06. 兄弟姉妹のために
翌朝、リーゼが学院の廊下を歩いていると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、少し離れたところからアルノルトがこちらへ歩いてくる。昨日までは昼休みになってから顔を合わせていたため、朝から彼と話すのは初めてだった。
「エルフェルトさん、おはよう。昨日はありがとう」
「おはようございます。焼き菓子のことですか?」
「そう。家へ持って帰ったら大変だったよ。弟たちが随分気に入ったみたいでね。妹なんて、まだ残っていないのかって何度も聞いてきた」
アルノルトは困ったように言いながらも、どこか嬉しそうだった。昨日、弟や妹の話をしていた時にも同じ表情をしていたことを思い出し、リーゼも自然と笑顔になる。自分が作ったものを知らない誰かが喜んで食べてくれたと聞くのは、料理をする者として素直に嬉しかった。
「そんなに気に入っていただけたのなら良かったです。少し固めに焼いているので、小さなお子さんにはどうかと思っていたのですけれど」
「そこは大丈夫だったよ。むしろ食感が気に入ったみたいだ。俺の分まで狙われたからね」
「まあ。それでは、全部差し上げれば良かったですね」
「いや、それは困る。俺だって食べたかったんだから」
思いのほか真剣な顔で返され、リーゼは思わず吹き出した。アルノルトも自分の言い方がおかしかったことに気づいたらしく、少し遅れて笑っている。
そのまま話しているうちに、リーゼは昨日アルノルトから作り方を尋ねられていたことを思い出した。ちょうど教室へ向かう途中だったため、一度自分の席へ寄り、用意しておいた紙を持って戻ってくる。
「こちらをどうぞ。昨日のお菓子の作り方です」
「もう書いてくれたのかい?」
「ええ。分量も書いてありますから、この通りに作れば大きく失敗することはないと思います。ただ、使う小麦粉や卵の大きさによって生地の状態も変わりますので、そこだけは気をつけてください」
アルノルトは紙を受け取ると、その場で目を通し始めた。小麦粉、バター、卵、砂糖、木の実。それぞれの分量だけでなく、木の実を軽く煎ってから刻むことや、生地の混ぜ方についても簡単に書いてある。
昨日の昼休みには木の実を先に煎ったことまで言い当てていたのだから、料理について何も知らないわけではない。ところが、しばらく紙を眺めていたアルノルトは、一箇所で視線を止めた。
「この、生地を休ませるというのは?」
「混ぜ終わってすぐには焼かず、少し置いておくのです。その方が形を整えやすくなりますよ」
「なるほど。混ぜたらすぐ焼けばいいと思っていたよ」
「お料理とは少し違いますからね。お菓子は分量や手順を変えると、思っていた以上に仕上がりが変わるんです」
説明しながら、リーゼはふと疑問を覚えた。アルノルトは作り方を家の誰かへ渡すのではなく、自分で覚えようとしているように見える。
「もしかして、アルノルトさんが作られるのですか?」
「そのつもりだよ。あれだけ気に入っていたから、また作ってやろうと思ってね」
「弟さんや妹さんのために?」
「まあ、そういうことになるかな。作れるようになれば、いつでも食べさせてやれるだろう?」
照れた様子もなく、ごく当たり前のようにアルノルトは答えた。
リーゼには、その感覚が少し新鮮だった。自分も家族のために料理を作ることはあるけれど、年下の兄弟のために何かをしてやるという経験は当然ながら一度もない。幼い頃からエルフェルト伯爵家の子供はリーゼ一人であり、両親や周囲の大人たちに可愛がられる側だった。
「アルノルトさんは、良いお兄様なのですね」
「どうだろうね。本人たちに聞いたら、違う答えが返ってくるかもしれないよ」
「昨日のお話を聞く限り、仲が良さそうでしたけれど」
「仲は悪くないよ。ただ、俺が叱ることも多いからね。特に下の弟は目を離すと何をするか分からないんだ」
また少しだけ、アルノルトの家族について知った。弟や妹がいることを知ったのは昨日なのに、今日は彼らがどんなふうに暮らしているのかまで少し気になっている。
やがて始業を知らせる鐘が鳴り、二人はそれぞれの教室へ向かった。
昼休みになれば、昨日と同じように友人たちと卓を囲むことになった。リーゼとアルノルトが朝から話していたことを知っていた友人が何を話していたのか尋ねてきたため、アルノルトが焼き菓子の作り方を教わっていたと答えると、案の定驚かれる。
「アルノルトがお菓子を作るの?」
「そんなに驚くことかい?」
「だって、想像できないもの。あなたが厨房で焼き菓子を作っているところなんて」
「俺だって簡単な料理くらいするよ。焼き菓子は初めてだけどね」
「意外だわ。何を作るの?」
「スープとか、煮込み料理とか。その程度だよ」
友人たちにとっても、アルノルトが料理をするという事実は意外だったらしい。リーゼも昨日聞いた時から気になっていたため、昼食を食べながらもう少し話を聞いてみる。
「普段から作られるのですか?」
「毎日ではないよ。必要な時だけだね。弟たちが腹を空かせている時に、何か作って食べさせることもあるし」
「それなら、かなり慣れていらっしゃるのでは?」
「切って煮るくらいならね。エルフェルトさんみたいに凝ったものは無理だよ」
そう言って笑うアルノルトに、リーゼは小さな違和感を覚えた。
貴族の子息が料理を趣味として覚えること自体は、それほどおかしな話ではない。リーゼ自身がそうなのだから、他人について珍しいと決めつけるつもりもなかった。それでもアルノルトの話し方からは、好きで覚えたというより、必要だから自然とできるようになったような印象を受ける。
弟や妹がお腹を空かせているなら、普通は家の料理人が何かを用意するのではないだろうか。
疑問は浮かんだものの、リーゼは口には出さなかった。家ごとに事情が違うのは当然であり、知り合って間もない自分が尋ねることではない。アルノルトも特別なことを話している様子ではなかったため、リーゼは別の料理の話へ移った。
放課後になると、リーゼはいつものように帰り支度を済ませて教室を出た。階段を下りたところでアルノルトと再び一緒になり、正門へ向かう間、彼は朝にもらった作り方の紙を取り出している。
「ずっと持っていたのですか?」
「なくしたら困るからね。今日はこれを見ながら作ってみるつもりだよ」
「でしたら、木の実を煎る時は焦がさないようにしてくださいね。香りが出たくらいで十分ですから」
「分かった。ところで、一つ聞いてもいいかい?」
「もちろんです」
アルノルトは紙へ視線を落とし、少し考えてから顔を上げた。
「焼き色がついたら、もう取り出していいのかい?」
「今回のお菓子でしたら、もう少し待った方がいいですね。日持ちさせるために水分を少なくしたいので、中までしっかり焼いた方がいいです」
「中まで焼けたかどうかは、どう判断するんだ?」
「焼き上がりの固さや香りでも分かりますけれど……初めてですと、少し難しいかもしれませんね」
「菓子作りというのは、思っていたより大変なんだね」
アルノルトが困ったように紙を見つめている。その姿が妙に真剣だったため、リーゼは笑いながら、最初から完璧に作る必要はないと伝えた。
「少しくらい失敗しても大丈夫ですよ。何度か作れば、すぐに分かるようになりますから」
「弟たちには、最初から成功したものを食べさせたいんだけどね」
「でしたら、作り方に書いた分量をきちんと守ってください。それが一番大切です」
「分かったよ。やってみる」
正門の近くで別れると、アルノルトは紙を丁寧に折り畳んで鞄へ戻した。
翌朝、リーゼはいつもと同じ時間に学院へ到着した。
教室へ向かう途中でアルノルトの姿を見つけたものの、昨日までとは少し様子が違っている。いつもきちんと整えられている髪が僅かに乱れ、目元にも疲れが残っているように見えた。
「アルノルトさん、おはようございます」
「おはよう、エルフェルトさん」
「……もしかして、昨日のお菓子を作られたのですか?」
「どうして分かったんだい?」
「なんとなくです。それで、上手くできました?」
アルノルトはすぐには答えなかった。
その反応だけで結果を察したリーゼが笑いを堪えていると、アルノルトは諦めたように息を吐く。
「弟たちは食べてくれたよ」
「その言い方ですと、成功ではなかったのですね?」
「固かった。かなりね。妹には、エルフェルトさんが作ったものの方が百倍美味しいと言われたよ」
「ひゃ、百倍ですか?」
とうとう堪えられなくなり、リーゼは声を上げて笑った。アルノルトも苦笑していたが、本気で落ち込んでいるわけではないらしく、むしろ何が悪かったのか知りたそうに昨日の紙を取り出した。
「分量は?」
「全部量ったよ」
「生地はどのくらい混ぜました?」
「綺麗に混ざるまで。念のため、かなりしっかりと」
「……それですね」
「駄目だったのかい?」
「混ぜすぎです。あのお菓子は、生地を練るように混ぜてしまうと固くなりやすいんです」
アルノルトは紙を見直したが、リーゼもそこまで細かなことは書いていなかった。作り慣れている自分には当然の手順でも、初めて作る人には分からないことがあるらしい。
どの程度まで混ぜればいいのかと尋ねられ、リーゼは身振りを交えながら説明してみた。粉が残らない程度にまとめること、力を入れて練らないこと、生地を押し潰しすぎないこと。ところが、言葉だけではどうにも伝えづらい。
「つまり、混ぜるけれど混ぜすぎない?」
「はい。そんな感じです」
「……難しいね」
「そうですね。実際に見れば簡単なのですけれど」
リーゼはどう説明しようかと考え、少し首を傾げた。
「実際に作っているところを見ていただければ、すぐに分かると思うのですけれどね」
何気なく口にした言葉だった。
アルノルトは少し考え込んだ後、手にしていた紙を折り畳んだ。それから、何かを決めたようにリーゼを見る。
「それなら――今度、うちに来て教えてくれないか?」
予想もしていなかった誘いに、リーゼは目を瞬いた。




