惑なの!」
ああ、なるほど。
彼女は最初から私を敵認定していたらしい。
私は眉間に皺を寄せながらも、冷静に言った。
「話題作りなら、わざわざこんな倍率の高い学校受けないわよ。」
「嘘よ! 本気なら今だって勉強してるはず!」
私は少しだけため息をついた。
「私、ここを首席で入学して首席で卒業する予定なの。あなたに噛み付く暇があるなら、自分の勉強をしたら?」
彼女の頬が真っ赤になる。
「なっ……!」
「他人を蹴落としてでも合格したいって気概は嫌いじゃない。でも衆人環視で騒ぐのは逆効果よ。」
完全に火に油だった。
彼女は私の手からラノベを奪い取った。
「ふざけないでっ!」
ビリッ。
乾いた音とともに、初版本のラノベは真っ二つになった。
一瞬、頭が真っ白になる。
〈器物損壊行為を確認〉
イリスの冷静な声が、逆に現実感を与えた。
私はゆっくり立ち上がった。
「刑法第二百六十一条。器物損壊罪。他人の物を損壊した者は三年以下の拘禁刑または三十万円以下の罰金。」
教室がざわめく。
「あなた、今それをやったの。」
「な、何よ……脅迫!?」
「事実の説明よ。今ここで110番してもいいのよ?」
彼女は明らかに動揺した。
けれど謝罪はなかった。
「……あんたなんか落ちればいいのよ!」
破られた本を私に投げつけ、彼女は自席へ戻った。
私は破れたページを拾いながら、母に状況をメールで報告した。
◇ ◇ ◇
試験終了後、私は学園側へ事情を説明した。
監督教員も騒ぎは把握していたため、すぐに別室で聞き取りが行われた。
彼女は最初、
「挑発された」
「精神的に追い詰められた」
と主張したらしい。
だが、周囲の受験生の証言と、教室内の簡易監視カメラ映像で事実は明白だった。
その日のうちに、双方の保護者同席で話し合い。
彼女は泣きながら謝罪し、母親も形式的に頭を下げた。
父親は終始無言。
私は示談に応じた。
本の弁償と謝罪文提出という条件で。
受験に集中したかったし、これ以上騒ぎを大きくしたくなかったからだ。
――その判断が甘かった。
◇ ◇ ◇
合格発表後。
私が首席合格したというニュースが出ると、状況は一変した。
彼女は不合格だった。
そこから、嫌がらせが始まった。
SNSへの匿名書き込み。
「出来レース」
「裏口入学」
「性格最悪」
さらには自宅周辺での待ち伏せ。
最初は無視していた。
けれどある日、帰宅途中に突然腕を掴まれた。
「なんであんたが受かるのよ!」
目は血走り、明らかに正常な状態ではない。
「努力したからよ。」
冷静に答えた瞬間、彼女は鞄を振り上げた。
私は反射的に避けたが、バッグが地面に叩きつけられる。
その場で通報。
警察が到着し、事情聴取。
驚いたのは、彼女の母親まで現れ、
「うちの娘を追い詰めたのはそっちだ」
と主張したことだった。
完全に親子で暴走していた。
結果、二人は一時的に保護(事実上の収容)された。
その後、父親から正式に示談の申し込みがあった。
弁護士を通じての交渉。
私の弁護士は言った。
「ここで徹底的に追い詰めれば、相手はさらに暴走する可能性がある。」
最終的に、接近禁止・SNS投稿削除・賠償金支払いを条件とした示談に落ち着いた。
私は納得したわけではない。
けれど、これ以上時間を奪われるのは無駄だと思った。
◇ ◇ ◇
後から聞いた話では、彼女は元々成績優秀で、家族からも大きな期待をかけられていたらしい。
そのプレッシャーが、私という“分かりやすい敵”を見つけたことで爆発した。
正直、同情は少しだけある。
けれど。
他人の物を壊していい理由にはならない。
他人を攻撃していい理由にもならない。
あの出来事で私は一つ学んだ。
人間関係は、ダンジョンよりも厄介だ。
モンスターはルール通りに動く。
人間は感情で暴走する。
だからこそ私は、強くなる。
学力でも。
戦闘力でも。
精神力でも。
次に同じような相手が現れても、揺らがないように。
あの器物破損娘とのトラブルは、
私にとって最初の“対人戦”だったのかもしれない。




