第85話 脅迫ー6
入浴後、悠人はリビングに戻り、ソファに座る。
湯気に包まれていた浴室から一歩出ると、廊下のひんやりとした空気が火照った肌を心地よく撫でた。
リビングのドアを開けると、そこには数時間前までの凍り付くような緊張感が嘘のような、柔らかな光景が広がっている。
部屋の隅々にまで溜まっていた”死の予感”を少しずつ押し流してくれていた。
皆が寝巻き姿でテレビを見ながらくつろいでいる。
あたりには茜と零華が持ち込んだ荷物が置いてあった。
普段は整然としているはずのリビングに、着替えの入ったバッグや、少しだけはみ出した身の回り品が散乱している。
その様子は、この場所が単なる一時的な避難所ではなく、一つの”拠点”に変わりつつあることを示していた。
両親もいないこの家で、いつも一人だった悠人は、この賑やかな光景が幻のようにも思えてしまう。
壁に掛かった時計の針が刻む音さえ、一人の時はひどく大きく感じられたものだ。
暗いキッチンで独り、出来合いの食事を済ませるのが当たり前だった日常が脳裏をよぎる。
だが今は、空気の中に他者の体温が混じり、誰かがそこにいるという確かな気配が、肌を刺すような孤独を和らげてくれていた。
窓の外では依然として、ネクロスの監視やS級探索者の影が蠢いているのかもしれない。
しかし、この四角い部屋の中だけは、外側の狂った論理から切り離された聖域であることは間違いなかった。
「……こうしてるとさ、さっきまでS級探索者に襲撃を受けたことなんて、嘘みたいに思えるよね」
茜が、少し照れたように笑う。
膝を抱えてソファの端に座る茜の姿は、戦場で見せる険しさを完全に拭い去っていた。
しかし、その指先が時折、寝巻きの裾を強く握りしめるのを悠人は見逃さなかった。
嘘みたいだと言いながら、その心には消えない爪痕が残っている。
それでも、笑ってみせることで自分自身と仲間を鼓舞しようとする茜の強さに、悠人は胸が締め付けられるような思いを抱く。
「油断は禁物ですよ茜さん」
リリスはそう言いつつも、表情はどこか和らいでいる。
普段は機械的な精密さで周囲を警戒するリリスだが、今はティーカップを両手で包み込み、その温かさを楽しんでいるように見えた。
睡眠薬の影響は完全に消失したようだが、その静かな横顔に微かな陰を落としている。
神崎零華は、黙って湯呑みに口をつけていた。
零華もいつもの寝巻き姿だが、そばには刀が置いてある。
どんなにリラックスした場面であっても、A級探索者としての本能だけは眠らせていない。
濡れた髪をタオルで拭きながら、一点を見つめる零華の瞳には、かつて所属していた組織への決別と、これから立ち向かうべき巨大な壁への覚悟が同居しているように見えた。
その峻烈な佇まいは、この平穏がどれほど脆いバランスの上に成り立っているかを無言で伝えている。
その横顔を見ながら、悠人は胸の奥に溜まっていたものを、そっと吐き出す決意をした。
逃げ場のない現実。
一人で背負い込むにはあまりに巨大すぎる責任感。
それらが心臓を圧迫し、言葉となって溢れ出しそうになっていく。
「……なあ、みんな」
自然と、全員の視線が悠人に集まる。
部屋の空気密度が一段階上がったような感覚がした。
「正直に聞きたい。
このまま……
このパーティ、続けたいか?」
一瞬、空気が止まった。
窓の外を通り過ぎる車の走行音だけが、不自然に大きく響く。
S級探索者に狙われた現実。
投降を迫る手紙。
危険は、もうはっきりと形になっている。
これまでは”自分たちの可能性”を信じて進んでこれた。
だが、風間次郎という怪物は、その可能性さえも一瞬で踏み潰せる力を持っている。
これ以上進むということは、文字通り死の淵を歩き続けることに等しかった。
「俺は……
危険な場所に、みんなを連れて行ってる」
悠人は、視線を伏せた。
床の木目をなぞるように視線を動かし、言葉を選び取る。
「俺と一緒にいれば、ネクロスの執念に巻き込まれ続ける。
今日のリリスみたいに、いつ命を狙われるか分からない。
俺が投降すれば、少なくともみんなの安全は保障されるかもしれない。
そう考えたら……」
悠人は、もう一度視線を落とした。
少しの沈黙のあと、言葉を続けた。
「──それでも、一緒にやっていきたいって思ってくれるなら……」
言葉が、そこで途切れる。
喉の奥が熱くなり、視界が微かに潤んだ。
自分の弱さを露呈することへの恐怖と、仲間を失うことへの恐怖。
二つの感情が胸の中で激しく衝突している。
最初に口を開いたのは、茜だった。
「当たり前でしょ」
即答だった。
迷いの一片すら感じさせない、澄んだ声。
悠人が顔を上げると、そこには射抜くような強い意志を湛えた茜の瞳があった。
「ここまで来て、今さら抜けるとか、考えたこともないよ。
悠人くんが一人で責任を感じる必要なんてない。
私たちは、自分の意志でここにいるんだから」
茜は笑顔でそう答える。
その笑顔は、これまでのどんな魔法よりも力強く、悠人の心を震わせた。
「私はマスターと一心同体です。
マスターの判断が、常に最善とは限らないかもしれません。
ですが、共に考え、共に戦う価値はあります。
私の存在理由は、マスターと共に未知を切り拓くことにあります。」
リリスも頷いた。
淡々とした口調ながらも、そこには揺るぎない忠誠と、それ以上の深い情愛が込められていた。
「……私もよ」
最後に、零華がゆっくりと口を開く。
湯呑みをテーブルに置き、真っ直ぐに悠人を見据えた。
その声は、静かだが、迷いはなかった。
「ネクロスの言いなりには、もうならない。
あの男の描く『管理』という箱庭の中で生きるより、不確実でも、貴方たちと歩む道の方が、私には価値がある。
S級が来ようと、世界が敵になろうと、私は私の剣で道を拓くわ」
悠人の胸の奥が、じんと熱くなる。
孤独だった家。
冷たかった心。
それらが、仲間たちの熱い言葉によって解かされていく。
自分は一人ではなかった。
守るべき対象だと思っていた仲間たちは、すでに自分を支えてくれる対等な戦友となっていたのだ。
悠人は、深く息を吸い、顔を上げる。
視界を曇らせていた迷霧が晴れ、進むべき航路がはっきりと見えた気がした。
「ありがとう」
悠人は意を決して、はっきりと宣言する。
「これからもダンジョン攻略を続けて──
A級の先、S級探索者にもなってしまおう」
突拍子もない提案に聞こえるかもしれない。
だが、今の悠人にはそれが唯一の、そして最も合理的な生存戦略であると確信していた。
「S級ともなれば、知名的に実力的に、奴らは手出しできないはずだ。
……逆を言うと、A級探索者になるだけではダメだ。
S級に目をつけられているから。
S級さえも跳ね除けられる実力を手に入れなくてはいけない」
A級という枠組みの中にいる限り、機構という巨大な組織の論理に飲み込まれてしまう。
悠人は言葉を噛みしめるように続けた。
「S級探索者になれば、むしろこっちが、奴らを追い込む側になれる。
……というか、追い込んでやるぜ。
理屈で人を縛り、駒として扱うネクロスの世界を、俺たちの力で上書きしてやるんだ」
拳を握りしめた。
指先に伝わる自分の拍動が、仲間たちの決意と同調していくのを感じる。
「世界が間違っていると言うのなら、俺たちが新しい世界を生成すればいい。
俺のスキルは、そのためにあるはずだ。
……みんな、一緒に戦ってくれ。」
一拍の沈黙のあと。
部屋の空気が、一つの確固たる意志へと結晶化していく。
「……うん」
茜が、力強く頷く。
「ええ」
零華が、静かに微笑んだ。
「了承しました」
リリスが、恭しく一礼する。
それぞれの声が、確かに重なった。
それは、運命に対する反逆の誓い。
自分たちの未来を自分たちで掴み取るための宣戦布告でもあった。
外ではまだ、風間次郎という怪物が獲物を狙って笑っているかもしれない。
ネクロスの冷徹な計算が、次の罠を仕掛けているかもしれない。
だが、もう悠人の心に、あの一人きりの夜のような震えはなかった。
恐怖が消えたわけではない。
しかし、その恐怖を分かち合い、共に背負い、共に乗り越えていく仲間がいる。
その事実が、何よりも強固な鎧となって悠人を包み込んでいた。
暗かったリビングは、今や四人の意志が放つ熱気で満たされている。
その瞬間、悠人は初めて、一人ではなく、共に進む覚悟を持てた気がした。




