9歳の少年
世界は狂っていた
ボクが狂っていないのであれば
狂っているのは世界だ
生まれたときから
ずっとつま先立ちで歩いていた
背伸びをし続けることを要求される
3歳で受験をした
お母さんが言うには有名な幼稚園らしい
ソコに入れば、有名な小学校に行ける
有名な小学校から有名な中学校に入ることが大事だった
幼稚園の頃から「ジュク」に行っている
「ナライゴト」もたくさんだった
ナライゴトは楽しいときもあったけれど、
受験が終われば、また別の「ヒツヨウ」な「ナライゴト」が始まった
自分が今できる以上がいつも目標だった
お父さんはいつも言う
「自分に勝たなければダメだ」
って
一体誰と競争しているかわからないままに
ボクはつま先立ちの全力疾走をしていた
朝はいつも眠たかった
ゆっくりした記憶はなかった
自分ができているのかすらわからなかった
できないのは、努力が足りないからだった
点数がすぐに出るので、
努力がたりないことはすぐに見て取れた
努力、努力、努力
友達にはもっとデキる子がたくさんいる
お母さんは、言葉の端々で、その子とボクを比べた
ボクはいつも努力が足りなかったのだ
ある時
ボクは、辞めたくなった
「ボク」を辞めたくなった
ボクは、ボクを辞めたかったけれど
どうしたら良いかわからなかった
ここから逃げ出せばいいのだろうか
明日、学校に行かなければいいのだろうか
それとも、眠ったまま目を覚まさなければいいのだろうか
「眠ったまま目を覚まさない」
というのは
とても魅力的だった
ずっと眠っていたかったのだ
何十時間も、休みたかった
そんなことをぼんやり考えながら
ジュクへの道を歩いていた
今日はジュクのテストだった
90点以上が「目標」だった
でも、勉強していない
ガシッと ボクは突然腕を掴まれた
驚いて振り向くと、真っ黒いスーツを着た男の人が
ボクの腕を掴んでいる
男の人は優しそうな顔をしていた
誰だろう、と思った時、
ボクは、自分が歩道から
車がビュンビュン走っている車道に
踏み出そうとしていたことに気がついた
「危ないよ」
男の人はボクに言った
なんだか掴まれたところが
とても温かかった
その男の人は不思議な人で
ボクがジュクに行くまで送ってくれた
ボクがまた、道路に飛び出さないか心配だというのだ
ボクを何処かに連れて行こうというわけではなさそうだったし、
ただついてくるだけなので、
ボクは別に誰にも何も言わなかった
それ以来、その男の人は、なんだかよく会うようになった
学校の帰りに声をかけられたり
ジュクに行くときに会ったり
昼間でも、夜でも、よくその人に会うようになった
会っても別に何を話すわけではなかった
男の人は挨拶をして、
「元気?」
とか、言うのだ。
ボクは別に元気ではなかったので
「あんまり」
と答えた。
男の人は
「それはいけないね」などと言う。
あるとき、ボクは、その男の人に、ボクの気持ちを話した。
「ボク、ずっと眠ったままになりたいんだ」
誰にも言わなかったのだけど、この男の人には言っても良さそうだと思った
きっと、他の人に言ったら、びっくりして大騒ぎしそうだと思うから
なんでかわからないけど、
この男の人は、そうはならないと思った。
「知っていたよ」
男の人はボクの頭に手をおいた。
「知っていたから、来たんだよ」
男の人はゆっくりとしゃがんで
ボクの顔を見つめた
「どうしようかね」
ボクは、ちょっと意味がわからなかった
どうしよう、って?
しばらく考えてから、ああそうか
と思った
この人は、ボクの意見を聞いているんだ
ボクは⋯⋯
言おうとして、ボクは全然言いたいことが浮かばないことに気がついた
なんだか、ボクの意見を聞かれたのって
初めてな気がする
いつも、聞かれていたのは「セイカイ」ばかりだった
この問題のセイカイは?
この質問へのセイカイは?
でも、この男の人は
ボクのことを聞きたがったのだ
そして、ボクの気持ちだったら
なんでも正解だった
そんなことは初めてだった
ちょっと長い時間考えて、
ボクはやっと自分の気持ちが分かった
「ぼくは、授業も塾もないところに行きたい。
ちょっと、お休みしたいんだ」
男の人はにっこり笑った
「そうか、じゃあ、僕は君を誘拐しちゃおうかな」
ぼくはちょっと驚いたけど、うん、と頷いたと思う。
それから一週間くらい、ぼくと男の人は一緒にいた。
その間、たくさん寝たし
だいぶ遊んだ
TVもいっぱい見たし、
公園でいっぱい走ったりした
急かされないこと
比べられないこと
点数がつかないことは
初めてだった
ぼくはだいぶ元気になった
ある日、男の人はぼくに言った
「そろそろ家に帰ろう」
そう言われて、ぼくはふと、胸が詰まるように感じた
家には帰らなければいけないと思うけど
あんな風に、また走れるだろうか?
と
男の人は困ったように笑いながら
「でも、もう、時間なんだ」
と言って、不思議な話をし始めた
「神様が決められたこと。もうすぐ、君は僕のことを忘れてしまう。
そうなる前に、家に戻らないといけないからね」
ぼくは意味がわからなかった。
ぼくが忘れる、なんて、なんでこの人が言えるのだろう。
忘れないかもしれないし、
忘れないと思うのに。
でも、男の人は至極まじめな顔つきで、ぼくの目を見て言った。
「僕は、ずっと君のそばにはいられないんだ。
神様がそうお決めになったんだ。
だから、もう君は一人で歩かなくてはいけない。
でも、大丈夫。
もしも、また道に迷ったり、ひどく困ったりしたら
絶対に、助けに来るから。」
男の人は小指を出した。
ぼくは黙って指切りをした。
困ったら、誰かが助けてくれると思えることも
難しいことでも、ぼくがわかると思って話してくれていると思えたことも
ぼくにとっては、初めてだった。
ぼくは10日ぶりに家に戻った。
お父さんやお母さんは警察にも連絡して、ぼくのことを探していたらしい。
男の人がぼくを連れてきた時、警察の人が男の人を捕まえようとした。
男の人は何も言わずに捕まった。
ぼくは心配になって、男の人を見たけれど、
男の人はゆっくりと笑っていた。
お父さんとお母さんはぼくを抱きしめて、涙を流している。
ぼくは少し深呼吸して
こう言った
「お父さん、お母さん
ごめんなさい。でも、そのお兄さんは悪くないんだ
ぼくが自分でここを離れたんだ
ぼくは、ちょっと疲れちゃったんだ…」
お父さんやお母さんに、こんなに長く自分の言葉で話したことが在っただろうか
お父さんもお母さんもとても驚いているようだった
そして、また、ぼくを黙って抱きしめてくれた
男の人は警察官に連れられていったのだけど
不思議なことに、その後、だれも、男の人のことは口にしなかった
みんな、あの人のことを忘れてしまったようだった
☆☆☆
家に戻って数日後、
ぼくは、自分の机の中におかしな絵を見つけた
描いた記憶がない絵だった
そもそも、ぼくは絵が嫌いで、滅多に描かないのに
それはたしかにぼくの描いた絵のようだった
黒い服の背の高い男性と
緑色の服を着た男の子とが笑って並んでいた
観覧車の絵やアイスクリームの絵が描いてあった
随分と幼い絵のように思えたけど、
不思議とぼくはこの絵が好きだった
折れてしまわないよう 大切にしまっている
絵を見ていると、ふと、ある言葉を思い出す
記憶に無いはずなのに、いやにありありと思い出すのだ
「大丈夫。
もしも、また道に迷ったり、ひどく困ったりしたら
絶対に、助けに来るから」
という言葉を




