檸檬の苦味
初夏の風は青葉の香りを運んできて自然の息吹を感じさせる。朝の鍛練を終えた仁梧は、ほしみと一緒に母屋の庭を歩いていた。ここ最近は十二辰星の力を次々と開花させているお陰で、家の者達の評価はがらりと変わった。喜ぶべき事だというのに、仁梧の心は青く澄み切った空のように晴れやかとは言い難かった。
浮かない表情の彼女を心配したのだろう。足元にいたほしみは、ぴょんと軽やかな動きで仁梧の肩に乗った。急に肩に感じた重みに、仁梧の体は思わず傾く。
「ど、どうしたのほしみ?」
〈ここの奴らってホントに現金だよね。仁梧が"使える"ってわかった途端、掌を返して擦り寄っちゃってさ。仁梧の側にいるのは僕だけでいいのに〉
「ほしみ…」
〈昨日の妖祓い、また新しい星の力を手に入れたんだってね〉
「…ええ」
〈嬉しくないの?〉
ゆらゆらと二本の尻尾を揺らすほしみに、苦笑いを返す。
「今までの私は結界を張ったり妖を誘い出したり、補佐役ばかりだったでしょう?それが自分の手でも禍を祓えるようになって、正直嬉しいよりも戸惑いの方が大きいの。自分に、誰かを傷つける力が宿ってるんだって、そう思うととても怖い」
〈ふぅん。仁梧らしいね。僕は嬉しいけどな〉
「え?」
〈だって、仁梧が力をつければ危険な目に遭う事もなくなっていくって事でしょ?ここの奴らと同じにはなりたくないけど、そういう意味では僕は仁梧が十二辰星を極める事には賛成だよ〉
「そう…ね。ほしみが言うなら、そうかもしれないわ」
〈そうそう!僕が言うんだから間違いないよ!〉
ごろごろと喉を鳴らして頬に擦り寄るほしみは、誰の目から見てもご機嫌だ。
「…ねぇ、ほしみ」
〈何だい?〉
「…ううん、何でもないわ」
仁梧にはもう一つ気がかりな事があった。ここのところ、ほしみから感じる妖気が強くなっている気がするのだ。霊力の強い人間の側に長くいると、たとえ"見えて"いなかった人間でも異形の姿を捉えられるようになる事がある。
だとすると、ほしみも自分の影響を受けているのだろうか。妖気が弱いからと見逃してもらっていたのが、もしもこのまま禍に至るまでになってしまったら…
(もしそうなっても、ほしみは私が守ってみせる)
自分の中でざわつく星を感じながら、仁梧は秘かに決意するのだった。
*
穏やかな音楽が店内に流れている。周囲には自分と同じ年頃と思われる少女達が楽しげに会話を弾ませ、目の前では透が涼しげにカップを傾けていた。
「やっぱこういう所は慣れねぇか?」
「は、い…何と言うか、とても浮いているような気がします」
「まあ、流行りのカフェに着物姿で来る若い女の子はそういないわな」
居心地悪そうに裾を引っ張る仁梧に、透は苦笑する。淡い水色の着物は物静かな仁梧によく似合っている。いつも一つに纏めている髪は今日はハーフアップに結い上げ、銀色のシンプルな簪を差していた。
何故真っ昼間からこんな所で透と二人でいるのかというと、透から誘いを受けたのだ。
─たまには息抜きしようぜ
露払いの自分に息抜きなどという言葉は必要ないと思っていた。それを許されるとも思っていなかった。けれど、最近の働きのお陰なのか椋礼は外出を許可してくれた。あの厳格な父が透を信用するような態度を取った事に、仁梧だけでなく和梧も驚いていた。
しかし、それも家を出る直前に呼び出され言われた一言で全てが腑に落ちた。
─禍環会について典祓庁がどこまで掴んでいるのか、あの男から探ってくるのだ
要するにスパイの真似事をしろと、そういう事だ。そんな駆け引きのような事が自分にできるとも思えないというのに、一体どうしろというのか。
困り果てている仁梧の前に、かちゃりと陶器の音を立ててケーキの皿が置かれる。
「え?」
「俺からのサービスだよ。ここの名物なんだとさ」
食べてみ?と促され、そろそろとフォークをケーキに入れる。初めて見る食べ物にどきどきしながら口に運ぶと、爽やかな檸檬の風味が口の中に広がった。
「…美味しい」
「な?」
思わず零れた感想に屈託のない笑みが向けられる。その笑顔を見ていると、きゅっと胸が苦しくなるのがわかった。
「透さん、は…どうしてそんなに私に良くしてくれるんですか?」
「"可愛い女の子には楽をさせよ"が俺の信条なんでね」
「真面目に聞いてるんです」
揶揄うように言われて、仁梧は小さく眉を寄せる。
「嘘じゃねぇよ。どの道、俺が言霊を使って君を翻弄しようとしたところで効かないだろ?」
「じゃあ、どうしてそんなに優しい言葉が簡単に出てくるんですか?」
「仕事柄、口が上手くないとやってられねぇんだよ」
「やっぱり、これもお仕事という事なんですね」
「あ、嘘嘘。つか、今の誘導尋問は反則だろ」
どこか慌てたように否定する透の姿は新鮮で、仁梧は自然と込み上げてきた笑いに従いくすくすと声を漏らした。それを見た透は、罰が悪そうに頭を掻く。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに。仁梧はそう思った。初めて入った店で、初めてケーキを食べて、初めて穏やかな気持ちで満たされた。
だからこそ、父の言葉を思い出して檸檬の甘酸っぱい香りに泣きそうになった。
*
「随分と時間がかかっているようだな」
上官からの言葉に深緑の目がすっと細められる。
「結構上手く立ち回ってるでしょう?切原元典佐の件、それと清澄大神の件で少なくとも双子自身の信用は得られましたよ」
「その双子についてだが、いつになったら影前をこちらへ引き込める?」
「なにぶん、妖祓い以外で外に出た事のない世間知らずのご令嬢なんでね。言霊も効きませんし、なかなか骨が折れますよ。いっそ御前の方を攻めた方が楽な気もしますけどね」
「いや、引き込むなら影前だ。この数ヶ月の彼女の成長には目を瞠るものがある。同時に、今までサポート役だった人間が力を持つというのは、政府としては危険視せざるを得ない。"二十五番目の存在"に関わる運命の双子ならば、余計にな。どんな手を使っても構わん。影前を抱き込め」
その時、天井のダクトから何かが動くのが見えた。
「…そんなに怯える事ないと思いますけどね。まあ、政府の為に働いている身としてはこれ以上その政府の中に裏切り者がいない事の方を祈るばかりですよ。影前には引き続き接触を続けます」
「期待しているぞ、界野"典監"」
「はっ」
一瞬だけ瞳を揺らしたが、透はいつもとは違う機敏な動きで敬礼をした。
一礼し、部屋を出て廊下を歩こうとした足を止める。
「おっと、いけねぇいけねぇ」
そう言いながら制服の肩章に手をかける。紫の生地だったそれをひっくり返すと、いつも通りの灰色の生地の徽章が姿を現す。両肩ともひっくり返したのを確認し、透はその場を去っていった。
完全に姿が見えなくなったところで、部屋の奥の曲がり角から人影が現れる。
「…」
〈主…〉
動揺を隠せない自分をミミが気遣わしげに見上げる。
「典監…諜報局の幹部…?あいつが…?」
和梧の脳裏には、今までの透とのやりとりが蘇る。いつから?いつから彼は諜報員としての任務を抱えていたのだろうか。清澄大神の件から?特別チームを組んだ時から?それとも、交渉役として接触してきた時から?
「…ミミ」
〈はいですの〉
「この事は仁梧には言わないで。絶対に」
〈わかりましたの。他のみんなにも伝えておきますの〉
─透さんがケーキというものをご馳走してくれたの。とても美味しかったわ
「…馬鹿」
嬉しそうに報告してきた妹の事を想い、片手で顔を覆ったまま天井を仰いだ。




