初雪の追憶
〈大丈夫かい、仁梧?〉
顔を覗き込まれ、はっと我に返る。周りを見回すが、片割れの姿はもうここにはなかった。
「平気、よ」
〈平気な人間はそんな顔しないと思うけどね〉
「本当に平気。ほしみこそ、あんな事を言われて傷ついたでしょう?」
─仲間外れの猫助
─お前が祓われずに影前の側にいる事を許されているのは、お前が祓うに値しないようなちっぽけな存在だからだ。よりによってこの家で生かされている有り難みをもっと噛み締めろよ
〈あれが?まさか。猫は十二支に選ばれなかったなんてお伽話、気にしてる猫の方が少ないよ。ま、その十二支の力を開祖が持ってたからってだけで猫に対する偏見が激しいこの家の居心地が良くないのは認めるけどさ〉
「ごめんなさい」
〈だから仁梧が謝る事じゃないんだってば!〉
しょぼんとする仁梧の頭を撫でるように前足で引っ掻きながら、自分は大丈夫だと伝える。
その昔、天帝が"一月一日の朝に自分の元へ早く辿り着いた十二の動物を一番から順に一年の大将とする"と動物達にお触れを出した。しかし、天帝の言葉を聞きそびれてしまった猫は鼠から集まる日付は一月二日だと伝えられ、それを信じたが故に十二支には選ばれなかったという。
ほしみの言う通り、これは根拠のないお伽話で後付けの物語だ。けれど、双御祖を崇拝する祓戸家では十二支に入っていない猫は侮蔑の対象なのである。ほしみからすれば、とんだ巻き込み事故と言える。
一頻り仁梧の頭を撫でると、ほしみはぴょんと廊下へ飛び下りてこちらを見上げる。
〈この家の連中は最悪だけど、仁梧の側は居心地がいいんだ。そうじゃなきゃ、あの時さっさと立ち去っているよ〉
ふわりと両者の間に風が吹く。それに流される髪を押さえながらふと思い出す。
(ああ、あの時もこんな風に冷たい風が吹いていたっけ)
すっかり冬の装いを纏った空を見上げ、仁梧は懐かしそうに目を細めた。
*
(さむいなぁ)
はぁと息を吐きかけ、手を擦り合わせる。冬の水仕事は身に沁みるが、神聖な道場は常に綺麗に磨いておかなければならないときつく言われている。鍛練を終えた時に掻いていた汗はとうの昔に乾き、ぽかぽかしていた体はすっかり冷え切っていた。
「あ…ゆき」
ちらちらと降る白い結晶を見上げる。初雪である。道理で寒い筈だ。
ぎゅっと雑巾を絞り、両手でバケツを持ち上げる。小さな体には少し大きく、中に入っていた水がちゃぷちゃぷと揺れた。
「よい…っしょ」
ふらふらとよろけながら、母屋へ繋がる廊下へ出る。だが、一歩踏み出したところでぴたりと立ち止まった。
「?」
何だろうか。何かいつもと違う感覚がする。正体のわからない違和感に辺りを見回すが、目に入ってくるのは廊下に面した庭の風景だけだ。
その時、仁梧は植え込みの陰に何かがいるのを見つけた。
(なんだろう)
草履を履いて庭に出る。恐る恐る植え込みを覗き込むと…
〈みぃ…〉
「…ねこ?」
そこにいたのは、寒さに震える小さな猫又だった。よく見れば後ろ足に怪我をしており、微かに妖気は感じるものの非常に弱っているようだ。
猫又は体を丸め、弱々しくこちらを見上げている。その姿に庇護欲を掻き立てられた仁梧は、そっと手を伸ばして言った。
「だいじょうぶ?」
〈…〉
金色の目がゆらりと揺れる。ゆっくりと背中に触れると、僅かに温もりを感じた。噛みつかれるか引っ掻かれるかするかと思ったが、意外にも何もない。それどころか、優しく抱き上げると擦り寄るように顔を押しつけられ、仁梧の口許は自然と緩んだ。
(…あれ?)
そこで仁梧はある事に気づく。何故魍であるこの猫又が屋敷の敷地内にいるのだろう、と。その時だった。
ひゅっと風切り音がしたかと思うと、頬に鋭い痛みが走る。
「いた…っ」
勢いで尻餅をついた体勢のまま頬を触ると、ぬるっとした感触が手に絡んだ。
「え…」
視線を落とすと、真っ赤に染まった手が。そして地面にぽたぽたと赤い雫がいくつも落ちていく。
〈ギイッ、ギイッ〉
「!」
何かが軋むような声にはっと顔を上げると、自分の背丈と同じくらいの魍が鋭い爪と牙を光らせてこちらを見ていた。仁梧はそこで初めて、猫又の傷の原因を知った。
(っ、どうして…)
仁梧は今度こそ困惑した。屋敷には異形を寄せつけない為の結界が張ってある。巡回の人間だっている筈だ。ここは離れとはいえ、今まで禍はおろか霊の一体も入り込んだ事はなかった。
今の自分に祓える相手ではない。ようやく房宿を習得し、和梧の妖祓いを見学させてもらえるようになったばかりだ。何より、想像だにしていなかったこの状況に頭は完全にパニックを起こしている。
どうすればいいのか。逃げたくとも、恐怖で体は固まっている。助けを呼びたくとも、喉は引き攣って声は出そうにない。露払いとして死ぬ覚悟は叩き込まれているが、今ここに和梧はいない。ここで死んだところでただの犬死にだ。
自分が何もできない事を悟っているのだろう。魍はにたりと不気味な笑みを浮かべ、腕を大きく振り上げる。もう駄目だと強く目を瞑った次の瞬間…
〈ギャッ〉
悲鳴のようなものが聞こえたが、いつまで経っても襲われる気配がない。不思議に思いながらそっと目を開くと、すぐ目の前にあの猫又がいた。
そのまま視線を前にずらした先には、片目から血を流している魍が苦しげにのたうち回っている。
〈フーッ、フーッ〉
猫又は毛を逆立てて魍を威嚇している。魍を攻撃したのが誰か、わからないほど愚かではなかった。
しかし、仁梧にはこの状況をどう捉えていいかわからなかった。まさか、守ってくれようとしているのだろうか。妖気は小さいとはいえ、猫又とて魍の一種だ。人間の、それも妖を祓う側の自分を庇う理由などないだろうに。
「どうして…」
〈ギャギャッ、ギイィッ〉
「!」
怒り狂ったような魍の鳴き声が辺りに響き渡る。それに臆する事なく立ち向かおうとする猫又に、仁梧は咄嗟に声をかけた。
「ま、まって!あなたのかなうあいてじゃ…」
〈黙ってろよ。死にたくないだろ〉
幼い少年のような声が聞こえ、口を噤む。状況から察するに、声の主は猫又のものだ。言葉を話す魍に出会った事がなかった仁梧は、目をぱちぱちとさせた。
〈ギイッ、ギイッ、ギャアア!〉
〈っ、この…っ〉
それからの事はあまり覚えていない。ただ、自分の代わりに自身の何倍もあるであろう大きさの敵を相手に必死に戦う猫又の姿を呆然と見ている事しかできなかった。
*
〈仁梧?またぼーっとしてどうしたの?〉
「ほしみと初めて会った時の事を思い出していたの」
〈僕と?〉
きょとんとするほしみに、持っていたバケツを置いて膝をつく。
「あの時もほしみは私の事を守る為に魍と戦ってくれたでしょう?お陰で私は家の人が異変に気づくまで無事でいられたわ」
〈ああ、そんな事もあったっけ?気にしないでよ。元はと言えば、僕があの魍から逃げる為にこの屋敷に入り込んだのが原因だったんだから〉
「それでも、私はほしみに救われたわ」
〈それを言うなら、仁梧こそ僕を庇ってここに置いてもらえるよう当主にお願いしてくれたじゃないか。お相子ってやつだよ〉
涙ながらに父に懇願する姿を思い出したのか、ほしみは肩を竦める。そうして当たり前に当たり前をくれる存在がいなかった仁梧にとって、ほしみとの出会いがどれほど彼女の心を軽くしてくれたか、きっとほしみは思いもしないのだろう。
〈あ…〉
「え?」
耳をぴんと立て、空を見上げるほしみにつられるように仁梧も空を仰ぐ。ふわふわと舞う白い初雪。思い出と同じ光景に、口端が上がるのがわかった。
(そういえば…)
あの時は一生懸命で考えが及ばなかったが、何故屋敷に魍が入り込めたのだろう。
─ 子の れか にい きっ が る ろう
記憶の奥底で聞こえたあの声が一体誰のものだったのか。今更浮かんだ疑問に、ざわりと胸騒ぎがした。




