第84話 脅迫ー5
「触らないで、マスター!」
薄暗い玄関先に、リリスの緊迫した声が鋭く響いた。
そのまま、封筒をひったくるように悠人から取り上げ、代わりに自分の顔へ近づける。
手に持っていた白い封筒は、どこまでも無機質であった。
宛名も差出人もないその空白が、かえって送り主の傲慢さを際立たせている。
リリスの端正な横顔は、解析モードに入ったかのように微動だにしない。
周囲の空気を探るように深く息を吸い込んだ。
「……薬品の匂い。
睡眠薬です。
それも、皮膚吸収や粘膜吸収を目的とした高濃度の合成揮発薬。
触れていれば、数秒で自由を奪われていたでしょう」
「なっ……」
悠人の背中を、冷たい汗が伝った。
心臓が不快なリズムで跳ね、指先が微かに震える。
たかが手紙。
そう思って不用意に手を伸ばした自分自身の甘さが、底知れない恐怖となって押し寄せてきた。
周囲の尾行者に警戒するばかりで、手元が疎かになっている。
悠人は自分の注意も散漫になっていることも感じた。
ネクロス、あるいは風間次郎。
あの一団は、もはや正攻法で組み伏せることさえ微塵も考えていない。
ただ効率的に、確実に、標的を無力化するための罠を日常の隙間に忍び込ませてくる。
「リリスは直接嗅いで大丈夫なのかよ!」
悠人は焦燥に駆られ、リリスの肩を掴もうとした。
リリスは正確には人ではないが、体の構造は人間に限りなく近いことに変わりはない。
最も近くで解析を行ったリリスが無事であるはずがなかった。
「はい。
私はこれでも基本は人間と同じ構造、大丈夫ではありません」
「何がはい、だ!
大丈夫じゃない!?」
「安心してください。
しばらく寝てしまうだけです。
うっ──」
「リリィス!」
リリスはその場で意識を失い、倒れてしまう。
まるで操り人形の糸が唐突に切れたかのような、あまりにも突発的な崩落。
悠人はリリスの体が地面に激突する前に抱きとめると、その重みを腕に感じながら、恐怖で足がすくむのを必死に堪えた。
幸いなことに、彼女は息をしている。
その胸を、体温を保ちながら上下させていた。
本当にただの睡眠薬のようだ。
膝をつき、リリスの頭を支えながら、地面に落ちたその手紙を悠人は眺める。
封筒の口から覗く便箋には、冷徹なタイピング文字が並んでいた。
『投降すれば、パーティーメンバーに危害は加えない』
手紙の中身は、短い一文のみ。
あまりにも簡潔で、それゆえに抗いようのない威圧感を放つ最後通牒であった。
それは交渉ではなく、絶対的な強者が弱者に対して下す宣告に等しい。
ここでようやく悠人は、風間次郎がなぜあの時点で撤退したのかを理解する。
あれはこの脅しの効果を確固たるものにするためだったのだ。
逆らえば、今度こそあの戦いの”続き”が行われる。
「なにをやっているの」
「うわっ──
神崎……!?」
いつの間にか後ろに神崎零華が立っていた。
彼女の左腕には買い物袋が握られ、袋に入れられた刀を背負っている。
「何よ、そんなに驚いて。
はいこれ。
頼まれたもの、買ってきたわよ。」
その後、悠人は零華に事情を説明し、その後リリスを自宅に運び込んだ。
ソファへ寝かせた後、悠人は一人で遠目からその手紙を見つめ続ける。
ソファで規則正しい寝息を立てるリリスの姿を見つめるたび、自責の念が胸を締め付けていた。
自分の存在そのものが、大切な仲間を危険に晒す発火点となっているという現実は、あまりにも重く、鋭い。
(──完全に、狙われている)
すでに何度も襲撃を受けているが、今回は次元が違う。
S級探索者が、こちらを狙っているのだ。
実感するたび、心臓が早鐘を打つ。
風間次郎という、今までとは一線を画した暴力の化身。
あの男の気まぐれ一つで、この日常は容易く、無慈悲に粉砕される。
下手な殺意に満ちた襲撃よりも、よっぽど恐怖を覚える”撤退”であった。
姿を見せず、ただ一枚の紙切れでこちらの精神を摩耗させる。
その狡猾な手口に、逃げ場のない閉塞感が部屋の隅々にまで満ちていた。
「……ここまで、来てるんだ」
漏らした声が、わずかに震える。
窓の外で風が吹き、木々が揺れる音さえ、誰かが侵入しようとする気配のように感じられた。
◇
その夜、インターホンが鳴った。
突如として静寂を切り裂いた高音に、思わず悠人は悲鳴をあげそうになる。
「私が出るわ」
零華は刀の柄に手をかけたまま、玄関へと向かった。
悠人の全身の筋肉が硬直し、呼吸を止める。
早くもネクロスの使いが来たのだろうか。
あるいは、風間次郎が”任務”を完遂しに来たのか。
冷や汗が頬を伝い、玄関のドアがこの世で最も恐ろしい境界線のように思えた。
だが、扉の外から聞こえてくるその声には、随分と聞き覚えがある。
安心感さえ抱かせる響きであった。
「へへ。
来ちゃった」
早乙女茜だった。
恐る恐る解錠した扉の向こう側、廊下の街灯に照らされた彼女の顔を見た瞬間、悠人は膝の力が抜けるほどの安堵を覚える。
神崎零華は、厳しい中にも憂いを含んだ瞳を彼女に向けた。
「早乙女茜。
道中、大丈夫だった?」
「──大丈夫というと、嘘になるかな」
茜は擦りむいたような傷がついている手のひらを、腰の後ろへと隠した。
不安を押し殺して懸命に微笑もうとする茜の表情が、零華の後ろに立つ悠人の胸に突き刺さる。
「今日は……
みんなでいよう」
茜の言葉に、悠人は黙って頷く。
言葉は必要なかった。
共有している恐怖。
このままパーティメンバー抜きの一人で、夜を越すことの耐え難い重圧を誰もが感じていたのだ。
キッチンに立ち、皆で夕食を作り始める。
途中でリリスも目覚め、夕食作りを手伝い始めた。
いつものように、しかしどこか特別に丁寧な動作で、食材が切り分けられていく。
トントンと響く包丁の音。
「なんだ神崎さん。
剣の使い方は上手いのに、包丁は下手くそなんだね」
「う、うるさいわね!
お前を先に刻んでやるわよ早乙女茜!」
「ひぃいっ!
私に刃物を向けないでください神崎さん!」
「茜さんは零華さんの邪魔をせずにこっちを手伝ってください。
リリスはピンチです。」
ジューという音と共に立ち上がる、フライパンの香ばしく弾ける音。
それら生活の音色が、不気味に静まり返っていた部屋に温かな命を吹き込んでいく。
他愛ない会話。
今日あった出来事、攻略したダンジョンの反省、些細な冗談。
それだけで、張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいく。
外部の脅威という猛毒に対する唯一の解毒剤は、この何気ない共同生活の中にあった。
「悠人、味見してみて」
茜がスプーンを差し出す。
湯気と共に広がる温かいスープの香りに、悠人の鼻腔がくくすぐられた。
差し出されたそれを口に含むと、滋味深い味わいが冷え切った身体の芯へと染み渡っていく。
「……うん、美味しいよ」
「よかった。
少し塩、控えめにしたんだけど」
茜は、ほっとしたように微笑む。
その笑顔の裏側に、まだ消えない不安が潜んでいることを知っていても、今はその温かさに縋りたかった。
「……おい天野。
わ、私のも食え──」
零華もその頬を赤く火照らせながら、悠人に肉を差し出してくる。
「えと──」
「何をやっている、口を開けろ。
ほら」
「あ、アーン」
「ふん、上手いか?」
「あっつっ──!!」
食後、順番に風呂へ入ることになる。
一番先に風呂に入ったリリスは、リビングの隅で静かにハーブティーを飲んでいた。
「──調子はどうだ、リリス」
「はい、大丈夫ですマスター」
「……そうか、良かった」
「ほら次、悠人だよー」
茜に言われ、脱衣所に向かうと、ちょうど零華が出てくるところだった。
「……っ」
一瞬、視線が合う。
湯気と共に立ち昇る石鹸の香りと、濡れたまま肩に張り付いた髪。
零華は、わずかに目を逸らした。
普段の冷静沈着な戦士の面影は影を潜め、一人の脆い人間としての素顔がそこにはあった。
「……早く入りなさい。
冷めるわよ」
「は、はい……」
短く、突き放すような言葉。
だが、その声には微かな震えが混じっていた。
どこか気まずい空気に、心臓が無駄に跳ねる。
それは恐怖による鼓動ではなく、もっと泥臭く、生きていることを実感させるような、生身の反応だった。
「──それとも何、私と一緒に入りたかった?」
「そ、そんなわけ──
そんなわけ……
いいの?」
「いいわけないわよ、さっさと入りなさい!!」
「いてぇっ」
悠人はケツを蹴られ、脱衣所に突き飛ばされる。
その後、風呂場で一人、湯に浸かりながら、天井を見上げた。
浴室のタイルを伝って落ちる水滴の音。
白く濁る湯船の熱気。
外の世界では、依然としてS級という名の怪物が自分たちを監視している。
ネクロスの理屈が、容赦なく自分たちの破滅を計算し続けていた。
S級に狙われた現実。
自分一人の問題ではない。
茜を、リリスを、この家まで訪ねてきてくれた零華までも、取り返しのつかない危険に巻き込んでしまうかもしれない。
”投降すれば──”
という言葉が甘い誘惑のように脳裏をよぎる。
自分が犠牲になれば、この平和を守れるのではないか。
そんな卑屈な自己犠牲の念が、黒い霧となって意識を覆おうとしていた。
(──俺は、本当に、このパーティを守れるのか……?
このパーティーを、そもそも続けていいものなのか……?)
答えは、まだ見えない。
風間次郎との圧倒的な力の差を思い出すたび、握りしめた拳が虚しく湯船を叩く。
リアル生成AIスキルという武器を持っていても、それを使う”素質”がまだ追いついていない。
自分たちの居場所を、自分たちの未来を、どうすればこの理不尽な世界から守り抜けるのか。
(それでも──)
風呂の扉越しに、微かに聞こえてくる声があった。
茜の明るい声と、それに答えるリリスの淡々とした口調。
時折混じる零華の静かな相槌。
それは、どれほど強力なスキルや権力を持ってしても、決して生み出すことのできない、不器用で、しかし強固な絆の音だった。
一人ではないという感覚。
守るべきものが明確であればあるほど、人は残酷なまでの恐怖を知る。
だが同時に、その恐怖を燃料にして立ち上がる強さも得ることができる。
湯から上がり、濡れた髪を拭きながら居間へと戻った。
そこにあるのは、明るい光の下で肩を寄せ合う仲間たちの姿。
外敵の影に怯えながらも、今この瞬間の命の輝きを慈しもうとする、尊い人間の営みがそこには息づいていた。
世界は一段、危険な顔を見せた。
明日にはまた、絶望が扉を叩くかもしれない。
それでも、皆の笑い声が、確かにそこにはあった。




