第68話 アップデート
薄暗い部屋に、静かな機械音だけが響いている。
あれから悠人はリリスを自宅に運んだ。
(……傷は、塞がっているみたいだな。)
悠人はグーパーと手を動かしてみる。
銃撃による怪我は、生成した治癒のポーションを服用したことで、ひとまず元通りに治っていた。
「リリス……」
ベッドの上で横たわる彼女は、最低限の生命維持に近い稼働状態にある。
発する光も弱々しい。
呼びかけても反応はなく、まるで眠っている人形のようだった。
カーテンはきつく閉じられ、外界との接点はほとんど断たれている。
昼か夜かも判然としない室内には、時間の流れを示すものがほとんど存在しなかった。
わずかに、カーテンの隙間から差し込む街灯の橙色の光だけが、床の上に細長い影を落とす。
その光は、外を走る車の振動や遠くの生活音に反応するかのように、微かに揺れ続けていた。
空気は張りつめるほど静かで、埃が舞う音さえ聞こえてきそうな錯覚を覚える。
エアコンの低い駆動音と、リリスの内部機構が発する電子音が、一定の間隔で交互に響いていた。
リリスの発しているそれは、生体の呼吸音ではない。
だが、完全な無機音でもなかった。
悠人はその拳をきつく握りしめる。
冷たい汗が、いつの間にか衣服の下で肌を伝っていた。
彼女は稼働を続けているのだろうか。
それとも、稼働自体は停止し、維持に近い状態にあるのか。
──あるいは、停止寸前にあるのか。
なんであれ、目の前で横たわっている彼女を「生きている」と断言することはできない。
その存在は、非常に曖昧な領域にあった。
胸の奥がきしむ。
痛みというほど鋭くはないものの、鈍く重い圧迫感が、呼吸のたびに存在を主張してきた。
「くそ……」
悠人はベッドの傍らに腰を下ろし、何度目か分からないため息をつく。
吐き出した息は、すぐに室内の冷えた空気に溶けていった。
視線は、意識しなくても自然とリリスへ向かってしまう。
閉じられたまぶたは、微動だにしない。
指先も、髪の一本も、まるで時間そのものが止められたかのように静止している。
整った幼い顔立ちは、人のそれとほとんど変わらなかった。
それでも、どこか決定的に違うと感じてしまうのは、彼女が不完全な生成物だからだろうか。
人のようで、人ではない存在。
その境界を曖昧にしたのは、間違いなく自分だった。
手を伸ばせば触れられる距離にいる。
それなのに、その距離が途方もなく遠く感じられた。
触れることで、何かが壊れてしまうのではないかという恐怖が、右腕を縫い止めている。
名前を呼ぶべきなのか。
謝罪の言葉を向けるべきなのか。
それとも、何も言わず、ただ待つことが正解なのか。
思考の中で選択肢が次々と浮かび上がり、そのたびに否定されて消えていった。
どれも正解に思えない。
どれも間違っている気がしてならなかった。
「ふん、アホくさ」
部屋の隅では、零華と茜が距離を置いて立っている。
零華は壁に体を預け、腕を組んで不機嫌そうに息を吐き出した。
茜は壁に寄りかかるでもなく、椅子に腰掛けるでもない。
ただ、そこに立ち尽くしている。
視線はそれぞれ別の方向を向き、同じ空間に存在していながら、意識はまったく別の場所にあるように見えた。
衣服についた汚れはそのままになっている。
帰宅してからというもの、誰一人として身なりを整えていない。
時折、ボサボサになった二人の髪の毛が、エアコンの風に揺られて微かに動いていた。
悠人の右腕には血液が固まって黒ずんだまま張り付いている。
二人とも言葉を発しない。
悠人自身、彼女たちに視線を向けられなかった。
怒鳴られる方が、まだ耐えられたかもしれない。
失望をぶつけられる方が、まだ向き合いようがあった。
だが、この沈黙は違う。
理解しようとすることすら拒まれているような、静かで冷たい拒絶そのものだった。
部屋の空気が、さらに重くなる。
息を吸うたび、肺の奥まで冷たいものが入り込んでくる感覚があった。
(──全部、俺の行動の結果だ。)
胸の内でその言葉が浮かんだ瞬間、喉の奥がひりつく。
誰かに言されたわけではない。
責められたわけでもなかった。
ただ、事実として、それ以外の結論が存在しなかったのだ。
選んだのは自分だった。
信じたのも、自分だった。
そして、この結果を引き寄せたのも──。
判断したのは自分だ。
優先順位を決めたのも自分である。
守れると思い込み、制御できると信じ切った結果が、今この光景だった。
悠人はそっと目を閉じる。
瞼の裏に広がる暗闇は、完全な無ではなかった。
意識を遮断したはずなのに、脳裏には色も温度も伴った記憶が、次々と滲み出してくる。
制御しようとすればするほど思考は逆流し、過去の断片を無秩序に浮かび上がらせた。
ネクロスの刺客に追われる中、初めてリリスと向き合った時の驚き。
人とは明らかに異なる圧倒的な存在感。
それでいて、こちらの感情を読み取ろうとするかのような視線。
理解が追いつかないまま、膨大な知識が即座に提示された瞬間の衝撃。
考えるより先に答えが与えられる感覚に、戸惑いと安堵が同時に押し寄せたことを、今でもはっきりと思い出せる。
選択に迷うことがなくなった安心感は、確かに心を軽くした。
判断を下す責任の重さから解放され、失敗を恐れる必要もない。
成功体験が一つ、また一つと積み重なるたびに、「疑う」という行為は不要なものとして意識の外へ追いやられていった。
最初は慎重だったはずなのに、いつの間にか、その慎重さは自信という名の慢心にすり替わっている。
最初はただ便利で、すごい力だと思っていた。
選択肢を即座に整理し、最適解を提示する能力は、世界の難易度を一段階下げたように感じさせた。
戦闘でも、探索でも、交渉でも、迷いが生じる前に答えが示される。
リリスの知識は万能で、選択肢を間違えることなんてないと信じていた。
信じたかったんだ。
疑う理由が見当たらない訳ではない。
正確には、疑う理由を探そうとしなかった。
不都合な可能性から目を背け、向き合うことなく、その弱さを自覚しないまま抱え込んでいた。
──自分は正しい道を歩いている。
そう錯覚していたのは、答えを出していたのが自分ではなかったからだ。
先のネクロスの一件では、自分のやり方を強引にやり通して失敗してしまった。
だから”心”を信じるなんて都合の良いことを言って、重要な決断を先延ばしにして、挙句リリスに委ねてしまった。
判断の主体がどこにあるのか、その境界が曖昧になっていく感覚に、危機感を持つべきだったのだ。
その違和感は、快楽に似た安心感の中で簡単に押し流されてしまっていた。
「チートだ」
その言葉が、今になって何度も何度も頭の中で反響する。
軽い響きで放った一言が、遅れて重たい意味を伴って返ってくる。
冗談のつもりだった。
深く考えた言葉ではない。
だが、そこには確かに、力を使う側としての驕りが潜んでいた。
力を制御しているという思い込み。
その力の源に対する無自覚な軽視が、無防備なまま露呈している。
世界が急に単純になったような錯覚。
努力や試行錯誤を飛び越え、結果だけを掴み取れる感覚。
その甘美さは、疑問を抱く力を鈍らせるには十分すぎた。
(……また俺は、自分の都合の良い方に流されてしまっていたんだ。)
データを盲信し、今まで寄り添おうとしてくれた茜を蚊帳の外にし、データの奴隷と化した過去。
冷静に言葉にすれば、あまりにも情けない姿だ。
意見を聞くことをやめ、感情を共有することを後回しにし、都合のいい答えだけを求め続けた。
その結果、周囲との距離が少しずつ、しかし確実に広がっていったことに、気づかないふりをしていた。
(──何も変わっていない。)
形や状況が違うだけで、本質は同じだった。
自分で考えるべき場面で考えることを放棄し、向き合うべき存在から目を逸らす。
その積み重ねが、今回の結果へと繋がっていた。
「……俺は」
悠人は小さく呟く。
「───今度は”心”の奴隷になってしまっていたんだ……」
微かな電気音。
エアコンの作動音。
リリスの内部機構がかすかに発する信号音が、断続的に重なり合っていた。
まるで心拍の代替物のように、部屋全体へ重苦しく張り付いている。
今回も、向き合うべきものに、向き合えていないが故に起きた悲劇だった。




