第77話 最後の賭けー3
待ち合わせ場所に選ぶにはあまりに殺風景で、陰惨な雰囲気が漂っている。
しかし、コンクリートの床を踏み鳴らして近づいてくる人物には、そんな環境を気にする様子など微塵もなかった。
足元に転がる錆びたボルトを無造作に蹴り飛ばす。
ポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうに周囲を見渡しながら、こちらにゆっくりと歩いてきていた。
ラフなジャケットを着崩し、足取りは軽い。
まるで散歩にでも来たかのような雰囲気であった。
手入れの行き届いていない翡翠色の髪を雑に揺らし、男はネクロスの数メートル手前で足を止める。
周囲の空気とは明らかに異質な、軽薄さと底知れぬ圧迫感を同時に放っていた。
その全身から漂うのは、日常に馴染んでいるようでいて、その実、あらゆる生命を軽んじている強者の余裕に他ならない。
その瞳は、深淵を覗き込むような暗さを湛えつつ、同時に子供のような無垢な残酷さを宿していた。
「やあ!
こうして直に会うのは始めてだね。
驚いたよ、統制機構の偉い人が、直々に呼び出すなんてさ。
──こんな辺鄙なところで」
男は笑う。
その笑顔には親しみやすさなど一片もなく、嘲笑の意味が大きかった。
剥き出しの牙は見せずとも、言葉の端々からは相手を飲み込もうとする圧力が滲み出ている。
S級探索者──
風間次郎。
彼を知る者の中で、その名を聞いて眉を顰めない人間はいない。
圧倒的な実力を持ちながら、その行動原理は謎に包まれており、滅多に依頼には応じない人物だ。
機構が定める倫理規定など、風間次郎にとっては破るために存在する紙切れに過ぎなかった。
彼はかつて、たった一人でS級ダンジョンから溢れ出たモンスターたちを蹂躙し、それらのモンスターに占拠されていた都市の生態系を、モンスターもろとも壊滅させたことさえある。
ネクロスにとって、風間次郎のような存在は本来、真っ先に排除、あるいは完全な隔離の対象となるべき不確定要素であった。
表向きでは、法と秩序の番人であるネクロスと、混沌の体現者である風間。
両者は本来、同じ空気を吸うことすら許されない水と油の関係である。
しかし、現在の窮地を脱するためには、この猛獣の首輪を一時的に預かるほか道はなかった。
たとえ己が、返り血で汚れることになろうとも。
「単刀直入に言おう」
ネクロスは前置きを省いた。
感情を殺し、事務的なトーンを維持する。
視線を逸らせば、一瞬で精神の均衡を食い破られる確信があった。
相手に主導権を握らせないための、せめてもの抵抗である。
「──”誘拐”の依頼だ」
「へえ?」
風間次郎は、面白そうに眉を上げる。
その瞳の奥に、ギラリとした光が宿った。
「先のミーネスの探索者の一件と違って、殺害ではなく、誘拐ねぇ」
単なる「殺し」ではなく「誘拐」という指示に、事の複雑さを察する。
風間の脳内では、すでに不吉なシミュレーションが始まっていた。
「報酬はいくらだ?」
まるでそれしか興味のない様子で、特に深く聞いてくることもなく、そっけなく尋ねてくる。
探索者としての誇りも、社会的な大義も、彼の前では意味を成さないようであった。
提示される価値が、自身の退屈を埋めるに足るかどうか。
それが唯一の基準である。
金、あるいは流血。
彼を動かす秤は、常人のそれとは決定的に異なっていた。
「言い値だ」
一瞬の沈黙。
廃工場を通り抜ける風の音だけが、ネクロスの耳に届く。
沈黙は数秒だったが、ネクロスにはそれが永遠のようにも感じられた。
風間の視線が、こちらの喉元を値踏みするように這い回る。
その後、風間次郎は表情だけ動かして笑った。
声に出さない笑みが、その顔を醜悪なほど愉悦に歪ませる。
「良い値だ!
乗った!」
即答だった。
ネクロスが提示した「白紙の小切手」という破格の条件に、風間次郎の理性が抗う理由はない──
はずだ。
先の一件も多額の報酬を与えることによって了承していた。
あるいは、理屈に拘泥するネクロスが、ここまでなりふり構わず自分を頼ってきたという事実そのものが、風間次郎にとって最高の肴であったのかもしれない。
少なくともネクロスは、風間次郎の脳内を正確に把握することはできなかった。
「統制機構」という巨大な権威が、一人の男の前に膝を屈した瞬間。
風間次郎はその屈辱の味を、何よりも楽しんでいるようだった。
上がった口角によってできた彼の皺が、さらに深くなっていく。
「で、ターゲットは?」
「高校生の探索者だ」
「はは、簡単そう……
って顔じゃないね、それ」
風間次郎はネクロスの目を見て、口元の笑みを若干緩める。
ネクロスの双眸に宿る、外から見ても拭いきれない焦燥と、天野悠人という存在に対する正体不明の恐怖。
それを、目の前のS級探索者は鋭く見抜いていた。
風間にとって、依頼主の怯えは最高級のスパイスであった。
「なるほど。
だから“誘拐の依頼”なんだ。
殺しじゃない」
納得したように頷く。
”殺す”ことよりも”生け捕り”にすることの方が、圧倒的に難易度が高い。
対象が想定外の力を持っている場合なら、なおさらだ。加減を誤れば死なせ、油断すれば逃げられる。
あるいは、自分が死ぬ羽目になるだろう。
絶妙なバランスを維持しながら、未知の能力を持つ少年を制圧する。
風間次郎にとって、それは久々に巡り会った「骨のある遊び」に見えたに違いない──はず。
彼の指先が、無意識に獲物を求めるように小さく動いていた。
「余計なことはするな」
ネクロスが念を押し、刺すような視線を向ける。
「──天野悠人を傷つけるのは最小限に留めろ。
必要なのは、あの少年の能力の根源と、その身そのものだ。
死体には何の価値もない」
「あぁ、分かってるさ!」
風間次郎は軽く手を振った。
その動作には、依頼主に対する敬意など微塵も含まれていない。
「仕事は仕事。
──S級探索者である俺に任せときな」
絶対的な自負。
数多の死線を越え、理外の魔物を屠ってきた風間次郎にとって、相手が誰であれ「敗北」の二文字は存在しない。
ネクロスはその傲慢さに不快感を覚えながらも、今の自分にはその傲慢さこそが必要であるという矛盾を噛みしめる。
秩序を守るために、最も秩序から遠い存在を解き放つ必要があった。
S級探索者に命じる誘拐の依頼。
この選択がもたらす結末を、計算は導き出せていなかった。
ネクロスは、ただ一言だけ返す。
「──失敗は許されない」
「それはこっちの台詞だよ」
風間次郎は踵を返し、歩き出していった。
出口に向かう足取りは、先ほどよりもさらに軽やかで、内側から溢れ出す闘争心を抑えきれないかのようだ。
その背中からは、先ほどまでの軽薄さが消え、代わりに純粋な「暴力」の輪郭が浮き彫りになっていくのを感じさせる。
「久しぶりに、面白い獲物だ。
モンスター以外の難敵と戦闘する機会なんてなかなか無いからな!」
高笑いを残して、その姿は暗闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、錆びた匂いと、ネクロスの重苦しい沈黙。
遠くで響く廃材の崩れる音が、破滅の序曲のように聞こえた。
その背中を見送りながら、ネクロスは確信する。
これは賭けだ。
自身がこれまで積み上げてきた地位も、理想も、あるいは機構の未来さえもチップとして積み上げた、破滅的なギャンブル。
だが、理屈の上では最善手に変わり無い。
天野悠人というイレギュラーを排除、もしくは完全に制御下に置くためには、同じく既存の枠組みを外れた風間次郎という毒をぶつけるしかない。
窮屈な社会の住人では、あの少年の「異常性」には対抗できないのだ。
例え、その結果として世界の一部が壊れることになっても、彼をこの手に収める必要がある。
ネクロスは懐から取り出した別の端末を見つめた。
そこには天野悠人の行動記録と、これまでの戦闘データが執拗に記録されている。
画面上で明滅する少年のデータは、まるで生き物のようにネクロスの論理を嘲笑っていた。
どれほど分析しても、最後には必ず数式が破綻する。
その破綻の先に、何があるのか。
少年が“理屈”に屈するか。
それとも、理屈が───
世界が間違っているのか。
もし、風間次郎ですら天野悠人を抑えられないのだとしたら、ネクロスの信じてきた「論理による支配」は、根底から瓦解することになるだろう。
それはネクロスの存在理由が否定されることを意味していた。
自らのアイデンティティを懸けた、負けられない戦い。
しかし、もし天野悠人を捕らえ、その力を解明できたなら。
世界は再び、ネクロスの望む静謐な管理下へと戻るはずだ。
その時、少年はただの「数値」へと還元され、ネクロスの檻の中に収まることになる。
一筋の光が差し込むか、それとも深い奈落へ落ちるか。
ネクロスは、冷え切った自らの手を見つめ、静かに息を吐いた。
廃工場に差し込む月光が、彼の蒼白な横顔を冷酷に照らし出す。
答えは、もうすぐ出る。
嵐の前の静けさを切り裂くように、夜の闇がすべてを飲み込んでいった。




