第58話 危機感ー2
天野悠人のパーティと、ミーネスの者たちが戦闘を繰り広げてから、すでに数時間が経過していた。
探索者統率機構のある部署に所属する男たちは、ネクロスの指令を受け、このダンジョンに設置された極秘研究施設へと戻ってきている。
工事された壁は戦闘の後遺症で黒ずみ、ところどころにひび割れが走っていた。
壁の凹凸に沿って細かな灰がびっしりと張り付き、照明の光を受けて鈍く輝いている。
周囲の静寂は、深い闇の底で水滴がぽたりと落ちる音だけで破られた。
滴が石に当たる音は単なる水音ではなく、まるで鼓動のように地下空間に響き渡り、男たちの心理を激しく圧迫する。
通路には、力なく倒れている数名の探索者の姿があった。
「何だこいつら……」
「この紋章、ミーネスの奴らです」
「なぜここに──」
奥の壁は大きく破壊されており、隠蔽処理を施していた施設が、今は剥き出しの状態となっていた。
コンピューターを起動すると、目の前の光景は、理性では処理しきれないほどの混乱状態を呈している。
スクリーンにはデータの断片が無秩序に散乱し、プログラムは本来の形を失っていた。
コードは歪み、文字列が重なり合い、まるで意図的に狂わせたかのような異様なパターンを作り出している。
画面を注視すると、視覚的な異常だけでなく、どこか不穏な心理的圧迫も伴う。
指先で触れるタッチパネルは冷たく、微細な振動が手のひらに伝わり、思考が反射的に跳ね返されるような感覚が襲った。
「──一体何が起こったのだッ!!
ただでさえネクロス様は機嫌が悪い!
この有り様を知られれば、命はないぞ!!」
白いゴーグルをかけた人物──
この施設の責任者である”鉢川”の声が地下の空間に鋭く反響する。
その声には単なる怒号以上のものが含まれ、焦燥と恐怖、そして自己保身の切迫感が混ざっていた。
部下たちは自然と身をすくめ、その呼吸をぎこちなく乱す。
「隊長、これを見てください。
奴ら、丸ごとプログラムを奪い去っていった形跡があります。
どうやったのかは分かりませんが、これで──」
「ごちゃごちゃ言うな!
つまりどういうことだ!」
「位置情報を知らせるプログラムを奴らは持っていったんです!
今もほら──
特定が可能です。
犯人は今、このダンジョンのゲートから少し離れた只野区の辺りにいるようです」
「只野区ぅ?
すでに投棄されているだけじゃないだろうな?
まぁいい、とにかくデータを集めろっ!
ネクロスには絶対に知らせるな。
我々だけで”処分”するぞっ!」
男は白衣を脱ぎ捨てる。
布の擦れる音が地下の空間にかすかに響き、白衣が床に落ちると、その音さえ地下の静寂に吸い込まれるように消えた。
部下の一人が壁に設置されたスイッチを操作すると、壁の一部がゆっくりと変形し、内部に格納されていた戦闘スーツが姿を現す。
スーツの金属は淡い照明を反射し、影と光の交錯が彼らの視界を支配した。
内部からは微かな駆動音が漏れ、金属の匂いに混ざって油の香りが漂う。
スーツの圧倒的な存在感は、静かな地下室に緊張をさらに深める要素となった。
「まずはこの施設を隠蔽するぞっ!
全部隠せっ!
なかったことにしろっ!」
鉢川の声は、ダンジョン内に鋭くこだましていた。
◇
「ねぇ、悠人。
もし、さっきのであなたが怪我をしていたら、悠人はリリスちゃんをどうするつもりだったの?」
結局あれから昨日訪れた施設へとたどり着くことができず、悠人たちはダンジョンの出口へと向かっていた。
リリスが先頭を突き進んでいく中、後方に立っていた茜は、隣に立つ悠人に、リリスに聞こえない程度の声で問いかける。
「──え?
……それはまぁ、茜に直してもらうとか──」
「”私”」
「──え?」
零華が会話に割って入る。
「茜が甘いから言い方を変えるわ。
もし、あの時あなたではなく”私”が襲われて、
あげく怪我をしていたら、あなたはどうするつもりだったの?」
「それはどういう──」
「いや、私が”怪我”じゃなくて、”死んだ”とする。
あげくリリスが、それは計画してやったことだと告げた時、あなたはどうするつもりだったの?」
「神崎さ──」
「茜は黙ってて」
零華は悠人を見つめる。
そこから目を逸らすことは叶わない。
否応なく返答を求められる。
「それでも、あなたは、リリスを庇うの?」
「……ちょっと待ってくれよ──
もうこの話は済んだだろ?」
「そう。
あなたの考えはよくわかったわ」
「まだ何も言ってないだろ──」
「ためらうこと自体が答えなのよ」
「……」
悠人は拳を握りしめた。
(俺は……)
「悠人」
顔を上げると、零華と再び視線が交わる。
焚き火の明かりに照らされた表情には、苛立ちも失望もない。
ただ、現実から目を逸らさせないという意志だけが、静かにそこにあった。
その視線を受け止めた瞬間、悠人は無意識に肩の力を抜いている。
「あなたが向き合うべきなのは、リリスの“暴走”じゃないのよ」
その言葉は否定の形を取りながらも、責任を押し付ける響きではなかった。
零華の表情は、いつもよりわずかにどこか自分のことを心配しているようにも見える。
だがそれは、必要以上に優しさを乗せない、覚悟を決めた者の態度だった。
「感情を理解した“つもり”になっていた、自分自身よ」
悠人はすぐに言葉を返せなかった。
喉の奥が詰まり、何かを言おうとするたびに、別の感情が邪魔をする。
どこからか吹いてくる風が頬を撫足、ダンジョン内の光の揺らぎが視界の端で踊る。
その現実的な刺激が、かろうじて意識を現在に留めていた。
しばらくして、ゆっくりとうなずく。
それは納得というより、受け入れるための動作だった。
抵抗をやめるための、小さな合図。
「……ありがとう、話してくれて」
声は自分で思っていたよりも落ち着いていた。
震えはなく、無理に整えた響きでもない。
その事実に、悠人自身がわずかに驚く。
混乱はしているが、完全に見失ってはいない──
そう実感できたからだ。
零華は少しだけ目を伏せる。
その動きは一瞬で、すぐに元の視線に戻る。
だが、その短い間に、迷いと決意の両方が確かに滲んでいた。
「言うか迷った。
でも、黙っていたら、同じことを繰り返す気がしたから」
「零華さんの発言は、危険性評価として有効です」
焚き火の向こう側で、空気の流れがわずかに変わる。
音もなく、しかし確かな気配の変化。
リリスが、小さく口を開いた。
「……聞いていたのね」
自然と全員の視線が集まる。
リリスの表情は、これまでと変わらないように見える。
無表情に近く、感情の揺らぎは読み取りにくい。
だが、声の間合いが、ほんのわずかに違っていた。
言葉を選び、出力するまでに、意図的な間が置かれている。
「私は、感情を学習しています。
しかし、その影響を受ける“人間側”の負荷については、考慮が不足していました」
言葉遣いは相変わらず機械的だ。
論理的で、簡潔で、余分な修飾がない。
それでも、ただの分析報告とは異なる温度が、微かに混じっているように感じられた。
それは、自身の判断を一度立ち止まって見直しようとする姿勢に見える。
「再評価が、必要だと判断します」
その言葉が、静かに場に響く。
誰もすぐには反応しない。
彼女の発する光だけが、一定のリズムで続いている。
悠人は無意識に息を深く吸い込んだ。
問題がすぐに解決するわけではない。
状況が劇的に好転する保証もない。
それでも、確実に何かが変わり始めている。
その感覚だけは、はっきりと掴めた。
問題は、まだ何一つ解決していない。
それでも、この短い休息の中で、これまでとは違う視点を手に入れた気がした。
感情は、与えるものじゃない。
一度プログラムして終わるものでもない。
向き合い続けるものなのだ、と。
焚き火の音を聞きながら、その考えを何度も噛みしめる。
逃げないと決めた。
だが、具体的に何をするのか完全に固まったわけでもない。
それでも、目を逸らしたまま前に進ことだけは、もうできないと理解していた。
「よし、今日の探索はここら辺にして、引き上げよう。
……お昼は、外で食べる。
近くにショッピングモールがあるみたいだし。
……それでいいか?
──奢るからさ。
ごめん、色々と振り回してしまって……」
言葉は少し不器用だった。
言い終えた後、わずかに視線を逸らす。
茜が小さく息を漏らし、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。




