檻の家
私はフラフラと街を歩いていた
夏の夜
薄手の服で、女性一人で歩いているのは
危険だとわかっていた
どこに行く宛もなかった
でも、帰る宛はもっとなかった
帰るところがないというのは
こんなにも心細いものなのだと
嫌というほど分かった
気がつくと
私は、誰もいない公園にいた
公園は高台にあって
端っこは崖みたいになっていた
下を見ると
目がくらみそうだった
――ココカラオチレバ
モウ
ナグラレズニスム
ふらりと
私は柵に手をかけていた
突然、腕を掴まれる
はっと我に返って振り返ると
そこには
夜の公園の闇に溶け込みそうなほどの黒いスーツに
かろうじて黒ではない濃紺のネクタイを締めた青年がいた
青年は少し息が切れている
私が飛び降りようとしたのにびっくりして
止めてくれたようだった
「すいません…」
私は目を伏せて謝った
どうしてこんなことをしようとしたのだろうか
自分でもよくわからない
胸の中がぐにゃぐにゃで
心がちゃんとしていなかった
そのときに
ふと、闇が
私を呼んだ
みたいだった
「あぶないですよ」
青年は手を離さずに言った
「もう、大丈夫です」
私は青年の腕をそっと解いた
大丈夫、
今のは一時の迷い
でも…
「どうしたんですか?何か、わけがありますか?」
青年は率直に尋ねた
その瞬間、
私の中でこみ上げてくるものがあった
誰にも言えなかったことだった
夫はひどい暴力を振るう
髪の毛を引っぱり
包丁を振りかざし
気に入らないことがあれば
すぐに引き倒され
壁にひどく打ち付けられる
暴言を吐く
役立たずだと、タダ飯ぐらいだと
無能だと
馬鹿だと
死んでしまえと
お前が俺をいらいらさせるのがいけないと
私がいけないのだ
ワタシガイケナイノダ
ワタシがヒトナミのツマでないのが
オットをあんなフウにしてしまっているのだ
ワタシガイケナイノダ
私は話しながら頭を抱えていた
どうしようもない
どうしようもない
どうしようもない
叫んでいいのか、
泣いていいのか
狂っていいのか
家に帰るのも怖い
帰らないのも怖い
私は ボロボロだった
青年はずっと話を聞いていた
憐れむこともしなかった
励ますこともしなかった
助言をするわけでもなかった
ただ、黙っていた
黙っていることが
なぜだか救いに感じた
話したら
「あなたにも落ち度があるのでは?」
「そんなにひどいことをされる理由があるはず」
そう言って責められると思っていたから
かもしれない
私は役立たずだから
無能だから
馬鹿だから…
話をしていて、
気がつくと
私は叫んでいた
青年がそっと背中に触れた
ビクッと震えると
慌てて
「背中に触っていいですか?」
と、言った。
そうして、今度は、ことさらゆっくり
ほんとうにそっとそっと、触れてくれた
「どこか痛くないですか?」
その言葉が、何故か、胸に落ちて
暖かく感じた
しばらく嗚咽が止まらなかった。
口を抑えて、必死に我慢したけど、
止めることができなかった。
「お医者さんに、行きますか?」
青年が言うことは、別に何ら特別じゃなかった。
でも…それでも…
私に…私という人に話をしてくれている
気にかけてくれている
そう…そうだった…
私は人…だった
ああああああああああああああああ
口から叫びが溢れた
苦しみが溢れた
そうして、何時間たったかわからない
叫び狂う私のそばに、
その青年はずっといてくれた
気がつくと、
私は警察官に保護されていた
夜中に
公園で叫んでいたということで
通報されたらしい
警察官は不思議と私の事情を知っていた
私は話した覚えがないのに、
もっと不思議だったのは
警察官も私から聞いたわけではないというのだ
誰から聞いたのか分からないが、
知っていたということだった
警察官が色々行政的な手続きを取ってくれた
私はシェルターに住むことになって
子供たちもすぐに保護された
そして、
夫には、裁判所から接近停止命令が下った
あっという間に時間が流れ、
正直、その時のことはよく覚えていない
そして今…
私の目の前で子どもたちは楽しそうに遊んでいる
明日、私は仕事に行く
子供を保育園に送って
仕事から帰ったら迎えに行って
その後、家に帰る
帰れる家がある
帰っていい家がある
さあ、子どもたちを連れて、家に帰ろう
子どもを連れ立って歩く
ふと、黒いスーツの青年とすれ違う
青年は子どもたちを見て微笑んだようだった
子どもが好きなのだろうか…?
なぜだか、その青年を見たとき、
私は、泣き出したくなっていた




