第59話 恋愛ゴーレム
悠人たちはダンジョンを脱出し、現実世界へと戻ってきた。
ゲートからしばらく歩いた場所に、小規模なショッピングモールがある。
そこで気分転換を兼ねてこれから食事でもするつもりだ。
ダンジョンの冷たい空気から解放され、舗装された街路に足を踏み出した瞬間、身体の奥に溜まっていた緊張が、少しずつ、確実にほどけていくのを悠人は感じていた。
地面の感触は安定しており、不快な湿り気もない。足裏から伝わる確かな感覚が、現実世界の輪郭をはっきりと描き直していく。
背中に背負っていた装備の重さも、ダンジョン内で感じていたそれとはどこか違い、ただの物質的な重量として意識に戻ってきていた。
人の声が遠くから聞こえる。
談笑する声、呼び込みの声、子どものはしゃぐ声。
無数の音が重なり合いながらも、不思議と耳障りには感じられない。
行き交う視線には警戒よりも好奇が混じり、誰かを敵と見なして構える必要はないのだと、身体が少し遅れて理解していく。
遠くから響く車の走行音が、一定のリズムで街の営みを主張していた。
「さーてついたぞ。
どの店行こうか。」
「……私は任せるわ。
茜、何かオススメとかある?」
「えー、そうだねぇ……」
つい先ほどまで、命のやり取りを前提とした空間に身を置いていたという事実が、急速に現実味を失っていく。
その激しい落差に、軽いめまいにも似た感覚を覚えながらも、悠人は無意識のうちに深く息を吸い込んでいた。
肺いっぱいに流れ込む空気は、ダンジョン特有の澱んだ匂いを含んでおらず、わずかに排気ガスと飲食店の香りが混ざった、紛れもない現実世界の空気だった。
ショッピングモールは、巨大な商業施設というほどではなく、かといって寂れているわけでもない。
地元住民の日常の延長線上にあるような、落ち着いた佇まいだった。
外観はシックな色合いでまとめられ、過剰な装飾は見当たらない。
入口付近には案内板が設置されており、飲食店や小さな雑貨店、娯楽施設が整然と並んでいるのが見て取れる。
平日ということもあり、人通りは少なかった。
されど、まばらに家族連れや友人同士、買い物袋を下げた人々が確認できる。
誰もが自分の用事に意識を向けており、そこには特別な緊張感など存在しない。
その雑多で穏やかな空気に触れたことで、悠人の中に残っていた重たい思考も、ほんのわずかに緩み始めていた。
ダンジョン内で繰り返していた反省や後悔が、完全に消えたわけではない。
ただ、今この瞬間は、それらを一時的に脇へ置くことが許されている。
そう感じられるだけで、胸の奥に溜まっていた圧迫感はずいぶんと軽くなっていた。
「リリスは何が食べたい?」
悠人がリリスに対して歩きながら投げかけた問いは、深い意味を持たせたものではなかった。
人混みの中を歩きながら、自然と歩調を合わせる。
足音が舗装路に規則正しく響き、モールの入口が少しずつ近づいてくる。
「マスターが好きなものです。茜さんは何が食べたいですか?」
「……え?
わ、私?
私は……そうだな──」
一度言葉を切り、視線を少し上に向ける。
「確かあそこには美味しいパンケーキが食べられるカフェがあって──」
「パンケーキですね。
マスターもパンケーキが好きです。
”二人”は気が合いますね。」
淡々とした声で告げられるリリスの言葉。
空気がわずかに揺れたのを、悠人は感じ取る。
「おいやめろリリス。
まだそうやって──」
「私も好きだぞパンケーキ。
私と悠人の相性はどうなんだポンコツAI。」
横から零華が口を挟む。
声音は軽く、冗談めかしているようにも聞こえるが、その裏にある挑発は隠しきれていない。
口元には余裕のある笑みが浮かび、現状を楽しんでいるようにも見える。
その視線は、リリスを正面から捉えていた。
悠人は思わず頭を抱えそうになる。
この流れは良くない。そう直感していた。
「零華さんの口の悪さは、まさに負けヒロインにピッタリです。
いい感じにフェードアウトすることをお勧めします。」
間髪入れずに返される言葉。
相変わらず容赦がなく、感情の抑揚もない。
だが、その内容は明確に相手を刺激するものだった。
周囲の通行人が、何事かと視線を向けるのが分かる。
空気が一気にきな臭くなる。
「うわああっ!
やめろやめろ!
神崎もすぐに刀に手をかけないでくれ!」
悠人は両手を振って制止する。
零華の手が、反射的に腰の刀へ向かいかけているのを見て、背筋に冷たいものが走った。
「仲良く、仲良く──なっ?
そ、そうだ。
良かったら昼食を済ませた後、ここの中にあるボウリングにでも行くか!
あはは。」
話題を無理やり変えようとする悠人の声は、少し裏返っていた。
自分でも分かるほど、不自然な高さ。
喉の奥が引きつり、意識とは裏腹に声帯だけが先走ったような感覚を覚える。
「ボウリング、いいですね、マスター。
幼い頃、茜さんと共にそこで遊んでいたとのデータが残っています。」
リリスの声は相変わらず一定で、感情の揺らぎを感じさせない。
だが、その内容は場の空気を読むという概念を根こそぎ無視していた。
何気ない思い出話の提示──
ただそれだけのはずが、今は爆弾の導火線に火を点ける行為に等しい。
「チッ」
零華の苛立ちは隠す気もなく、その音には明確な不快感が込められていた。
歩調が一瞬だけ速くなり、靴底が舗装路を強く叩く。
「……もうやだ」
茜の呟きは小さく、力がない。
疲労と居心地の悪さが混ざり合ったような声音で、逃げ場を探すように視線が泳ぐ。
頭を抱えたい衝動を必死で抑えながら、それでも歩みは止めなかった。
足を止めた瞬間、空気がさらに悪化することは目に見えている。
無理にでも前へ進むしかなかった。
ショッピングモールの入口が近づくにつれ、人の流れがわずかに多くなり、周囲の音が大きくなる。
自動ドアの向こうから漏れ聞こえる店内放送、食事処から漂う匂い、笑い声。
そうした日常の要素が、ダンジョン帰りの緊張と奇妙に混ざり合っていた。
重要なのは“心”。
そう悠人は、自分に言い聞かせる。
リリスと向き合うと決めたばかりだ。
逃げるわけにはいかない。
ここで話題を誤魔化してやり過ごせば、同じことを何度も繰り返すだけになる。
分かっている。
理解している。
それでも、現実は思考通りには進まない。
「──作戦名を宣言します」
淡い決意は、扉をくぐった瞬間に粉々に砕かれた。
今は人が少ない広場で、リリスが唐突にそう告げた。
そこは吹き抜け構造の中央広場。
天井から差し込む自然光が床に反射し、休日の賑わいを象徴するような場所だった。
子どもはまばらに走り回り、大人たちが遠くで買い物袋を下げて談笑している。
ショッピングモールの中心で放たれた一言は、あまりにも場違いだった。
その一言だけで、悠人の背筋に嫌な予感が走る。
皮膚の内側を冷たいものが這い上がるような感覚。
過去の経験が、これは止めなければならない兆候だと警告していた。
「ちょ、待てリリス。
今は人前──」
制止の言葉は途中で遮られる。
「問題ありません。
目標達成確率を最大化するには、公開性が有効です。」
淡々と告げられる理屈。
論理だけを切り取れば、確かに一理あるのかもしれない。
だが、その“目標”が何であるのかを考えた瞬間、悠人の思考は意図的にブレーキをかけた。
直視したくない。
次の瞬間、地面が低く唸りを上げた。
足元から伝わる微細な振動。
最初は錯覚かと思うほど小さな揺れだったが、すぐにそれが現実だと理解する。
石畳が不自然に盛り上がり、表面に走る光が魔力特有の輝きを帯びた。
亀裂のような光の線が、蜘蛛の巣状に広がっていく。
周囲の人々が異変に気づくまで、時間はかからなかった。
悲鳴が上がり、誰かが転び、混乱が連鎖的に広がる。
平穏だった空間が、一瞬で非日常へと塗り替えられていった。
「茜!
とりあえず付近の人を魔法で吹き飛ばして遠ざけてくれ!
──ぐっ!?
あぁっ──……」
悠人は激しい頭痛に襲われ、思わず膝をつきそうになる。
頭の奥を無理やりこじ開けられるような感覚。
意識の深い部分に直接触れられ、強引に引きずり出される。
生成スキルが、意思とは無関係に起動していた。
リリスの指示が、言語を介さずに流れ込んでくる。
命令ではない。
だが、拒否もできない。
身体を媒介として魔力が暴走的に形を成し、制御権が奪われていくのが分かる。
通行人の叫び声が響く中、巨大な影が地面からせり上がる。
石と石が擦れ合う重苦しい音。
人の背丈をはるかに超える巨体。街の景色を塗り替える異物。
圧倒的な存在感が、広場を支配する。
視界に収まりきらないほどの質量が、日常の象徴であるショッピングモールの中央に鎮座していた。
「対ライバル排除用・巨大ゴーレム、起動完了」
「完了じゃない!!」
悠人の叫びは、警報音や悲鳴にかき消されそうになる。
喉が張り裂けるほどの声を出しても、状況は止まらない。
ゴーレムはのしのしと動き出し、その視線が明確な対象を捉える。
動きは鈍重だが、確実で、逃げ場を計算しているかのようだった。
「目標:零華さん、茜さん。
マスターとの恋愛競合状態を解消します」
「えぇ!?」
「ちょっと待ちなさい!!」
二人の声が重なり、混乱は頂点に達する。
館内放送が切り替わり、非常事態を告げる警報が鳴り響く。
完全に大事件だった。
(まずい、このままじゃ――)
歯を食いしばる。
自分の未熟さが、街ごと巻き込む形で露呈していた。
その現実が、胸を強く締めつける。
感情を理解したつもりでいた。
その結果がこれだ。
だが、その瞬間、ふと足が止まった。
(いや……
これは、チャンスかもしれない)
逃げ場はない。
誤魔化しもきかない。
すべてが露わになり、取り繕う余地すらない状況。
だからこそ、ここで向き合わなければ、何も変わらない。
悠人は深く息を吸い込み、二人に向き直った。




