07. ファルケンベルク家へ
アルノルトから思いがけない誘いを受けたリーゼは、すぐに返事をすることができなかった。焼き菓子の作り方を教えること自体に抵抗はないものの、知り合って間もない男性の家を訪ねるとなれば、さすがにその場で頷くわけにもいかない。
「ファルケンベルク家へ、ですか?」
「ああ。……いや、待ってくれ。今の誘い方は良くなかったね。もちろん家には弟たちも妹もいるし、君の侍女にも一緒に来てもらって構わない。エルフェルト伯爵にも事情を話した上で、許可をいただけたらでいいんだ」
「それでしたら、一度両親に相談してみます。私も実際に作っているところを見た方が教えやすいですから」
「ありがとう。難しそうなら、無理をしなくても大丈夫だからね」
アルノルトも自分の誘い方に問題があったと気づいたらしく、すぐに言葉を付け足した。リーゼが断りやすいように気を遣っていることも伝わってきたため、両親から許可をもらえれば訪ねると約束し、その場では一度話を終えることにした。
その日の夕食後、リーゼは両親へファルケンベルク家へ招かれたことを話した。学院でアルノルトと話すようになったことは以前から伝えていたものの、彼の屋敷を訪れるとなれば事情も変わってくるため、焼き菓子を渡した経緯から順番に説明していく。アルノルトの弟や妹が菓子を気に入り、兄である彼が自分でも作ってみたところ、混ぜ方を間違えて随分固くなってしまったことまで話すと、母は少し意外そうな顔をした。
「それで、私が実際に作っているところを見せた方が分かりやすいと話したら、ご自宅で教えてほしいと頼まれたのです。侍女を連れてきても構わないと言われています」
「そういうことなら、先方から正式に連絡をいただきましょう。日中に訪問して、あなたの侍女も同行するのであれば問題ないと思うわ」
「ありがとうございます、お母様」
父も反対することなく頷き、翌日にはリーゼからアルノルトへ返事を伝えた。それから両家の間で簡単なやり取りが行われ、数日後の休日にファルケンベルク家を訪れることが決まった。
当日の昼前、リーゼを乗せた馬車はファルケンベルク家の屋敷へ到着した。隣には侍女が座っており、リーゼの手元には念のため持参した焼き菓子の作り方がある。アルノルトも同じものを持っているはずだが、前回は自分にとって当たり前だった混ぜ方を書き忘れていたのだから、実際に教えてみればほかにも説明の足りないところが見つかるかもしれない。
馬車を降りると、玄関の前にはアルノルトが待っていた。学院の制服以外の姿を見るのは初めてで、落ち着いた色合いの服を着た彼は、普段よりも少し大人びて見える。
「いらっしゃい、エルフェルトさん。今日は本当にありがとう」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。上手く作れるかどうかは、アルノルトさん次第ですけれど」
「頑張るよ。二度も失敗したら、しばらく妹に笑われそうだからね」
アルノルトに案内され、リーゼは侍女とともに屋敷の中へ入った。初めて訪れる家に多少の緊張はあったものの、出迎えてくれた使用人は丁寧で、玄関から続く廊下も綺麗に整えられている。一方で、伯爵家の屋敷として考えると使用人の姿は少なく、置かれている家具や調度品にも華美なものはほとんどなかった。
長く使われているらしい家具には細かな傷が残っているものもあったが、どれも丁寧に手入れされている。エルフェルト家とは随分違うと感じても、家ごとに事情や考え方が異なることくらいリーゼにも分かっていたため、それについて尋ねようとは思わなかった。
「お兄様、その人?」
廊下の先から聞こえた声に、リーゼが顔を上げる。幼い少女がこちらを覗いており、その後ろから二人の少年も姿を見せた。昨日までアルノルトの話の中にしか登場しなかった弟や妹たちなのだとすぐに分かり、リーゼは自然と表情を緩めた。
「そうだよ。エルフェルトさんだ。三人とも、きちんと挨拶しなさい」
「はじめまして!お菓子、とっても美味しかったです」
少女は教えられた通りに挨拶を済ませると、すぐに好奇心を隠しきれなくなったらしい。リーゼを見上げて嬉しそうに笑った後、今度は隣に立つ兄へ顔を向ける。
「お兄様が作ったのは、すごく固かったの」
「それはエルフェルトさんも知っているから、もう言わなくていいよ」
「でも、本当に固かったよ。噛んだら歯が痛くなりそうだった」
「そこまでは聞いていませんでしたね」
「エルフェルトさんまで笑わないでくれないか。俺だって、あそこまで固くなるとは思っていなかったんだよ」
困ったように眉を下げるアルノルトを見て、リーゼは堪えきれずに笑った。妹の方も兄が本気で怒らないと分かっているからこそ遠慮なく話しているのだろう。続いて弟たちとも挨拶を交わしているうちに、リーゼは昨日まで聞いていた兄弟の姿を少しずつ思い浮かべられるようになっていた。
挨拶を終えると、リーゼとアルノルトは厨房へ向かった。必要な材料はすでに用意されており、アルノルトは戸棚から迷うことなく道具を取り出していく。小麦粉や砂糖、バター、卵を並べた後には木の実まで用意し、リーゼが何かを探す必要はなかった。
「まずは木の実ですね。前回は焦がしませんでしたか?」
「そこは大丈夫だったよ。君に言われた通り、香りが出たところで火から下ろしたからね」
「では、今日も同じようにお願いします。私はなるべく手を出しませんから、アルノルトさんが作ってください」
「最初から全部、俺が作るのかい?」
「私が作ってしまったら、次も一人では作れないでしょう?」
アルノルトは納得すると、自分で木の実を煎り始めた。火の扱いには慣れているようで、そこはリーゼが口を出す必要もない。香りが立ったところで火から下ろし、細かく刻んでから生地作りへ移る。材料の分量も一つずつ丁寧に量っていたため、前回と同じように問題が起こるとすれば混ぜ方だった。
「では、混ぜてみてください。最初は普通に混ぜて大丈夫です」
「このくらいかな」
「もう少しだけ……はい、そこで止めてください」
「もう止めるのかい?」
「はい。そこから練るように混ぜると、また固くなってしまいます」
アルノルトは手を止めたまま、まだ少し粉っぽさの残っている生地を見つめた。前回は綺麗に混ざるまで念入りに練ったと話していたため、本人としては途中で止めてしまったように感じるらしい。
「昨日の俺なら、ここからかなり混ぜていたよ」
「だから固くなったんです。綺麗に混ぜれば良いというものでもありませんから」
「料理なら、ここまで気にすることはないんだけどね。菓子作りは難しいな」
「慣れれば簡単ですよ。アルノルトさんなら、次からは一人でも作れると思います」
実際に作業をしながらなら、言葉だけで説明した時よりも遥かに教えやすかった。生地を休ませる時間や木の実を加えるタイミングを伝え、形を整えるところまで進むと、アルノルトも少しずつ要領を掴んできたらしい。最初の数個こそ慎重に形を整えていたものの、途中からはリーゼが手本を見せなくても同じくらいの大きさに揃えられるようになっていった。
「そんなに慎重にならなくても大丈夫ですよ。少しくらい形が違っても、味まで変わるわけではありませんから」
「また妹に味が百倍違うと言われたくないんだよ。せめて今日くらいは兄としての面目を保ちたいからね」
「それなら、今日は大丈夫だと思います。昨日よりずっと上手くできていますから」
形を整えた生地を焼き始めると、しばらくして厨房にバターと木の実の香りが広がった。その匂いに気づいたのか、戸口から先ほどの妹が顔を覗かせ、さらに後ろから弟たちまでやって来る。
「お兄様、もうできた?」
「まだだよ。焼けても冷ますまで食べられないから、向こうで待っていなさい」
「一個だけ先に食べたい」
「熱いから駄目だよ。昨日より美味しくできているはずだから、もう少し待っていてくれ」
「もう少しですよ。冷めたら皆さんで食べましょう」
リーゼからもそう言われると、三人はようやく厨房から離れていった。アルノルトはその後ろ姿を見送りながら苦笑していたが、焼き上がりが近づくにつれて何度も菓子の様子を確かめているあたり、弟や妹に食べてもらうのを楽しみにしているのは彼も同じらしい。
やがて焼き上がった菓子を取り出し、十分に冷ましてから一つ割って確かめる。表面には程よく焼き色がつき、中までしっかり火も通っていた。前回のように固くなっている様子もなく、リーゼが一口食べてみると、木の実の香ばしさもきちんと残っている。
「大丈夫です。上手くできていますよ」
「本当に?」
「ええ。これなら百倍違うとは言われないと思います」
「できれば、もう少し褒めてもらいたいところだね」
出来上がった菓子を皿へ移して運ぶと、待ち構えていた弟や妹たちがすぐに集まってきた。まだ少し温かさが残っているため、アルノルトが慌てて食べないよう言い聞かせてから一人ずつ渡していく。リーゼも一つ手に取りながら、三人の反応を見守った。
最初に口へ入れた妹は、すぐには何も言わなかった。小さな口で何度か噛み、真剣な顔をしたまま兄を見上げるものだから、作った本人の方が落ち着かなくなっている。
「……どうかな」
「美味しい。今日はちゃんと美味しいよ」
「今日は、という言い方が少し気になるけれど、良かったよ」
「リーゼお姉様が教えたから?」
「そうだよ。だから次は一人でも作れると思う」
「じゃあ、また作ってね」
妹だけでなく弟たちも気に入ったらしく、皿に盛られた菓子は次々と減っていった。アルノルトは自分の分を一つ確保してから弟へ皿を渡しており、その様子を見たリーゼは昨日の「俺だって食べたかったんだから」という言葉を思い出して、また笑ってしまった。
自分も一つ食べながら、リーゼは改めてアルノルトたちの様子を眺めた。学院にいる時よりも兄らしく見える彼は、誰が何個食べたのかまで気にしながら、年下の三人へ自然に目を配っている。本人は叱ることも多いと話していたが、三人がアルノルトを慕っていることは今日一日だけでも十分に伝わってきた。
それからしばらく兄弟たちと過ごし、帰る時間になると、アルノルトはリーゼを玄関まで見送りに来た。外にはエルフェルト家の馬車が待っており、同行していた侍女も帰り支度を整えている。
「今日は本当にありがとう。実際に見てもらわなかったら、次も同じ失敗をしていたと思う」
「次からは混ぜすぎないでくださいね。今日と同じように作れば大丈夫です」
「ああ。今度は一人でやってみるよ。これで妹にも文句は言わせない」
「そこまで自信を持ってしまうと、また失敗するかもしれませんよ」
リーゼが笑うと、アルノルトもつられるように笑った。そのまま別れの挨拶を済ませ、リーゼが馬車へ向かおうとしたところで、屋敷の扉が開く音がする。
「リーゼお姉様!」
振り返ると、アルノルトの妹がこちらへ走ってきていた。後ろから兄に名前を呼ばれても足を止めず、そのままリーゼの前までやって来る。
「今日はありがとう。また来てね」
「こら、そんなふうに困らせたら駄目だよ」
「大丈夫ですよ。私も今日は楽しかったですから。また機会があれば、その時は別のお菓子を作りましょうか」
「本当?」
「ええ。何を作るか、考えておきますね」
少女が嬉しそうに笑う。その顔を見てリーゼも笑みを返し、今度こそ馬車へ乗り込んだ。窓からアルノルトたちへ会釈すると、やがて馬車はゆっくりと屋敷を離れていった。
焼き菓子を教えに行っただけの一日だったが、リーゼは話に聞いていた弟や妹たちと実際に会い、学院では見ることのできないアルノルトの姿を知ることができた。妹に失敗を笑われても怒らず、弟たちが菓子を美味しそうに食べている姿を嬉しそうに眺める彼の顔を思い返しながら、リーゼは馬車の窓から遠ざかっていく屋敷を眺めていた。




