第48話 老巨の街道ー5
感情パターン、心理反応、対人関係ログ……。
これまで扱ってきた戦闘データや魔力解析とは、明らかに質の異なる情報がそこにはあった。
その未知性が、体の奥底へ確実な緊張を伝える。
零華は視線を上げ、スクリーンと装置の細部を見渡した。
整然としているのに、どこか不気味な静けさが周囲に漂う。
圧倒的な精密さと冷たさ、そして情報の密度が、彼女の心に深い印象を刻んでいた。
「感情……?」
零華の表情が一瞬、強張る。
「まさか……」
「はい」
リリスは中央装置に近づいた。
静寂の中で、わずかに流れる電流のハム音だけが、存在の証のように響き渡る。
悠人の心拍が、自然とその音に同期するように速まっていった。
「人間の感情を定量化・再現するための、大規模データです」
リリスの声は相変わらず冷静そのもので、まるでただの観測報告を述べるかのように淡々としている。
だが、悠人の反応は違った。
感情のデータ化──。
言葉では理解できても、その意味の重さを直視するのは簡単ではない。
脳裏に、不安と期待が一気に押し寄せる。
(──リリスに感情があったら)
(──人の気持ちがわかったら)
思考は途切れ途切れで、頭の中で整理がつかないまま膨らみ続けた。
戦闘時の冷静さ、探索時の判断の正確さ──。
もしその冷静さの奥に感情が芽生えたら、どれほどの影響を与えるのだろうか。
リリスの頭の中は、あくまで自分の生成AIスキルの頭脳を元にしている。
先のダンジョン内のやり取りでは、リリスの言葉が強すぎる側面も見受けられた。
もしこのデータを取り込んで、人間の心を手に入れることができたのなら、リリスの頭脳は、さらなる高みへと上り詰めることになるだろう。
人間より賢くも、人の心を持った、人間の上位互換的な存在──
何もかもが想像の枠を超えて迫り、胸を強く締めつける。
「伏せてっ──!」
零華の一声に、皆が瞬時にその身を屈めた。
次の瞬間、無数の針のようなものが、空間内へ激しく飛んでくる。
飛来した先は、自分たちが入ってきたあの破壊された壁の穴からであった。
壁はこの針による攻撃の影響でさらに破壊され、もはや穴ではなく、通路と直接繋がっているような状態に変わる。
「意外ね。
まさか戻ってくるなんて」
悠人たちの視線の先には、撤退したはずのミーネスの探究者たちの姿があった。
人数は5人。
悠人の攻撃を喰らった人間──
吉田は、そこにはいない。
「……当たり前じゃない。
体制を立て直しただけよ」
斎藤はその杖を強く握りしめ、木製の手応えがみしりと悲鳴のような音を上げた。
「──これだけの損失を出しておいて、ノコノコと帰れるわけがない……。
そんなことしたら、私はきっと──
殺されるわっ──!」
「ふん。
なら、私が痛みもなく一瞬でその首を刎ねてあげる。
大人しくさっさと投降しなさい」
「するわけないでしょうがぁっ──!!」
斎藤の叫び声と同時に、再び激しい戦闘が始まった。
悠人は今度は両手に“概念の槍”の生成を始める。
「悪いがここで暴れてもらうわけにはいかない。
面白そうなものがあるんでなっ、破壊されてたまるかよ!」
声を上げる悠人の元に、斎藤のそばにいた2名の探索者が瞬時に肉薄してくる。
しかし、彼らは悠人の概念の槍のことを、やはり視認できていないようだった。
槍の長さは3メートルほどに調整して生成してある。
ミーネスの探索者たちは、手ぶらに見える悠人相手に勝ち誇ったような表情を浮かべていた。
その手には、それぞれ鋭い刃物が握られている。
「死ねガキっ!」
しかし、探索者たちの刃物が到達する前に、悠人の二つの槍が彼らの胸へ深く突き刺さった。
突き刺さった瞬間、刺客たちは刃物を手放してそのまま悠人の側を素通りし、地面へと勢いをつけたまま顔面から衝突する。
「へへっ、どんなもんだい」
「……は?
何をしたっ!
おい、どうしたんだお前たち!
な、なんなんだ。
神崎!
なんなんだその少年はっ!」
その様子を零華との戦闘中に傍目で見ていた斎藤は、思わずたじろいだ。
同時に、なぜ早乙女茜や神崎零華という将来有望な人間たちと共に、この少年が行動しているのかをなんとなく理解する。
嫌でも理解できてしまった。
「うわあああァアアアァ“ア”ァッつ!!」
悲鳴に近い声を上げながら、斎藤はがむしゃらな攻撃を零華に放った。
制御を失った流れ弾が、そこらじゅうに飛散していく。
天野悠人もかなりの戦力となっている事実を知った今、すでに残り3人になってしまった自分たちの勝機など、たかが知れていた。
零華たちのパーティーには、さらに一人、リリスなどと呼ばれている謎の幼女も控えている。
斎藤は完全に絶望していた。
あの幼女もおそらくただものではないはずだ。
完全に詰んでいた。
しかし、それでももう、彼女には退く選択肢など残されていない。
「わあああァアアアァ“ア”ァッあっ!」
絶叫があたりに激しく鳴り響く。
「……リリス」
戦闘が続く中、悠人は無力化した二人の探索者の先にいるリリスの方を見た。
周囲に流れ弾が飛び散っているというのに、リリスは棒立ちのまま、一つの端末の前で直立状態を維持して動かずにいる。
「危ないから、今は身を伏せて──」
そう悠人が声をかけようとした、まさにその瞬間であった。
周囲の空気が一瞬だけ止まったように感じられる。
時間が引き伸ばされたかのように、目の前の光景が不気味なほど鮮明になった。
装置の中央部、巨大な記録装置の表面に反射する光が、まるで独自の意思を持ったかのようにゆらめく。
リリスの身体の輪郭から、淡く白い光の線が伸び、装置へと次々に接続されていった。
「──学習を開始します」
その言葉とほぼ同時に、光の線が強く震え、装置のスクリーンから膨大な情報がリリスへと流れ込み始める。
文字や数字、複雑なグラフが一瞬で浮かび上がり、次の瞬間には解析用のパターンが、まるで生き物のように蠢いた。
膨大な情報量に脳の処理が追いつかず、瞬間的に目眩のような感覚がリリスを襲う。
「え?
ちょ、ちょっと待てリリスっ──!」
リリスの唐突な行動に、悠人はその場で固まった。
「なんでだ。
まだ何も指示してないぞ──!?」
驚愕の叫び声が自然に漏れる。
焦燥と恐怖が混じった声が、閉鎖された空間に響き渡った。
背後では、零華と襲撃者たちとの戦闘による爆音が絶え間なく鳴り響いている。
リリスの目の前に流れる情報は、無数の感情パターンや心理反応、対人関係ログによって構成されていた。
データの量は桁外れであり、そこには端から端までびっしりと文字と数値が詰まっている。
光の揺らぎと情報が流れ込む速度が、悠人の視覚神経を強く刺激した。
頭の中に激しいざわめきを生じさせる。
悠人は本能的に一歩後ろに下がった。
しかし、相変わらずリリスは動じない。
静かな顔つきのまま、光の線は一層強く装置へと絡みついていく。
「停止しなさい!」
零華が声を張り上げた。
すでに襲撃者たちを鎮圧したようである。
彼女の足元には、完全に倒れている斎藤たちの姿があった。
茜もそのそばに立ち、リリスの様子を唖然としながら見つめている。
零華の指先に力が入り、剣の柄がミシリと音を立てた。
その口調には強い威圧が混じり、緊迫した空気が肌にまとわりつく。
だが、リリスの身体はまるで固まった彫刻のように微動だにせず、目の前で光の流れだけが増幅していった。
「うわっ、まぶしっ──!」
茜の視線はスクリーンに釘付けになり、やがて激しく点滅する光の画面から思わず目を背ける。
解析不能な膨大なデータが頭の中で渦を巻き、視覚と聴覚が情報過多によって混線していた。
悠人はわずかに前かがみになり、目を細めてリリスを見つめる。
(こ、こいつは──!)
光の線と装置の間で、見えない強大な力が働いているのを肌で感じていた。
もしこのままリリスが学習を続ければ、予想もつかない変化が起こるかもしれない。
理性と本能の間で揺れる思考が、悠人の精神を圧迫した。
大きな呼吸をして、頭の中で必死に状況を整理する。
リリスが自律的に学習を開始したことで、未知の変化が発生している可能性は極めて高かった。
制御手段は限られており、状況判断を誤れば深刻な被害は避けられない。
だが、成功すればそれはすなわち、リリスの”心”の獲得を意味していた。
悠人が懸命に思考を巡らせる中、光はさらに勢いを増して続いていく。
スキルを用いて悠人自身もコンピューターの一部を分析しようと試みると、途端に人間の感情の「重さ」や「温度」、心理反応の「振幅」、対人関係ログの「微妙な間合い」などの情報が、濁流のように脳内へ流れ込んできた。
あまりにも膨大な情報量に、慌てて悠人は分析を中止する。
ごく短時間だというのに、視覚と感覚の両方に異常な刺激を与えていた。
零華はリリスに一旦やめるよう叫び続けるが、リリスからの反応はない。
「感情データの取得は、マスターの目標達成に有効と判断しました」
リリスは零華には目もくれず、悠人の方を真っ直ぐ向いて答える。
「俺の……目標?」
悠人は言葉を失った。
確かに自分は思ってはいた。
リリスに感情を持たせたい、と。
だが、その願いが現実化する速度と方法は、彼の想像をはるかに超えていた。
何より、無許可で勝手に始まったのだ。
「これ、安全なの!?」
茜の声が震える。
「おいリリス、答えるんだ!」
「不明です、マスター」
リリスは悠人の質問にだけ、淡々と答えた。
それは無視というよりも、悠人以外の他人の返答にまで思考のリソースを割く余裕がないためであるように見え、納得がいく。
リリスの発する声に、わずかな揺らぎが混じったようにも感じられた。
言葉の抑揚ではなく、微細な物理的振動として伝わってくる。
それは、普段の完全な無表情や無感情からは決してありえない変化であった。
「……まずいわ」
零華の声は低く、歯を食いしばる気配まで聞こえるかのように重い。
剣を構えた手が、わずかに震えていた。
「感情は、知識みたいに扱えるものじゃない」
悠人はその言葉に息を呑む。
零華の言う通りであった。
その厳然たる事実を、先のネクロスの一件で学んだはずだ。
(俺は……
何をさせてるんだ……)
光がリリスの身体から装置へと伸び、金属面に反射した青白い輝きが周囲を完全に包み込む。
もし、この光が何か予想外の変化を引き起こしたら、二度と取り返しがつかないだろう。
悠人の視線は、ただリリスだけに釘付けになっていた。




