第86話 脅迫ー7
深夜。
窓の外では、静寂が街を深く包み込んでいた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、自室の床に細長い帯を描いている。
時折、遠くを走り抜ける車の走行音が微かに響き、それがかえって夜の深さを強調していた。
茜とリリスが寝静まった頃、それでも悠人は不安でなかなか眠りにつけなかった。
枕元の時計が刻む規則正しいチクタクという音が、まるで爆弾の秒読みのように脳裏へ響く。
瞼を閉じれば、暗闇の中に風間次郎のあの歪な笑顔や、ネクロスが差し向けた無機質な手紙の一文が浮かび上がってくる。
S級探索者という、理屈を超越した「暴力」の化身。
それに対抗するために掲げた「S級への昇格」という目標は、あまりにも高く、そして険しい。
布団の中で拳を強く握りしめるが、その掌は僅かに冷え切っていた。
そんな中で自室の扉が開き、呼び出される。
僅かな隙間から漏れ出してきたのは、柔らかなシャンプーの香りと、聞き慣れた落ち着いた気配だった。
促されるままに部屋を出て、薄暗い廊下で向かい合う。
「──フン、まだ起きていたのか。
警戒なら、仕掛けている機械と、私に任せろ」
神崎零華の問いかけは、夜の空気に溶けるような、どこか悪戯めいた響きを含んでいた。
「……それは分かっているけど、どうにもな。
というか神崎、お前も寝てくれ」
寝巻きの上に薄い上着を羽織った姿。
廊下の常夜灯に照らされた彼女の表情は、いつもの厳しい戦士のものというより、一人の等身大の人間としての脆さを湛えている。
「あら、それは予想外。
思ったより繊細なのね。
もっと馬鹿で大雑把だと思ってた」
「……驚かせてしまって悪かったな」
「──ねぇ、天野。
……少し、話せる?」
誘われるままに、物音を立てないよう静かに玄関を抜ける。
家の外に出ると、夜風が肌を心地よく撫でた。
昼間の熱気は完全に消え去り、冷ややかな風が火照った思考を鎮めていくようである。
街灯の下、神崎零華は少しだけ視線を逸らしていた。
オレンジ色の光が、長く伸びた睫毛に淡い影を落とす。
「さっきの宣言……
覚悟が伝わってきたわ」
静かな夜の街に、透き通った声が響く。
「……みんなのおかげだよ。
──みんなの意志が伝わってきたんだ。
これなら、どんな困難でも、乗り越えていけそうだって。
……はは、まだ俺は”心”に依存してるみたいだな」
悠人が苦笑すると、神崎零華は小さく首を横に振る。
風に揺れる銀色の髪を耳にかけ、ゆっくりと歩き出した。
「何でも極端に信奉するのはあなたの良くない癖だったわ。
けど、もう懲りたでしょう?
……それに別にあなたは間違っていないわ」
その言葉に、悠人は目を瞬く。
これまで、自分の「甘さ」や「感情への偏り」こそが、ネクロスのような強敵に対抗できない弱点なのだと考えていた時期もあった。
だが、神崎零華の言葉は、その否定してきた自分自身を丸ごと肯定してくれるような優しさに満ち満ちている。
「だって人はそもそも、そういう物だから。
……けど、ネクロスは違う。
ネクロスは、理屈の信奉者よ」
神崎零華は、遠くを見ていた。
視線の先、ずっと遠くには、高くそびえ立つ霞んだ探索者統制機構のビルが、暗闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
「正しさで人を管理し、間違いを切り捨てる。
効率と結果こそが正義であり、それ以外の不確定要素は排除されるべきノイズに過ぎない。
ネクロスにとって、世界は巨大な歯車の集合体なの。
でも……
人は、理屈だけでは動けない」
そして、悠人をまっすぐに見た。
その瞳には、嘘偽りのない信頼の光が灯っている。
「私は、あなたという、“学習”を続け、可能性を模索し続ける者を信じている。
ネクロスの理屈は強固だけれど、それゆえに想定外の事態に脆い。
あなたは、その理屈を書き換える力を持っている。
それは生成スキルという能力だけじゃない。
仲間を惹きつけ、共に高みを目指そうとする、その泥臭い執念のことよ」
胸が、強く脈打つ。
心臓の鼓動が耳の奥まで届いていた。
自分を信じてくれる存在が、これほどまでに心強く、そして勇気を与えてくれるものだとは知らなかった。
風間次郎という圧倒的な「個」を前にして、悠人が感じていたのは、自分という存在の矮小化だった。
磨き上げた概念も、絞り出した知略も、すべては紙細工のように無意味だったのではないかという疑念。
しかし、目の前の少女は、その不器用な足掻きにこそ価値があると言ってくれている。
冷え切っていた指先に、ようやく熱が戻ってくるのを感じた。
街灯に集まる小さな虫たちが、光の輪の中で無秩序に踊っている。
それさえも、ネクロスが望む整然とした世界への反逆のように見えた。
「執念……か」
悠人は呟き、自分の手を見つめた。
“概念生成”。
それは文字通り、この世界のルールにないものを生み出す力だ。
計算された強さではなく、土壇場の願いや、誰かを守りたいという執念が形を成す力。
神崎零華の言う通り、それは論理の対極にあるものだった。
「……一緒に頑張ろう───」
それしか言えなかった。
言葉を重ねれば重ねるほど、この純粋な想いが安っぽくなってしまうような気がする。
夜は静かで、二人の間に、言葉以上のものが流れていった。
微かに漂う夜露の匂いと、隣を歩く人物の体温。
触れそうで触れない距離。
伸ばせば届くかもしれないが、今はまだ、この緊張感に満ちた心地よい境界線を保っていたかった。
切なく、けれど確かな信頼。
かつては敵対し、股間を蹴られた相手。
それが今、この孤独な夜を共にする、かけがえのない戦友となっている。
その数奇な巡り合わせに、悠人は運命という言葉の重みを感じていた。
「無理は、しないで」
神崎零華は、そう言って微笑み、先に家の中へと戻ってゆく。
玄関のドアを開ける直前、一度だけ振り返った。
「一人で背負わなくていい。
……もう、同じ屋根の下で暮らしている仲なんだから」
その背中を見送りながら、悠人は感じる。
自分を縛り付けていた孤独の鎖が、音を立てて崩れ落ちていく感覚を。
これまでの自分は、どこかで
「自分が倒れればすべてが終わる」
という強迫観念に囚われていた。
だが、背中を預けられる者がいる。
揺らぐ心を支えてくれる者がいる。
それは、どんな高ランクの装備品よりも、どんな強力なバフ魔法よりも、悠人の魂を強く、深く補強してくれた。
(──俺は、まだ未熟だ。)
風間次郎の一撃を止めることもできず、ネクロスの影に怯え、仲間に不安を吐露するしかない。
リーダーとしては、まだ不合格かもしれない。
(──それでも、この仲間となら、前に進める。
勝てる、奴らに)
理屈を越え、論理を凌駕し、誰も見たことのない頂へと辿り着くことができる。
夜空を見上げれば、無数の星が冷たく、しかし確かに光を放っていた。
明日の朝が来れば、また過酷な現実が牙を剥くだろう。
だが、もう逃げることはない。
悠人は深く息を吸い込み、冷たい空気をつま先まで届かせるように肺に溜めた。
身体の芯に宿った小さな熱を絶やさないよう、静かに家の扉を閉める。
部屋に戻り、ベッドに横たわると、今度は不思議と穏やかな眠気が訪れた。
窓の外で、木の葉がカサリと揺れる。
夜は、静かに更けていった。




