第83話 脅迫ー4
B級ダンジョンのボス部屋は、戦闘の余韻だけを残して静まり返っていた。
ボスが倒されているので、ダンジョンの崩壊は先ほどからすでに始まっている。
だが、まだ時間はあった。
やはりあのS級探索者は、自分達がここに来る直前まで、ダンジョンの崩壊を始めさせないよう、ボスを生かしていたのだろう。
天井からパラパラと剥落する砂塵の音だけが、不気味なメトロノームのように広間に響いている。
つい数分前までそこにあったはずの、S級探索者の威厳と圧倒的な魔力。
B級ダンジョンのボスが一瞬で撃破されていたのは想像に難くない。
抵抗する暇さえ与えられず、ただ”作業”として処理された残滓。
壁に深く刻まれた一撃の痕跡。
それは、悠人たちが必死に積み上げてきた「攻略」という概念を、根本から嘲笑うかのような圧倒的な暴力の証明でもあった。
「……あいつ、完全に去ったようね」
零華が刀を下ろし、深く息を吐く。
鞘に納める際、指先が微かに震えているのを悠人の目は見逃さなかった。
彼女の強固な斬撃も、彼には軽くいなされていた。
A級探索者とS級探索者の間に広がる差は、他の階級の比ではない。
おそらくS級が天井というだけで、S級探索者の力は、どこまでも高く伸びつつづけているのだろう。
風間次郎の姿は、すでにどこにもない。
一瞬で溶けるように消えたその背中は、追いつくことのできない絶望的な距離感となって、悠人たちの胸に深く刻み込まれていた。
「助かった気が──
全然しないよ……」
茜の言葉を、誰も否定できない。
彼女の肩はまだ小さく震え、握りしめた杖は手汗で湿っている。
勝負にさえなっていなかったのだ。
一方的に弄ばれ、飽きたから去られた。
生存しているという事実は、実力で勝ち取ったものではなく、ただ相手の慈悲──
あるいは「依頼」という名の制限によるものでしかなかった。
悠人は膝に手をつき、荒い呼吸を整える。
肺が焼けるように熱い。
脳髄の奥が、過剰なコスト消費によってズキズキと脈打っている。
“概念生成”をできる限り使い、零華とリリスの連携も噛み合っていた。
思考を加速させ、一瞬の隙に全霊を叩き込んだはずだった。
それでも、風間次郎は最後まで余裕を崩さなかった。
(──あいつ、全然全力を出していなかった。)
その事実が、鋭い氷の棘となって胸を締め付ける。
全力を出し切り、なおかつ届かないという経験は、これまでのネクロスの刺客たちとの戦いでは味わったことのない種類のものだった。
計算が立ち、勝機を見出せる"ゴールが見える強さ"ではない。
測ることのできない、深淵のような強さ。
「S級……
あれが頂点なのですね、マスター。」
リリスが静かに呟く。
弓を引き絞っていた右手の緊張は解けていたが、その双眸はかつてないほど鋭く細められていた。
聲音には、恐怖と同時に、はっきりとした危機感がある。
リリスの持つ解析能力を以てしても、風間次郎の挙動は"不明なエラー"の連続だったのだろう。
「狙われた、ってことだよね、私たち。」
茜の言葉に、空気が重くなる。
逃げ場のないボス部屋の空間が、さらに狭まったかのような錯覚。
彼はネクロスの刺客と見ていいだろう。
あの男の執念が、ついにS級という最凶の牙を解き放ったようだ。
それは、もはや一勢力の策略という次元を超え、この国そのものが敵に回ったかのような絶望的な響きを持っていた。
悠人は、仲間の顔を順に見る。
(誰一人として怪我はない。
無事だ。
──それでも……)
心臓が痛いほどに警鐘を鳴らしている。
今回は見逃されたに過ぎない。
もし、あの男が自分たちを「殺せ」と命じられていたなら、今この場所に残っているのは肉塊だけであったろう。
(──次にあいつが来た時、俺たちは一体どうなる……)
崩壊を告げる空間の震えが強くなる。
悠人たちは沈黙のまま、崩れゆくダンジョンゲートを抜けて現実世界へと帰還した。
◇
ダンジョンから戻って以降、日常は目に見えて変わっている。
かつてはただの風景に過ぎなかった街のノイズが、今はすべて不協和音として耳に届いていた。
ギルドへ行く際に通る道。
建物の屋上、電柱の陰、あるいはすれ違う人々の視線。
すべてが自分たちを射抜く針のように感じられる。
トレーニング場の窓の外。
曇り空の下で翻るカーテンの隙間、不自然に停車し続ける黒塗りの車。
それらすべてが、風間次郎という怪物の影に見えてしまう。
帰り道の角。
街灯が点滅するたびに、死角からあのラフなジャケットの男が、歪な笑みを浮かべて現れるのではないかという幻覚が脳裏をよぎっていた。
どこかで、視線を感じる。
それは肌を焼くような熱を帯びた、執拗で粘着質な観測者の視線だった。
「……気のせい、じゃないよね」
共に歩いていた茜が小声で言う。
買い出しの帰り道、夕暮れに染まる住宅街の静寂が、かえって不安を増幅させていた。
茜は悠人の袖をぎゅっと掴み、周囲を怯えるように見渡す。
「ああ。
明らかに、監視されてる」
悠人は、できるだけ平静を装いながら答えた。
ラーニングス機能を用いた”疑似レーダー”によって、すでに尾行者の存在は客観的にも明らかになっている。
ラーニングスキルで感知したデータは、幸か不幸か、尾行者が風間ほどの強者の者ではないことも同時に示していた。
彼ほどの実力者ならば、そもそも感知できないか、もっと強大な情報をスキルが示してくるだろう。
別の人間が複数、自分たちの監視を行っているようだ。
スキルで得られた統率された装備の情報から、おそらく機構の人間──
ネクロスの刺客だろう。
総合的に見て、監視者自体は、風間次郎よりも数段格下、B級程度の実力であることは分かった。
流石に、S級探索者級の人間たちが何人も悠人たちの監視についているわけではないらしい。
あるいは、半端な実力者によって、あえて気配を漏らすことで、悠人たちの精神を追い詰めようとしているのかもしれない。
直接的な暴力よりも遥かに質の悪い、精神的な包囲網。
このスキルは色々と応用が利いて便利だが、同時にストレスを増幅させるものでもあった。
声が震えないよう、奥歯を噛みしめる。
平静を装うことが、仲間の心を辛うじて繋ぎ止めるための唯一の防波堤だった。
「──それじゃ、またね悠人。」
「……あぁ、気をつけろよ、茜。
何かあったらすぐにそれを使ってくれ。」
「──うん。」
悠人は茜と分かれ、一人で自宅へと向かう。
茜のその手には、悠人が生成した”十分間不可視の概念”が握られていた。
それは透明な球体の形をしており、触感でしか茜や、その他悠人以外の人間は認識することができない。
一定の衝撃を加えると発動し、茜が十分間だけ透明になれる仕組みとなっていた。
念の為に悠人が持たせた、非常用の生成物。
大切な人間たちを巻き込んでしまっているという罪悪感が、時間の経過とともに彼の内側で増幅しつつあった。
「お帰りなさい、マスター。」
「──リリス、迎えに来てくれたのか。
ただ、危ないから外にあまり姿を見せないでくれ」
茜と分かれてしばらくすると、悠人は自分を迎えに来たリリスと合流する。
現実世界では武器の露出が厳禁なため、リリスは専用の袋に入れた弓を背中に背負った状態でやって来ていた。
「マスター」
「あぁ、俺も気づいてる。
尾行は極力気づかないふりをした方がいい。
より巧妙な追跡方法をされるのは面倒だからな。」
「了解しました」
◇
その日の夕方。
夕闇が部屋の隅々にまで忍び込み、不安が輪郭を濃くしていく時間。
リリスと共に自宅へ到着した悠人は、ポストに入った一通の封筒に気づいた。
白く、無機質な封筒。
宛名はなく、切手さえ貼られていない。
誰かが直接、この部屋の入り口にまで辿り着き、音もなく差し入れていったようだ。
「……手紙?」
差出人はない。
疲れていた悠人は一呼吸置き、とりあえず紙を半分ほど引き出して中身を確認しようとする。
その瞬間。
「待ってください!」
リリスが、素早く手を伸ばした。




