第80話 脅迫
B級ダンジョン・『濃山の老宮殿。』
ダンジョン内に足を一歩踏み入れた瞬間から、肺に流れ込む空気の重みがこれまでとは明らかに異なっていた。
湿り気を帯びた石の匂い、古の魔力が澱みとなって沈殿しているかのような、粘り気のある沈黙。
これまでのダンジョンが「迷宮」であるならば、ここは「墓所」に近い静謐さと、底知れぬ死の匂いに満ちていた。
壁面に埋め込まれた発光石は鈍く光り、影を不自然に長く伸ばしている。
「……重いね」
茜が小さく呟く。
その声は、広大な石造りの通路に吸い込まれるように消えていった。
通路の幅は優に十メートルを超え、天井は遥か高みで見えないほどの闇を湛えている。
C級ダンジョンまでとは比べものにならない圧迫感が、肌にまとわりついていた。
ただ歩いているだけで、体力を削られるような感覚。
精神を研ぎ澄ませていなければ、この静寂そのものに押し潰されてしまいそうだ。
「皆さん、警戒を怠らないでください」
リリスは弓を構え、視線を左右に走らせる。
無機質な瞳は、暗がりの僅かな揺らぎも見逃さないよう鋭く光っていた。
彼女の指先は、いつでも矢を放てるよう弦に添えられている。
その徹底した戦闘態勢が、この場所の危険度を無言のままに物語っていた。
零華は先頭で足を止め、静かに周囲を確認する。
手にした剣の柄を握りしめ、周囲の魔力密度を確かめていた。
それは、経験に裏打ちされた直感による行動に他ならない。
「──モンスター、全然いないわね」
かつて多くの修羅場を潜り抜けてきた彼女でさえ、この場所の異様さには眉を顰めていた。
凛とした横顔には、普段の余裕を削ぎ落とした、戦士としての剥き出しの緊張が張り付いている。
その言葉通り、しばらく歩いても、ここまでの道中に目立った強敵は見当たらない。
本来、B級ダンジョンともなれば、通路の至る所に強力なモンスターが湧いているはずだ。
少なくとも零華が経験してきたB級ダンジョンはそうであった。
壁を這う凶悪な魔獣や、死角から牙を剥く暗殺者のようなモンスター。
それらの気配が、全くと言っていいほど感じられない。
ただ、戦いの残滓──
引き裂かれた肉壁や、抉り取られたような地面の傷跡だけが、つい先刻までここが戦場であったことを示していた。
その破壊の痕は、あまりにも一方的。
分厚い岩盤が飴細工のようにネジ切られ、逃げ惑ったであろう魔物の体液が、壁一面に抽象画のような惨状を描いている。
されど、一向にモンスターは姿を現さない。
「静けさ」が、本能的な恐怖を煽る。
まるで、巨大な肉食獣が通り過ぎた後の荒野を歩かされているような、得体の知れない無力感が一行を支配していった。
「一応聞いとくけど、このダンジョンの予約、最近まで入ってなかったよな?」
悠人は自分でとっくにその情報を確認済みでありながらも、念の為に尋ねる。
このダンジョンには予約など過去一ヶ月の間は少なくとも入っていないのは、探索者施設で確認済みだ。
「えぇ、間違いなく予約なんてされてなかったわ。
不法に立ち入る輩がいたとしても、B級ほどの難易度だと、デメリットの方が多すぎる」
「……そうか」
(──嫌な予感がする。)
悠人は無意識に、パーティーメンバーの盾になるよう前へ出る位置を取っていた。
心臓の鼓動が早まっていく。
A級探索者になると決意してから、順調に日々を過ごす中で、
「嵐の前の静けさ」
という言葉が頭にこびりついて消えなかった。
仲間を背にかばうような立ち位置。
それが、いつもの癖になっている。
もし何かが前方から飛び出してきたとしても、真っ先に盾となり、スキルで対抗できるように。
彼の掌には、すでに冷や汗が滲んでいた。
やがて、一行はボス部屋の扉の前に立つ。
とうとう道中で一度もモンスターと戦うことなく、たどり着いてしまった。
目の前には、巨大な石扉。
そこには禍々しい彫刻が施され、内側から溢れ出す圧倒的なプレッシャーが扉の隙間から漏れ出していた。
本来、この扉の向こう側は、命を懸けた死闘が約束されている場所だ。
それ相応の覚悟が必要なはずの場所。
「……行くぞ、みんな」
皆が頷く姿を確認すると、悠人はゆっくりとその扉を押し開ける。
重厚な音が響き、扉がゆっくりと左右に開いていった。
◇
中は、静まり返っている。
広大な円形の空間。
本来なら、巨大なボスモンスターが鎮座しているはずの場所にその姿はない。
視界に飛び込んできたのは、静寂に包まれた広間だった。
天井のシャンデリアのような魔石が、無機質な光で部屋の隅々までを照らし出している。
そこには守護者の雄叫びも、威圧感も存在しなかった。
ただ、冷たい空気だけが循環している。
代わりに、床にはすでに倒された痕跡が残っていた。
砕けた魔核、消えかけの残滓。
広間の中央には、かつてこの階層を支配していたであろう巨大な魔物──
つまりボスモンスターの成れの果てが、炭化した肉片となって散乱していた。
強固な外殻を誇っていたはずの甲殻は粉々に砕け散り、周囲の壁には凄まじい衝撃で穿たれたクレーターのような痕跡が無数に刻まれている。
その惨状は、戦いと呼ぶにはあまりに短時間で終結していることを物語っていた。
「……誰かが、先に倒したってこと──?」
茜の声が、わずかに震える。
ボスモンスターに当たるものを倒すと、ダンジョンは崩壊を始める。
悠人たちがここに来るまで、ダンジョンは崩壊など始めていない。
つまり、このボスモンスターは今しがた撃破されたものに違いはなかった。
悠人たちがこのダンジョンに入ってから、ここに到達するまでそう長い時間はかかっていない。
この規模のモンスターを、自分たちが到着するまでの短い時間で、これほどまでに一方的に蹂躙できる存在。
常識の範疇を超えていた。
茜は自身の魔法効果を強める杖を握る手に、さらに力を込める。
本来その杖を向けて攻撃を放つ対象となるべき「敵」の死骸を前に、困惑だけが膨らんでいた。




