04. 婚約者のいない学院
ヴィルヘルムとの婚約を解消してから、リーゼの学院生活は少しだけ変わった。
大きく変わったように見えないのが、かえって不思議なくらいだった。朝になればエルフェルト伯爵家の馬車に乗り、学院へ向かう。教室へ入れば親しい友人たちがいて、授業が始まれば教師の話を聞きながら筆記具を動かす。婚約破棄について遠巻きに噂する者はいたものの、リーゼが普段通りに過ごしているうちに、こちらを窺うような視線も少しずつ減っていた。
「リーゼ、今日は一緒に食べられるでしょう? 先週は先約があるって断られたもの」
「もちろん。今日は何もないから大丈夫よ」
「それなら中庭にしましょう。食堂は混んでいるし、今日は外でも寒くないわ」
昼休みになると、リーゼは友人たちと連れ立って中庭へ向かった。学院の中庭には生徒が自由に使える卓がいくつか置かれており、暖かな季節になると昼食を取る生徒たちで賑わう。今日は天気も良く、日差しも穏やかだったため、すでに半分ほどの席が埋まっていた。
空いている卓を探していると、先を歩いていた友人が誰かに気づいて手を上げた。その視線を追ったリーゼは、木陰の卓に座っていた男子生徒たちの中に見覚えのある顔を見つける。
「アルノルト。そちら、空いている?」
「ああ。俺たちだけだから構わない」
答えたのは、アルノルト・ファルケンベルクだった。
同じ学年なのだから、リーゼも彼の顔と名前くらいは知っている。授業で同じ教室になったことも一度や二度ではないし、成績の良い生徒として名前を聞くこともあった。それでも直接言葉を交わした記憶となると、挨拶をした程度しか思い浮かばない。
友人たちは特に気にすることもなく、空いていた椅子へ腰を下ろしていった。ここで自分だけ別の卓を探す理由もなく、リーゼもその隣に座る。向かいにはアルノルトがおり、彼もリーゼに気づくと軽く頭を下げた。
「エルフェルトさんとは、こうして話すのは初めてだったか」
「そうですね。同じ授業を受けたことは何度もありますけれど」
「俺もそんな気がする。ファルケンベルクだ。改めてよろしく」
「リーゼ・エルフェルトです。こちらこそ、よろしくお願いします」
改めて名乗り合うほど知らない仲でもないのだが、これまで接点がなかった以上、妙な挨拶になってしまう。リーゼが少し笑うと、アルノルトも自分でおかしなことを言ったと思ったのか苦笑した。
それからは友人たちを交えて昼食を取った。
話題の中心になったのは、近いうちに学院で行われる音楽会のことだった。毎年開かれているもので、音楽を学んでいる生徒たちが演奏を披露する。リーゼたちに出番はないものの、今年は友人の一人が親しくしている令嬢が演奏するらしく、その話を朝から何度も聞かされていた。
「昨日なんて、絶対に見に来てって三回も念を押されたのよ。私が行かないとでも思っているのかしら」
「三回ならまだいい。俺の友人は五回だ。今朝も言われたぞ」
「アルノルト、あなたの場合は忘れそうだからじゃない?」
「失礼だな。今日の予定くらいは覚えている」
「今日だけでしょう?貴方、明日の予定なんて忘れてるでしょう。第一、去年なんて学院の式典の日を間違えていたでしょう」
「あれは一日ずれていただけだ」
「一日ずれたら十分間違いよ」
友人が即座に返したため、リーゼは堪えきれずに笑った。
アルノルトは少し不満そうな顔をしたものの、本気で怒っているわけではないらしい。隣にいた男子生徒まで去年の失敗を思い出して笑い始めると、とうとう諦めたように肩をすくめていた。
そして、少し遅れて自分の右手が動きかけたことに気づいた。
口元へ添えようとした手を途中で止め、そのまま膝の上へ戻す。誰かに指摘されたわけではない。向かいに座るアルノルトも、友人たちも、リーゼの笑い方など気に留めていなかった。
◇
午後の授業を終える頃には、昼休みにアルノルトと同じ卓を囲んだことも、特別な出来事とは感じなくなっていた。
放課後になり、リーゼは友人と一緒に教室を出た。途中までは同じ方向だったものの、友人にはこの後に用事があるらしく、階段を下りたところで別れることになる。
「それじゃあ、また明日」
「ええ。また明日」
友人を見送ってから、リーゼは一人で玄関広間へ向かった。窓から差し込む夕方の光が長く廊下へ伸び、授業を終えた生徒たちが次々と校舎を出ていく。
リーゼもその流れに混ざろうとしたところで、前を歩いていた男子生徒が一冊の本を落とした。
本は床へ落ちた拍子に開き、中に挟まれていた何枚もの紙が散らばった。
「あ」
リーゼは近くへ落ちた一枚を拾った。ほかの生徒に踏まれそうになった紙も拾い上げていると、落とした本人が慌てて引き返してくる。
「悪い、助かった」
昼休みに同じ卓を囲んだアルノルトだった。
「随分たくさん挟んでいたのですね」
「忘れっぽいからメモを取っていたんだ。とは言っても前から危ないとは思っていたんだけどね」
リーゼが拾った紙を渡すと、アルノルトは受け取ったものを本の間へ戻していく。けれども元からかなりの枚数が挟まっていたらしく、本は不自然なほど膨らんでいた。
「それでは、また落としてしまうのでは?」
「……確かに」
真剣な顔で答えられ、リーゼは笑ってしまった。
昼休みに話してみるまでは、アルノルトにはもっと堅い印象を持っていた。成績が良く、授業中も真面目で、教師から頼られている姿を何度か見たことがある。その印象自体は間違っていないのだろうが、少なくとも完璧な人間ではないらしい。
「ごめんなさい。貴方ってもっとこう堅いイメージがあったわ」
「そうか?堅いっていうより間抜けだとは思っているぞ。次からは別のものに入れて持ってくるよ」
アルノルトはそう言って本を抱え直した。
ちょうど二人とも正門へ向かうところだったため、そのまま並んで歩くことになった。話したのは学院のことや共通の友人のことばかりで、リーゼの婚約についてアルノルトが尋ねてくることはなかった。
それがリーゼにはありがたかった。
婚約を解消してから、初めて話す相手の中には事情を知りたがる者もいた。悪意があるわけではないのだろう。それでも、すでに終わったことを一から説明する気にはなれなかった。
正門近くまで来たところで、ファルケンベルク家の迎えが来る場所は別方向らしく、アルノルトが足を止める。
「俺はこっちだ。それじゃあ、また明日」
「ええ。また明日」
アルノルトと別れ、リーゼは迎えの馬車へ向かった。
帰宅してから何をするのか考える。以前より自由に使える時間が増えたというのに、ここ最近は読書をしたり、母と話したりしているうちに一日を終えることが多かった。
嫌な時間ではない。それでも、せっかくなら久しぶりに別のことをしたかった。
料理がしたい。
馬車へ乗り込んでから何を作ろうか考え始めると、候補はいくらでも浮かんできた。焼き菓子なら今からでも十分に間に合う。果物が残っていれば砂糖で煮てもいいし、木の実があれば生地へ混ぜ込んでもいい。
エルフェルト伯爵家へ戻ったリーゼは、自室で学院の制服から着替えると、そのまま厨房へ向かった。夕食の仕込みをしていた料理人たちは突然現れたリーゼに驚いたものの、彼女厨房へ来ること自体が初めてというわけではない。
「お嬢様、今日はどうされました?」
「久しぶりに何か作ろうと思って。厨房を少し借りてもいいかしら?」
「もちろんです。何をお作りになります?」
「それを今から決めるの。使ってもいい材料を見せてもらえる?」
料理長に案内され、リーゼは食材を一つずつ確かめていった。小麦粉と卵は十分にあり、バターも使って構わないという。保存してあった木の実を見つけると、それを手に取ってしばらく考え、焼き菓子に混ぜ込むことに決めた。
何を作るのか決まってしまえば、そこから先は早かった。必要な材料を揃え、分量を確かめながら器へ移していく。久しぶりに厨房へ立ったというのに手順で迷うことはなく、料理長から声をかけられるより先に次の準備へ取りかかっていた。
生地がまとまっていくにつれて、リーゼの機嫌も自然と良くなっていく。
少し多めに焼いてもいいだろう。
上手くできたなら明日、友人たちへ持っていこう。昼食を一緒に取ることになれば、アルノルトたちにも分けられるかもしれない。
そんなことを考えながら、リーゼは刻んだ木の実を生地へ混ぜ込んでいった。




