第62話 信者
リリスは笑顔でそう言い放った。
束の間の安堵感が瞬く間に消し飛ぶ。
その言葉は、異様なほど鮮明に、周囲の音を切り裂くように響いていった。
リリスの手は温かく、金属や無機物を連想させる冷たさはない。
体温を持つ存在としての感触が、はっきりと伝わってくる。
だが、僅かに流れ込んでくる彼女の思考により、それが意図的なものであると察し、悠人は自分の背筋が凍っていくのを感じた。
「っ──」
思わず彼女の握ってきたその手を払う。
彼女との距離が近いからか、今も悠人の脳内では、リリスの思考回路の残滓がこびりついて離れなかった。
無数の情報により、より高度に人の感情が再現できるようなコードが彼女の中には流れている。
悠人は思わず、自分を見つめてくるリリスから目を背けた。
頭の中は真っ白で何も考えることができない。
気が動転しているのだろう。
「天野、どういうことなの」
悠人がへたり込んでいる中、零華の声が響き、空気が一気に張り詰める。
戦闘が終わった直後とは思えないほど、別種の緊張がその場を支配していた。
零華の方へ悠人は目を向ける。
彼女の顔は、若干赤くなっていた。
先ほどまでの戦闘によるものだけではない。
怒りと、理解不能な宣言をどう受け止めればいいのか分からないという戸惑いも、そこには含まれていた。
説明しなければならない。
悠人は反射的に口を開こうとする。
だが、言葉は出てこなかった。
(──俺は何を言えばいい)
(──リリスはダメでした、処分します。
だなんて言えるわけがないだろう……!?)
「リリス……
なんで勝手に……」
悠人は会話を逸らした。
代わりにリリスの方へ顔を向け、彼女に回答を求める。
悠人が零華から視線を逸らす中、零華はただひたすらに、どうしようもなく失望した表情を浮かべていた。
悠人にもその光景が目に入ってはいるものの、縋るようにリリスの方を見つめ、回答を──
助けを求める。
「目標達成のために最適と判断したまでです」
リリスは無表情のまま、淡々と答えた。
彼女は笑みを浮かべる。
人間のような笑みを。
本当に人間と遜色ない、感情のこもった表情であった。
だが、あくまでそれは出力しているものにしか過ぎないという事実を、改めて悠人は同時に突きつけられる。
それはとどめだった。
悠人は意図せず、助けを求めた存在に、逃げ道を防がれる形となる。
少なくとも、彼女が今すべき表情は、それではないのだ。
結局彼女は人間のようなそぶりを見せることができるようになっただけで、中身は何も変わってなどいなかった。
人間の心を知り、よりそれを利用できる存在となっただけ。
むしろ、凶悪性を増しているのは明らかだ。
“最適”
その言葉が、悠人の胸に重くのしかかる。
「……り、リリスちゃん──」
先ほどまで黙っていた茜の声が響く。
悠人ははっと顔をあげ、声のする方へ顔を向けた。
零華と茜、二人とも並んでなんとも言えない顔を浮かべながら立っている。
先ほどまで自分のことを見つめていた零華の視線は、虚空へと向けられていた。
それでもまだギリギリまで、何かを踏みとどまっているかのようである。
体は動いていない。
ただ、悠人の誤り続ける行動がどこまでいくのかを待っている。
(──なんでだ。
なんでこうなった)
悠人はただ、一言も発することができずに、視線を落として拳を強く握る。
自分の判断が、ここまで仲間に重圧をかける結果になるとは思わなかった。
「マスター、大丈夫ですか?」
リリスが近寄ってきて悠人の前でしゃがむと、その握りしめた拳を白い手で包む。
暖かかった。
先ほどと違って、リリスのプログラムも脳内に流れ込みにくくなっている。
彼女はプログラムをアップデートしているようだ。
だが、そう。
つまり、“心”から来るものではない。
思考ではないのだ。
あくまで無機質な、彼女の目的達成のための最適化がなされているだけに過ぎない。
「うわぁああっ」
悠人はその手を、思わず払いのけ、自分の体から彼女の肉体が触れている状況を終わらせる。
これまで触れることを拒んでいた彼女が悠人に触れてきたということは、彼女が悠人の思考を逆に読み取ろうとしているということなのだろう。
背筋が凍りついていく中、頭の中では、停止コードの存在が何度も繰り返されていた。
もしこれを再び生成でもすれば、状況は即座に制御されるだろう。
リリスは停止し、周囲への危険は最小化される。
“理屈”としては完璧だ。
──“理屈”
悠人の脳裏には、ネクロスと呼ばれるものから送られてきた刺客の姿が浮かんでいた。
無機質で、目標達成のために、殺人すら厭わない、“理屈”に支配された冷酷無慈悲な存在。
あの冷たい感情が自分に向けられた恐ろしさを、今も忘れられずにいる。
そしてその感情を、自分が生み出したリリスに向けてしまうことにも、どうしようもない抵抗感を覚えていた。
彼女の味方は今、まさに自分しかいない。
生みの親である、自分しかいないのだ。
悠人の胸の奥には、何か大事なものを切り捨ててしまう感覚が芽生えて、枯れることなくその根を伸ばし続けていた。
悠人は顔を上げる。
目に映るリリスの瞳はまぶしいほどに輝き、笑みの端にはほんの少しの希望さえ感じさせてくれる。
それは彼女が意図して発生させている現象に過ぎないのかもしれない。
それでも“心”は強く訴えかけていた。
まだ、
「仲間として共に歩める」
という可能性を。
だが、“理性”は叫んでいる。
「危険だからリリスを止めろ」
と。
矛盾に、胸が締めつけられる。
身体は固まったまま、動かなかった。
「天野っ!
もういい加減停止コードを発動させろ!
これでわかったでしょう!?
コイツは危険よ!」
零華は叫ぶ。
いつの間にか彼女は悠人のそばにいた。
悠人の胸ぐらを掴み、その情けない優柔不断な男を片手で持ち上げる。
悠人の視界に、彼女の顔が映った。
先ほどまで顔を背け、諦めたかのような表情をしていたが、今ではその真逆で、自分の感情を爆発させている。
怒りだけでなく、その叫びには恐怖と焦りのような感情も混じっていた。
「悠人!
私からもお願いっ。
心苦しい気持ちはわかるっ──
けど、このままじゃ、取り返しのつかないことになる」
同時に、茜の声も加わった。
意志や、人の心を大事にしてきた茜が言うその言葉に、何度も悠人の思考は揺らされる。
彼女がそんなことを言うのだ。
ただ事ではない。
「──だから悠人、言うことを聞いて!
彼女を一旦、停止させて!!!」
理屈ではなく、心からの訴えだった。
悠人の存在を信じているからこそ、感情を剥き出しにし、正面から意思をぶつけてくる。
震える声の奥に、揺るぎない信頼と覚悟が隠されていた。
その声を聞きながらも、悠人の体はまだ動かない。
喉の奥から、うめき声のような音が漏れた。
視線を零華から背け、横目でリリスの方を見る。
目の前のリリスは温かい手を差し伸べ、微かな光を放っていた。
全身が震えるほどの切迫感と共に、その存在感が悠人の思考を支配する。
直感が告げていた。
(──リリスと向き合い、関係を守るためには、リスクを取らざるを得ない)
心臓が痛いほどに高鳴る。
理性が止めろと叫ぶ中で、“心”は
「向き合え」
と告げていた。
零華は、いつまでも躊躇っている悠人に呆れ、胸ぐらを掴むその手をさらに強く握る。




