第82話 脅迫ー3
風間が踏み込んだ瞬間の圧力だけでボス部屋の堅牢な石床がクモの巣状に砕け散り、同心円状に瓦礫が跳ね上がる。
爆風に近い衝撃波が、肌を灼くような摩擦熱を伴って押し寄せた。
床が砕け、衝撃波が走る。
零華が即座に割って入り、悠人を庇った。
かつてネクロスの下で冷徹な剣士として磨き上げられた反射神経だけが、この超常的な速度に辛うじて追従している。
零華の銀髪が衝撃に煽られて激しく舞い、手に持った剣が防壁となって火花を散らしていた。
「全員、自分の身を守ることに集中しろッ!」
零華が怒号を上げる中、悠人の視界は白濁し、平衡感覚が狂わされている。
鼓膜を打つ轟音と、肺を圧迫する魔力の奔流。
自分たちがこれまで積み上げてきた「強さ」という積み木が、巨大な嵐の前に一瞬で瓦解していくような絶望感が脳髄を駆け抜けていた。
悠人が慌てて視線を元に戻すと風間は、すでに別の位置に立っている。
最初からそこにいたかのように、一点の塵も纏わず、呼吸一つ乱していない。
砕けた石床の破片がゆっくりと地面に落ちる音だけが、今の突撃が現実であったことを証明していた。
「さすが零華ちゃん!
今の、よく反応したね」
「ッ──!」
軽い口調とは裏腹に、その一撃は圧倒的。
力の次元が違う。
これまで対峙してきた刺客たちが、論理の積み重ねによる「技術」だったとするならば、風間次郎のそれは、存在そのものの「質量」による蹂躙だった。
計算式が成立しない。
予測が意味を成さない。
(……これが、S級探索者。)
悠人は歯を食いしばる。
始めて零華を学習したときのように、うまくデータを取り込むこともできないようだ。
全身の細胞が
「逃げろ」
と警報を鳴らしていた。
しかし、背後には震える茜と、冷静さを保とうと必死なリリス、そして前線で剣を構える零華がいる。
逃走という選択肢は、悠人の内側にある「責任」という名の鎖によって封じられていた。
「くっ……
生成!」
概念生成を発動し、即席の”概念の防壁”を展開する。
悠人の意志に応じ、虚空から幾重にも重なる幾何学的な紋様が浮かび上がり、物理的、魔術的双方の干渉を遮断する、あくまで不完全な盾が出現した。
物理生成は先の一件で相変わらず使用することができない。
ただ、概念を練り固めて作り上げたそれは、物理的な攻撃を防げる盾となることに変わりはないはずであった。
だが、それすら──
紙のように打ち抜かれていった。
気づけば風間が軽く振った剣の風圧が、防壁に触れた瞬間、概念の盾はガラス細工のように脆く砕け散る。
破片が光の粒となって霧散していった。
「嘘だろっ……!?」
悠人の精神に、生成物を破壊されたことによる鋭いフィードバックが走り、視界が赤く染まる。
「悪くない。
でも、悪くないってだけだな。
良いわけでもない。
魔力でゴリ押しすれば、まだまだ全然粉砕できる。
大したことはないな!」
風間は感心したように言いながら、再び一歩歩き出す。
一歩。
たったその一歩で、空間の距離感が歪む。
風間の周囲の魔力が渦を巻き、悠人たちの動きを封じる粘り気のある重圧へと変えた。
「お前の相手は私だっ」
零華が斬りかかり、リリスの矢が飛ぶ。
零華の剣筋は、もはや目視できないほどの速さで風間の急所を穿とうとしていた。
リリスの放つ矢は、空気を引き裂く音さえ置き去りにして風間の眉間を狙う。
さらに茜の魔法が空間を歪めた。
地面から噴き出す衝撃波と、重力さえも捻じ曲げる魔力の渦が、風間という特異点を消し去ろうと殺到する。
だが、どれも決定打にならない。
風間は、すべてを余裕で捌いていた。
飛来する矢を指先で弾き飛ばし、零華の剣撃を最低限の動きで回避する。
茜の放つ高火力の魔法に至っては、あたかも不快な煙を払うかのように、素手で空間ごと振り払ってみせた。
その一挙手一投足に、一切の淀みがない。
「いやあ、楽しいな。
B級で、ここまでやれるパーティは珍しい。
……まぁ、ほとんど零華ちゃんのおかげだけど」
「だまれぇっ」
まるで、遊ぶような目。
風間の瞳には、戦闘者としての敬意ではなく、優秀な検体を見つめる学者のような、あるいは手応えのある玩具を喜ぶ子供のような光が宿っていた。
怒る零華の斬撃を片手握った剣でいなし続けている。
「──スキル、使わないのか?」
風間は零華の耳元で彼女にしか聞こえない声で囁く。
零華は大きく後方へ飛び、剣を構え直した。
その瞳には動揺が浮かんでいる。
「で!
これだけかい?」
今度はこの場にいる全員に届く声で、風間は確認してきた。
改めて息を切らしている悠人たちを笑顔で見渡す。
その無邪気さが、何よりも恐ろしかった。
悠人は、はっきりと理解する。
(──勝てない。)
理屈だけではない。
本能が、そして研ぎ澄まされた感覚が、目の前の男との絶望的な断絶を告げていた。
今まで対峙してきた敵は、どんなに強くても「人間」の延長線上にいた。
所詮は血を流す、殺せる存在。
しかし、風間次郎という存在は、もはや自然災害そのものだった。
嵐を言葉で説得できないように、地震を力で押し留められないように、この男を止める術を、今の悠人たちは持っていない。
今までとは、土俵が違う。
ルールが違う。
自分たちが懸命に登ってきた階段の、遥か上空を”浮遊”している存在。
これがS級探索者と対峙するという現実だった。
「今日は、このくらいでいいや」
風間は、ふっと距離を取る。
嵐のような圧迫感が、一瞬にして霧散していった。
「……は?」
あまりの落差に、悠人の膝がガクリと折れそうになる。
肺に酸素を取り込もうとするが、喉が引き攣れて上手く呼吸ができない。
「顔も覚えたしね」
そう言い残すと、風間の姿は闇に溶けるように消えた。
去り際の風だけが、残された四人の頬を冷たく撫でる。
「意味が──
分からない……」
そこにいたはずの絶対的な捕食者の気配は、最初から幻であったかのように消失していた。
◇
沈黙が、ボス部屋を支配する。
崩れた天井から落ちる砂の音、砕けた床の破片が転がる音。
それらが耳に痛いほど響く。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
発せられる言葉など、この圧倒的な無力感の前では何の役にも立たないことを、全員が痛感している。
「……生きてる」
茜が、ようやく息を吐く。
「わ、私、生きてる……
生きてるよね……?」
その声はかすれ、今にも消えてしまいそうだった。
座り込んだまま、震える手で自分の肩を抱く。
茜の瞳には、死の淵を覗き込んだ者特有の、底知れない恐怖が沈殿していた。
悠人は、拳を強く握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
その痛みが、唯一の現実感を与えてくれた。
S級探索者に、狙われた。
それは、ネクロスという一人の男を越え、この世界の頂点に立つ力が、自分たちを”獲物”として認識していることを意味する。
事実が、重く胸にのしかかっていた。
今まで、リアル生成A Iスキルがあれば、仲間を守り抜けると考えていた。
慢心していたわけではない。
しかし、どこかで
「何とかなる」
という根拠のない全能感に縋っていたのかもしれない。
風間次郎は、その薄っぺらな自信を粉々に粉砕していった。
(──俺は本当にこのパーティを守れるのか……?)
胸の奥で、答えのない問いが渦巻く。
強くなければならない。
誰よりも、何よりも。
だが、強さの果てが、あの風間次郎のような化け物の巣窟なのだとしたら、自分たちはどこへ向かえばいいのか。
辿り着けない。
守るために力を求め、力を求めるほどに、より巨大な暴力に晒されていた。
この圧倒的な弱肉強食の世界に、自分たちの居場所はあるのだろうか。
暗いボス部屋の静寂の中で、悠人は自らの無力を噛みしめる。
リリスは静かに弓を下ろし、零華は折れなかった剣を見つめて佇んでいた。
茜はまだ立ち上がれずにいる。
自分たちが「表」に出ることを選んだ矢先に突きつけられた現実。
それは、あまりにも重く、鋭いものだった。
ネクロスが放ったのは、物理的な刺客だけではない。
”自分たちの無力さ”という、心に巣食う最大の毒を、最強の駒を使って送り込んできたようだ。
自分たちがどう抗えばいいのか、この絶望をどう乗り越えればいいのか。
悠人の目には、まだ一筋の光も見えていなかった。




