↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】 私が笑っていることが、そんなに気に入りませんか?   作者: 入多麗夜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/7

03. もう二度と、自分へ向けられない笑顔

 婚約の解消が正式に決まってからしばらく経った頃、リーゼは学院時代から親しくしている令嬢たちの茶会へ招かれた。事情を面白がって根掘り葉掘り聞く者はおらず、以前と変わらず最近見つけた菓子店の話や、共通の友人が結婚するという話をしているうちに、リーゼも久しぶりに気を張らずに過ごせるようになっていた。やがて一人の令嬢が、幼い弟が大人の真似をして家令へ仕事を命じ、最後には自分のおやつまで管理される羽目になった話を始めると、周囲から笑い声が上がった。


 リーゼも笑いかけたところで、無意識に口元へ力を入れた。いつものように、笑いすぎてはいけないと思ったのである。隣にはヴィルヘルムがおらず、向かいに座る友人たちは何も気にせず笑っている。自分を注意する視線がどこからも向けられていないことに気づいても、一度身についてしまった癖はすぐには消えてくれなかった。


「リーゼ、どうしたの?」

「ごめんなさい。少し変な癖がついてしまったみたい。笑おうとすると、先に気をつけなければと思ってしまうの」

「笑うことに?」

「ええ。例の彼から、あまり人前で笑わないほうがいいと何度も言われていたから」


 事情を聞いた友人たちは驚いた顔をしたが、すぐにヴィルヘルムへの悪口を並べるようなことはしなかった。学院へ入った頃からリーゼを知っている一人が、手にしていたカップを静かに受け皿へ戻し、困ったように笑った。


「少なくとも私は、あなたが笑っているところを見て淑女らしくないと思ったことなんて一度もないわ。昔からリーゼは、面白いことがあると本当に楽しそうに笑うでしょう?私はそのほうが好きよ」


 ほかの友人たちも頷いている。その顔を眺めているうちに、リーゼの口元から自然と力が抜けた。先ほど途中で止めてしまった弟の話には続きがあったらしく、再び友人が話し始めると、今度は最後まで我慢することなく笑うことができた。笑った後に誰かの顔色を確かめる必要もなく、そのまま次の話へ加わっているうちに、胸の奥に残っていた窮屈さも少しずつ薄れていった。


 その後も、リーゼは親しい人々との時間を重ねる中で、以前のように笑えるようになっていった。母と出かけた先で見つけた可愛らしい小物について話し、友人たちの茶会では面白い話を聞けば笑い、夜会でも親しい相手から声をかけられれば自然に微笑んだ。最初の頃は笑った直後に周囲を気にすることもあったが、誰かから咎められることはなく、付き合いの長い婦人から「最近は以前の明るい顔に戻ったわね」と言われた時には、リーゼ自身もようやく三年間でどれほど表情を抑えるようになっていたのかを知った。


 ヴィルヘルムのほうは、婚約が解消されてから妙なことばかり目につくようになっていた。夜会へ出れば、侯爵夫人も伯爵夫人も知人との会話で普通に笑っている。年頃の令嬢たちも同じで、誰かが冗談を言えば口元を綻ばせ、親しい友人を見つければ嬉しそうな顔をする。それまでなら淑女として慎みが足りないと考えていたはずなのに、一度意識して周囲を見回せば、笑わずに過ごしている女性を探すほうが難しかった。


 ある夜会では、自分の母が知人の侯爵夫人と話しながら笑っている姿を見かけた。声を張り上げているわけではなく、相手の話に目元を緩めて楽しそうに笑っている。ヴィルヘルムが幼い頃から見慣れていた母の姿であり、それを品がないと思ったことなど一度もなかった。


「ヴィルヘルム、どうかしたの?」

「いえ。何でもありません」


 視線に気づいた母へそう答えたものの、その後もしばらく母の笑顔が頭から離れなかった。自分はリーゼへ、侯爵夫人になるのだから笑うなと言い続けていた。ところが実際に侯爵夫人である母は人前で笑っており、周囲の誰もそれを問題にしていない。母だけが特別なのかと考えようとしても、夜会を見渡せば同じような婦人はいくらでもいる。


 自分が正しいと思っていたものは、本当に誰にとっても正しいものだったのだろうか。


 その疑問を持つようになってから、三年間の記憶まで違って見えるようになった。リーゼは一度として大声で笑っていなかった。誰かを嘲ったこともなければ、場を乱したこともない。注意するたびに最初は戸惑った顔をし、それでもヴィルヘルムが侯爵夫人になるためだと言えば、次から気をつけると答えていた。最後の一年ほどは、ヴィルヘルムが近くにいるだけで以前ほど笑わなくなっていた。


 あの頃の自分は、それを淑女らしくなったのだと思って喜んでいた。


 数か月後、王宮で開かれた夜会へ出席したヴィルヘルムは、人々の向こうにリーゼの姿を見つけた。婚約を解消してから直接顔を合わせるのは初めてで、彼女は学院時代から親しい令嬢たちと一緒におり、その近くには何人かの青年も立っていた。以前なら真っ先に気になっていたであろう光景なのに、ヴィルヘルムの視線を引きつけたのは別のものだった。


 青年の一人が何かを話すと、リーゼが笑った。口元を上品に緩め、目を細めて、小さな笑い声を漏らす。周囲の令嬢たちも一緒になって笑い、話をした青年も嬉しそうな顔をしている。誰も振り返らず、眉を顰める者もおらず、彼女たちの周囲には穏やかな空気が流れていた。


 ヴィルヘルムは、その笑顔を三年間も見てきた。最初の頃のリーゼはよく笑っていた。茶会の帰りには楽しかった出来事を話し、ヴィルヘルムが少し気の利いたことを言えば嬉しそうに笑ってくれた。それがいつからか少なくなり、最後の頃には彼の前でほとんど見せなくなっていた。それを望んだのは自分だったのだと、今なら分かる。


 やがてリーゼが何気なく顔を動かし、少し離れた場所に立つヴィルヘルムへ気づいた。二人の視線が重なった瞬間、彼女の口元から笑みが消えかけた。ほんの一瞬だったものの、ヴィルヘルムにはその理由が分かった。三年間、笑うたびに注意してきた自分を見たからこそ、今でも身体が先に反応してしまったのだろう。


 リーゼも途中で気づいたらしい。もうヴィルヘルムの婚約者ではない。彼が何を思おうと、笑い方を直す必要もなければ、侯爵夫人に相応しくないと評価されることを恐れる必要もない。リーゼはヴィルヘルムへ社交上の礼儀として小さく会釈すると、すぐに友人たちのほうへ向き直った。


 再び青年が何かを話し、リーゼの顔に笑みが戻る。今度は、ヴィルヘルムが見ていることを気にしていなかった。


 彼が淑女らしくないと嫌ったその笑顔を、もう二度と自分へ向けてもらえることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。