第87話 反抗作戦
翌日の早朝。
悠人は、静まり返った部屋の机に向かい、ノートとメモ用紙を前にして唸っていた。
窓の外はまだ薄暗い群青色に沈んでおり、夜の冷気が窓ガラスを白く曇らせている。
家中が寝静まるなか、聞こえてくるのは時計の秒針が刻む一定のリズムと、自身の呼吸音だけだった。
「うおー、やめろぉー、おとぉさぁああん」
加えて、時折零華か茜の寝言がわずかに響いてくる。
S級探索者を目指すには、A級ダンジョンの攻略が複数必要だ。
そのためには、“リアル生成AIスキル”の能力を完全に取り戻しておいた方が良いと悠人は考えていた。
彼の脳裏には、砕かれた”概念の盾”の記憶がありありと蘇ってきている。
概念生成は、まだまだ練度が低いことが多い。
物理的な生成ならば、コストは多少かかるが、それゆえに練度が低くとも安心できる部分もある。
机の上に広げられたノートの余白には、昨夜から書き殴られた数式や、意味を成さない図形が幾層にも重なっていた。
手元のランプが落とす狭い光の円の中で、握りしめたペンの軸が細かく震えている。
ネクロスの刺客に無効化され、完全に封じられてしまったあの能力。
当時の無力感を、今も忘れてはいない。
全身の血が凍りつくような感覚が全身を巡る。
宿っていたはずの万能の力が、まるですり抜ける砂のように指の間から消えていったあの瞬間。
目の前で仲間が傷つき、絶望に飲み込まれそうになりながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった己の姿を思い出す。
ネクロスが構築した理屈という名の檻は、あまりにも強固で、冷酷だった。
あの敗北の味は、舌の奥に苦い鉄の味として今も残り続けている。
「……俺のスキルであれば、物理生成の無効化を、無効化することだってできるはず」
独り言が、まだ涼しい室内に小さく響いた。
しかし、そこには確かな意志が伴っている。
生成スキルとは、無から有を生む力であり、世界の法則を狭い範囲ながらも書き換えることすらできる能力だ。
もし、その力が封じられたのだとしたら、話は早い。
その「封じられた」という結果そのものを「分析」して、新たな法則を、概念を生成し直せばいいのだ。
悠人の頭の中で、概念生成のパターンが何度も組み直されていく。
脳の奥が熱を帯び、神経回路が限界を超えて加速していった。
リアル生成AIスキルが無効化されている原因は、単純に“自分の物理生成が跡形もなく削除されている”というわけではない。
それを妨害するネクロスの能力が自分の中に残留しているというだけだ。
これまでの戦いを脳内で高速再生する。
風間次郎が見せた、仕組みはわからないが、概念の壁を砕いてみせた圧倒的な力。
ネクロスの刺客が展開した、スキルの根幹を腐らせるような沈黙の一手。
それらはすべて、強固な”魔力”によるものだ。
ならば、その”魔力”のさらに外側を目指せばいい。
既存の魔力体系や、スキルが想定していないイレギュラーかつ、上位互換となる、新たな魔力に変わるエネルギー回路を構築するのだ。
これまで悠人が行ってきた生成は、既存の法則の延長線上にあった。
物質を作り、エネルギーを変換する。
だからこそネクロスはその補足を利用して物理生成を否定してきた。
悠人はひらめく。
思考の海に沈んでいた意識が、一点の光を捉えた。
「よし、生成するぞ。
魔力以外の、俺だけのエネルギーの”概念”を。
それを利用して行う物理生成ならば、ネクロスの仕掛けてきた呪いも簡単に突破できるはず」
ペンを走らせ、ノートに次々と描き込んでいく。
インクが紙に染み込む速度さえもどかしく感じるほど、イメージは奔流となって溢れ出した。
視界の端で、現実の境界が微かに歪む。
まだスキルを発動させていないにもかかわらず、高まった魔力が周囲の事象に干渉し始めていた。
世界の理を一時的に、かつ局所的に上書きする行為。
それは、一歩間違えれば自らの精神を焼き切り、存在そのものを消失させかねない禁忌の領域だ。
あまりに大雑把な概念を生成してしまうと、世界全体に悪影響を及ばしかねない。
因果の連鎖が狂い、周囲の物質が崩壊し、仲間たちの存在さえも不確かなものにしてしまうリスクが付きまとう。
悠人は額に滲む汗を拭い、意識を極限まで研ぎ澄ませた。
必要なのは、広大な宇宙を塗り替える力ではない。
自分という中心点から広がる、絶対的な自己の領域だ。
ネクロスの理屈が届かない、論理の空白地帯を求める。
肺の奥が焼けるように熱い。
脳髄が過熱し、耳鳴りが高周波のノイズとなって響く。
しかし、悠人の手は止まらなかった。
スキルに半分脳みそを利用させているような状態。
ノートの文字は次第に既存の言語を離れ、純粋な魔力情報の羅列へと変貌していく。
「無効化」という壁を壊すのではなく、その壁を迂回する道を作り出す。
壁を迂回して、そのまま両側から飲み込めば、壁そのものも破壊ができるかもしれない。
異質な自分のスキルの特性を利用して、半ば強引に成立させる高次元の論理。
それは、これまでの自分が築き上げてきたどの概念よりも鋭く、そして危ういものだった。
肺の中の空気をすべて吐き出し、真空に近い状態のなかで、悠人は世界の呼吸を読み取ろうとする。
目の前の空間に漂う塵の一粒一粒、窓から差し込み始めた夜明けの微かな光、それらすべてが特定の定義に従って存在していた。
ディープ・ラーニング機能を活用し、定義の網の目を見つけ出し、指先を滑り込ませる感覚を味わう。
今、悠人の指先から伸びている見えない糸が、世界の深層へと繋がっていた。
失敗は許されない。
S級探索者という、想像を絶する怪物に狙われている今、この力がなければ今日を生き延びることさえ叶わないだろう。
仲間たちの笑い声を、零華との信頼を、茜の勇気を、リリスの忠誠を。
それらをすべて守り抜くための、最後の鍵。
窓の外では、夜明けを告げる鳥の声が小さく聞こえ始めた。
紫色の空がゆっくりと白んでいき、絶望に支配されていた夜が終わりを告げようとしている。
最後の一行を脳裏に刻み込み、すべてのイメージを一点に集束させた。
やっていることは、リリスのアップデートと近い。
新たな概念を作り出し、人体の中に構築していく。
今度はそれを他者ではなく、自分に行うのだ。
悠人は思考の流れに乗せて、空間に触れるように、頭の中で概念を──
己のアップデートデータを形作っていった。




