第65話 銃撃
体は動かず、喉は詰まり、言葉は形にならない。
呼び止めたところで、一体何を伝えるつもりだったのか。
その答えすら、悠人の中では曖昧だった。
言葉にすればどこか薄っぺらく感じられ、伝えたところで何かが変わるわけではないということを、胸の奥で痛いほど知っている。
「マスター。」
リリスが悠人の後をゆっくりと歩きながら追いかけてきていた。
二人だけが残された空間は、あまりにも静かだった。
先ほどまで確かにそこにあったはずの熱、怒り、そして激しい感情の衝突は、まるで嘘のように消え失せている。
もうこの場にいる”人間”は、悠人しかいなかった。
「よかったですね。
これで二人きりです。」
代わりにその場へ広がるのは、重く沈殿した空気と、”無機質”なリリスが発した言葉の残響だけ。
森全体が息を止めているかのようで、葉のざわめきも微かに、枝の揺れもごく微弱になっていた。
足元には、無残に倒れたゴーレムの残骸が転がっている。
砕けた石片、歪んだ魔力回路、無機質な破片。
それらは、ほんの少し前まで激しい暴力の象徴だったにもかかわらず、今はただの瓦礫に過ぎない。
その悲惨な姿が、現在の状況の象徴のようにも思えた。
「はぁ……
何をやっているんだ──
俺は───」
悠人は力なくその場に腰を下ろした。
膝が地面につく感触すら、どこか遠い世界の出来事のようだ。
背中を丸め、視線を落とすと、靴先の汚れや、地面に散った砂利がやけに鮮明に目に入る。
見なくていいものほど、はっきり見えてしまう。
足元の砂利の一つ一つ、枯れ葉の曲がった形、濡れた土の濃淡……
そのすべてが心に重くのしかかる。
目を閉じても残像が焼き付いて離れず、開けばまた過酷な現実が突きつけられた。
頭の中では、断片的な場面が何度も反復されている。
怒りを帯びた声、失望を含んだ視線、躊躇を責める重苦しい沈黙。
どれもが、自ら判断を先延ばしにしてきた結果だと分かっている。
それでも、あの瞬間に別の選択ができたのかと問われれば、確信を持って答えることはできない。
思考は堂々巡りし、過去の瞬間が何度も再生され、胸に深く刺さる。
守ろうとしたものは何だったのか。
守るべきだったものは何だったのか。
その二つが、いつの間にか大きく食い違っていたことに、今さら気づかされる。
「マスター、早くどこかへ行きましょう。
デートです、デート。」
リリスが悠人の隣に座る。
時間の感覚はひどく曖昧だった。
数分なのか、数十分なのか、それとももっと長い時間が経過したのか。
ぼんやりと座り込んだまま、思考だけが空回りする。
「あぁ……
そうだな──」
リリスの言葉は悠人の耳から入って、そのまま抜けていく。
今は何も、彼女の言葉が頭の中に入ってこなかった。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに続いている。
遠くで鳥の羽音が聞こえ、自然だけは何事もなかったかのように動き続けていた。
「マスター、早く移動しましょう。
空腹状態であることを感知しました。」
地面の冷たさが、衣服越しにじわじわと伝わってくる。
湿った土の感触は重く、まるで膝裏にまとわりつくようで、立ち上がるための気力を削いでいった。
「それともここで生成しましょうか……?
マスターのコストを使用してしまうのであまりお勧めはしませんが。」
「ちょっと待ってくれリリス───」
周囲の音ははっきりと聞こえているはずなのに、どこか分厚い膜越しに届いているようだった。
思考は断片的に跳ね回り、順序を失っている。
直前の言葉、交わした視線、背を向けて去っていったあの姿。
それらが脈絡なく浮かんでは消え、胸の奥に鈍い痛みだけを残していく。
後悔と未練、納得できない感情が複雑に絡み合い、どれも掴み取れないまま霧散する。
呼吸をするたびに胸が重く、肺の奥に澱が溜まっていくような感覚があった。
「……」
その閉じた世界の中で、不意に空気が変わった。
肌に触れる空気の質が、わずかに変質する。
温度ではなく、密度そのものが変わったかのような奇妙な違和感だった。
音の輪郭が一瞬だけ鋭くなり、森全体が息を潜めたように感じられる。
リリスの視線が、ふっと宙を捉えた。
それまで静かに周囲を観測していた視線が、明確な一点へと収束する。
その動きには一切の迷いがなく、何かを検知したという確信だけが宿っていた。
「警告。
未登録個体の接近を確認しました」
いつもと変わらぬ、淡々とした声だった。
しかし、その冷徹な内容は、悠人の意識を一気に過酷な現実へ引き戻す。
「──え?」
反射的に顔を上げた。
視界が急に広がり、木々の配置、影の落ち方、光の角度を一度に把握しようとする。
周囲を必死に見渡すが、すぐには異変が分からない。
木々は変わらず立ち並び、光の差し方も先ほどと同じだ。
だが、何かが決定的に違う。
空気の流れが微妙に変わり、耳鳴りのような圧迫感が頭の奥に生じていた。
言葉にできない不気味な違和感が、背筋を這い上がってくる。
次の瞬間、あたりに落ちていたゴーレムの残骸の一部が音もなく砕けた。
これといった衝撃音はなかった。
ただ、そこに存在していたはずの石片が、崩れるようにではなく、鋭く切断されるように消えた。
輪郭が一瞬で失われ、空間に溶けるようにして消滅する。
心臓が強く脈打つ。
視線が自然と残骸へ吸い寄せられ、砕けた断面の滑らかさに強い違和感を覚えた。
決して偶然ではない。
意図的で、正確で、無駄がなかった。
続いて、無数の不穏な足音がそこらじゅうから聞こえ始める。
「……なんだ──?」
一定のリズムを刻む、重く規則的な音。
”それ”が地面を踏みしめるたびに、低く響く振動が足元から伝わってくる。
”それら”は軽装ではないことを示す沈んだ響きが、森の静寂を押し潰すように広がっていった。
四方八方から迫る不穏な気配に、悠人は深く息を呑む。
吸い込んだ空気が十分に肺へ届かず、喉の奥で詰まった。
「──お前たちは……」
黒い装備に身を包んだ数名の人物が、木々の隙間から続々と姿を現した。
統一された装備は光を反射せず、その不気味な存在感だけを際立たせている。
動きに無駄はなく、足運びは極めて正確で、互いの位置を完全に把握したまま自然に間合いを詰めてきていた。
その立ち居振る舞いに過去に見た恐ろしい記憶が、否応なく脳裏に重なり合う。
訓練された動き、排除を前提とした冷徹な配置。
気づいた時にはすでに、綺麗な円を描くように包囲が完成している。
逃げ道はなく、距離は計算され尽くしていた。
──ネクロスの刺客のそれだ。
「対象と接触。」
「位置情報のプログラムを取り込んでいる個体はあの雌型の方だ。」
悠人の問いには答えず、低く抑えた声が、淡々と事実を告げる。
そこには個人的な感情は一切感じられず、ただ冷酷な事実と判断だけがあった。
視線が一斉にリリスへ向けられ、空気がさらに硬くなる。
「研究目的のため、回収する。」
その無機質な言葉に、悠人は背筋が凍るのをはっきりと感じた。
「ま、まさかネクロスの部下か……?
なんでここに──」
それは疑問というより、目の前の現実を否定したい気持ちが先に立っていた。
すでに関係が崩れ、大切な仲間が去った直後に、さらなる大きな危機が押し寄せている。
心の整理が追いつかないまま、強制的に次の選択を迫られていた。
激しく狼狽える悠人の横で、リリスは一瞬だけ沈黙する。
「マスター。
私は……最適解を提示できません」
その告白が、悠人の胸に深く突き刺さった。
これまで積み上げられてきた信頼が、音を立てて軋む。
知識を集積し、状況を瞬時に解析し、常に進むべき道筋を示してきた存在が、初めて迷いを見せた瞬間だった。
支えとして無意識に頼ってきたものが、今は助けを求める側に立っている。
その冷酷な事実が、現実として重くのしかかっていた。
崩れたパーティ。
去った仲間。
そして、迫る刺客。
それぞれが別々に起きていれば、まだ冷静に対処できたかもしれない。
しかし現実は同時に牙を剥き、思考の処理能力を遥かに超えて押し寄せてくる。
手を伸ばす先も、守るべき対象も、優先すべき判断も、すべてが霧に包まれ、その輪郭を失っていく。
正しさだと信じて積み上げてきた選択が、根元から大きく揺らぎ始めている。
恐怖ではない。
絶望とも違う。
ただ、自らの判断基準そのものが根底から崩れていく感覚。
足元の地面が、静かに、確実に崩壊していく。
悠人は、自分が本当に守るべきものを見失ったまま、ただその場に立ち尽くすしかなかった。




